第五十五話 4月17日 5センチの秘密
健康診断は、4月の第三週の木曜日だった。
朝のホームルームで笠置先生から「今日は健康診断なので体育着を持ってきた人は更衣室で準備を」と連絡がきた。
「去年もこのくらいの時期だったっけ」
「そうだったね」
太秦の問いに、さやかが答える。
みおは静かに机の中を確認した。
問題はなかった。
(……今年も、来る)
養護教諭との交渉が、今年も来る。
去年は「特別に198cmで記録してください」とお願いして、少し考えてから「……分かりました」と言ってくれた。
その養護教諭が今年も担当かどうかは、まだ分からなかった。
廊下に出たとき、太秦が隣に来た。
「なあ、今年って身長変わった人いると思う?」
「……どうでしょう」
「葛城さんはどう?」
「……どうでしょう」
「どうでしょうって二回言った」
「……どうでしょう」
「三回になった」
みおが前を向いた。
太秦が「まあいいか」と言った。
央が廊下の少し前を歩いていた。
みおは数歩分の距離を保ちながら、その後ろを歩いた。
(……去年は隣の席だったが、今年は斜め前だ)
席が変わっても、廊下を歩く順番が変わるわけではなかった。
ただ、いつもと同じように、前を歩いている。
健康診断は体育館の横の特別教室を使って行われた。
視力・聴力・身体測定・問診の四ブースが並んでいた。
クラスごとに順番に回っていく形式だった。
みおは身体測定のブースに来たとき、少し立ち止まった。
担当の養護教諭が、去年と別の人だった。
(……また説明する)
と思った。
覚悟を決めた。
自分の番になった。
みおが計測台に乗った。
養護教諭が計測器を操作した。
数値が出た。
養護教諭が少し、固まった。
みおが静かに口を開いた。
「……あの」
「え、あ、はい」
「……198cmで記録していただけますか」
養護教諭が数値と、みおの顔を、交互に見た。
「……え?」
「毎年お願いしているんですが、今年は先生が変わってしまって」
「毎年……?」
「……去年の先生にご確認いただければ」
養護教諭がしばらく止まった。
クリップボードと数値と、みおの顔を三往復した。
「……その、理由を聞いてもいいですか」
「……身長のことを、あまり知られたくないんです。できれば198cmで通したいと思っています」
「……198cmでも、十分……」
「はい、おっしゃる通りです。それでもお願いしたいんです」
養護教諭がもう一度、数値を確認した。
みおは静かに待っていた。
少し経って、養護教諭が「……今年限りで考えさせてください」と言った。
「……よろしくお願いします」
みおが言った。
静かに頭を下げた。
養護教諭が数値を198と記録した。
みおが「ありがとうございます」と言って、次のブースに移った。
(……215cm)
去年より5cm増えていた。
昨年は210cmだったのが、今年で215cmになった。
成長期が続いている。
(……いつまで伸びるんだろう)
と思ったが、答えは出なかった。
身体測定のブースを、央は去年と同じような感覚で終わらせた。
186cm。
去年が185cmだったので、1cmほど伸びていた。
大きな変化ではなかった。
(……みおは、今年どれくらいか)
と思った。
そのことは聞けなかった。
みおが、身長の数値を隠していることは、なんとなく分かっていた。
詳細は聞いていないが、そういうことだろうという察しはある。
聞かないでいる方がいい、というより、みおが話したいときに話せばいい、と思っていた。
次のブースに向かった。
一通り終わって、教室に戻る廊下を歩いていたとき、見覚えのある後ろ姿があった。
背の高い男子生徒だった。央より目線ひとつ分、高い。
先日、図書室に来た子だ。
1年生の健康診断が、2年生とほぼ同じ時間帯に行われていたらしかった。
男子生徒が振り返った。
央に気づいた。
「あ、先輩!」
声が廊下に響いた。
元気な声だった。
「おはよう。……委員会については決まりましたか」
「申込書、今週中に持っていくって言ったので。……あ、今日持ってきてるんですよ」
「……そうですか」
「放課後でいいですか」
「……待ってます」
男子生徒が少し笑った。
歯を見せる笑みだった。
そのとき、男子生徒の後ろからもうひとり近付いてきた。
図書室で一緒だった女子生徒だ。
小柄ではないが、ふたり並ぶと頭ひとつ分以上の差がある。
女子生徒は央に気づいて、きちんと頭を下げた。
「先輩、ですよね。先日、図書室に伺ったときの」
「そうです。ええと……」
「あ、乙訓です。乙訓ほのか。甲乙の乙に、訓読みの訓で」
「……おとくにさん、ですか。勢多央です。勢いに多いで