第五十六話 4月21日 先輩という呼ばれ方
図書委員のオリエンテーションは、4月の第4週の火曜日の放課後だった。
図書室の中央に、丸テーブルをひとつ出して使った。
宇陀さんがパイプ椅子を五脚並べていた。
窓から4月の光が斜めに差していた。
央は少し早めに来て、棚の端に立っていた。
去年の自分は、このオリエンテーションの日に何をしていたか。
よく覚えていない。
ただ、緊張はしていたような気がした。
(……今日は違う位置にいる)
と思った。
先輩という位置にいる。
去年とは、立ち方が違う。
みおが入ってきたのは、開始の五分前だった。
扉を少し横向きに通り、椅子の前に立った。
いつも通り、背が高かった。
図書室に入るたびに頭を少し傾ける仕草が、もう自然になっていた。
みおが央を見て、わずかに目を細めた。
「……早いですね」
「……少し」
「わたしも早いつもりでしたが」
「……俺の方が早かった」
「……そうですね」
みおが椅子を引いた。
央も自分の椅子に腰を下ろした。
宇陀さんが資料の束を確認していた。
静かな午後だった。
扉が開いた。
朔だった。
眼鏡を指先で直しながら入室した。
お盆の上に温かいお茶が乗っていた。
カウンターの脇のポットから入れてきたらしかった。
「……来ました」
「サクさん、お茶まで」
央が言った。
朔が宇陀さんのカウンターにお茶を一つそっと置いた。
「宇陀さんの分だけですが」
「ありがとうございます」
「年に一度のことなので」
それだけで、去年の図書委員の空気が少し戻ってきた気がした。
(……去年もこういう感じだったな)
央は少し思った。
変わったことと、変わらないことが、この部屋にはある。
定刻になって、宇陀さんが「始めましょうか」と言いかけた。
と同時に、扉が控えめに開いた。
慧だった。
後ろにほのかが続いた。
「……来ました! すみません、少し遅くなりました」
声が図書室にしてはよく通った。
ほのかがすぐに「シー」と小声で言い、慧が「あ、ごめん」と声を落とした。
宇陀さんが静かに「大丈夫ですよ。どうぞ」と言い、残りの椅子を手で示した。
慧とほのかが着席した。
慧が央の方をちらりと見た。
目が合って、慧が軽く会釈した。
ほのかがみおを見た。
みおが小さく頷いた。
五人が揃った。
宇陀さんが資料を配った。
「今日は主に年間の活動予定と、委員としての基本的なルールをお伝えします。質問は随時どうぞ」
慧が資料を受け取り、すぐに読み始めた。
ほのかはノートを出して、きれいな字で「図書委員・活動メモ」と表紙に書いた。
央はそれを横目で見て、去年の自分を少し思い出した。
去年は何もメモしなかったような気がした。
ほのかの方が丁寧だ、と思った。
宇陀さんが説明を始めた。
本の返却・貸出の対応方法。
棚の整理の基準。
月一回の委員会の日程。
図書室の鍵の管理について。
慧は聞きながら時々うなずいていた。
ほのかはメモを続けていた。
一通りの説明が終わったところで、宇陀さんが言った。
「今日初めてこの委員会に参加する一年生のふたりに、自己紹介をしてもらいましょうか。先輩方も改めて、ひとことずつ」
慧がまっすぐ前を向いた。
「放出慧です。"はなてん"って読みます、大阪の駅と一緒です。図書委員、楽しみにしてました。よろしくお願いします!」
元気のよい声だった。
えくぼが出た。
ほのかが続いた。
「乙訓ほのかです、"おとくに"って読みます。……先輩方はもう読めましたよね?」
そう言いながら、央の方を見た。
「……少し考えました、先週」
「やっぱり。けいくんの方が難しいですよね」
「どちらも、すぐには読めなかった」
「ですよね。よろしくお願いします」
ほのかが軽く頷いた。
朔が続いた。
「比叡朔です。周りから"サクさん"で通ってます。よろしくお願いします」
慧が名簿の書類を見て、少し首をかしげた。
「……"ひえい"って読むんですか」
「そうです」
慧がほのかに向かってこっそり「難しい名前の先輩たちだ……」と言うと、ほのかが「ちょっと」と肘でつついた。
宇陀さんが少し、口元を動かした。
今度はほのかが顔を上げた。
「ちょっと待って、名前が全員すごくないですか」
全員が、ほのかを見た。
「けいくん、放出で"はなてん"。わたし、乙訓で"おとくに"。比叡さんが"ひえい"」
「……全員地名ですね」
央が少し考えてから言った。
少し間があった。
「……葛城もそうです」
みおが静かに続けた。
「あ、ほんとだ!」
ほのかが手を打った。
「葛城って奈良の地名ですよね。わたしも"おとくに"は京都だし」
「そうですね。乙訓郡って、今も地名として残ってます」
「勢多も地名です」
央がもう一度言った。
「え、勢多先輩も!?」
「滋賀の。琵琶湖のあたり」
「全員じゃん!」
慧が声を上げた。
ほのかがすかさず「シー」と言い、慧が「すみません」と首をすくめた。
(……賑やかだな)
去年のオリエンテーションは、もう少し静かだった気がする。
悪くない賑やかさだった。
みおの番になった。
「……葛城みおです。よろしくお願いします。何か分からないことがあれば聞いてください」
慧が少し背筋を正した。
止まり方が、少し特徴的だった。
先週の廊下でも同じだったが、みおを正面から見るたびに、一拍置くような間が生じる。
「……はい、よろしくお願いします。あと」
慧が続けた。
「先輩って、今年から2年生ですよね」
「そうです」
「入試のとき、廊下で見たのが先輩だったと思うんですけど」
みおが少し、慧の方を向いた。
「……そうですか」
「あとから気づいて、なんか縁があるなって思って」
「……縁ですね」
みおが静かに言った。
一拍置いてから、
「……覚えていたんですか、その日のことを」
「なんか印象に残ってたんです。後ろ姿だったんですけど」
「……そうですか」
みおが少し、前を向いた。
(……向こうも、覚えていたんだな)
どこかで線がつながる感じがした。
央の番になった。
「……勢多央です。よろしく。何かあれば遠慮なく」
「はい! よろしくお願いします」
慧がはっきり言った。
ほのかも続いた。
宇陀さんが「では、今日はこのあと棚の整理を少し手伝ってもらいましょうか」と言った。
棚の整理は、宇陀さんが区画を分けて担当を決めた。
央と慧が文庫コーナー。
みおとほのかが新書コーナー。
朔が雑誌・参考書の棚。
それぞれが動き始めた。
央は文庫の棚を確認しながら、慧に並べ方を説明した。
「著者名のあいうえお順。読み仮名はラベルに書いてあります」
「あ、ラベルに書いてあるんですね」
「……去年は俺も最初知りませんでした」
「そうなんですか!」
「宇陀さんに教えてもらいました」
慧が棚を一段ずつ確認しながら本を並べ始めた。
手つきは少し不器用だったが、ラベルをきちんと読んでいた。
「先輩、本は好きですか」
「好きです」
「どんなジャンルですか」
「……文庫。新書。ジャンルはわりとなんでも」
「俺もジャンル雑食なんですよ。SF好きなんですけど、最近冒険小説も読んでて」
「どれを読みましたか」
慧が一冊挙げた。
央がそれを少し考えた。
「……その作者の、もう一冊は読みましたか」
「読んでないです」
「面白いですよ。先に今の棚が終わったら探してみてください」
「ほんとですか、嬉しい」
慧がまた笑った。
(……去年の自分は、こういう感じで話せたか)
去年は宇陀さんに聞くことが多かった。
先輩に本の話を聞けたかどうかは、覚えていなかった。
慧の方が、最初から馴染むのが速い。
棚の向こうから、ほのかの声が聞こえた。
「葛城先輩、この棚の上の段、届きますか」
「……届きます」
みおが答えた。
少し間があって、本が棚に戻される音がした。
「……すごい」
ほのかが小声で言った。
みおが静かに返した。
「……よくある反応です」
ほのかが少し黙ってから、「ごめんなさい、失礼でした」と言った。
「……いいえ。本当によくあるので、むしろ慣れています」
「あー」
ほのかが少し顔を伏せた。
それからゆっくり顔を上げて、もう一度言った。
「それはそれで……なんかごめんなさい」
「……どうしてごめんなさいなんですか」
「慣れてるってことは、ずっとそういう目で見られてきたってことじゃないですか。慣れなくていいことに慣れちゃってるって、それ結構しんどくないですか」
少し間があった。
「……考えたことがなかったです」
みおが静かに言った。
「わたしの身長のことを聞かれるとき、たいていの人は先に驚くので。最初にごめんなさいと言う人は、珍しいです」
「……あ、なんか逆に恥ずかしい」
「そんなことはないですよ」
棚の向こうが、少し静かになった。
(……乙訓さんは、ちゃんと見ている)
央は少し思った。
みおが「考えたことがなかった」と言ったのが、少し引っかかった。
慣れていること、の意味が、ほのかの一言で少し変わった気がした。
整理が一通り終わったとき、窓の外が夕方の色になっていた。
宇陀さんが「お疲れ様でした。今日はこれで大丈夫です」と言った。
慧が「面白かったです、棚の整理」と言うと、朔が小さく笑った。
「……面白かった、ですか」
朔が少し、慧の方を見た。
「はい。なんか、ちゃんとした順番があるのが好きで」
「棚の整理が好きな人は、委員会に向いていると思います」
「向いてたんだ!」
慧が少し声を上げた。
ほのかが「シー」と言い、慧が「すみません」と言った。
宇陀さんが「棚の整理が好きな人は、確かに向いてます」と静かに言い添えた。
帰り道、央とみおが廊下を並んで歩いた。
朔が少し前を歩いていた。
慧とほのかはまだ図書室で、ほのかが宇陀さんに何か質問していた。
「……先輩らしくなりましたね」
みおが言った。
「……どう見えましたか」
「慧さんに本の話をしていたとき、宇陀さんみたいでした」
「……宇陀さんみたい」
央が少し考えた。
悪い意味ではない気がした。
「……そうですか」
「好きなことを、相手の速度で話せる人だと思います。央さんは」
央が少し、みおを見た。
「……それはみおから見て、ですか」
「……はい」
「……よく観察していますね」
「一年間、見てきたので」
以前と同じ言葉だった。
みおが気づいているかどうかは分からなかった。
央は何も言わなかった。
廊下の窓から夕方の光が差していた。
4月の光は、まだ柔らかかった。
「……ほのかさんが、面白いことを言っていました」
みおが続けた。
「聞こえていましたか?」
「……少し。棚の向こうから」
央の回答に、みおが頷く。
「そうですか。……慣れなくていいことに慣れているのは、しんどいかもしれないと」
「……みおはどう思いました」
みおが少し間を置いた。
「……考えたことがなかったです、本当に。驚かれることが当たり前になっていたので、そういう見方があるとは思わなかった」
「乙訓さんは、ちゃんと見ていますね」
「そうですね」
みおがまた少し歩いた。
「……でも、今日は驚かれ方が少し違いました」
「……どう、違いましたか」
「圧倒されるより、先に人として話しかけてもらった感じがしました」
央が少し、みおを見た。
「……それはよかったです」
みおが静かに頷いた。
それだけだった。
校門の前で、後ろから足音がした。
慧とほのかだ。
「先輩、待っててくれてたんですか」
「……いえ、ちょうど同じタイミングだっただけです」
「そうなんですか。でもよかった、先輩方に聞きたいことがあって」
「図書室って、放課後だったら毎日来てもいいんですか」
「……もちろん、当番じゃない日も来て大丈夫です。宇陀さんに一言言うと尚いいです」
「やった!」
慧が少し声を上げた。
ほのかが「また声が出てる」と言った。
「委員会の当番日じゃなくても本が読みたくて来てる先輩、いますか」
「……います。俺も来ていることが多いです」
「あ、勢多先輩もですか。じゃあよく会えますね」
「……そうですね」
「本の話、またしてもいいですか」
「ええ、いつでも」
慧が嬉しそうに笑った。
ほのかがみおを見た。
「葛城先輩も、放課後来ることありますか」
「……たまに来ます」
「そのときに話しかけてもいいですか」
「もちろんです」
「よかった。本の趣味とか、聞いてみたくて」
「……ミステリーとSFが多いですが、よければ」
「ミステリー! あたしも読みます。おすすめ聞かせてください」
「はい。次に来たときに」
「はい!」
ほのかが頷いた。
嬉しそうな顔だった。
校門から外に出た。
慧とほのかは住んでいる方向が違うらしく、少し手前で「失礼します」と別れた。
慧が振り返った。
「来週も来ます!」
ほのかが「こっちから来るものだよ」と言いながら引っ張った。
ふたりが角を曲がっていった。
みおが少し、ふたりが消えた角を見た。
「……先日の、あのふたりと、今日のあのふたりが重なりました」
「先日の?」
「入試の日のことです。廊下を歩いていたのを」
「……ああ」
央が言った。
「でも、今日の方がよく見えた気がします。名前も声も分かったから」
「……そうですね」
ふたりで少し、立ち止まった。
4月の夕方が、まだ明るかった。
「……先輩というのも、悪くないですね」
みおが静かに言った。
「……ええ、確かに」
央が言った。
去年は自分たちが初めてこの場所に来た。
今年は、また別の誰かが来た。
そういう積み重ねが、この場所にはある。
4月の風が、また一度吹いた。
春の終わりが、少しずつ近づいていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




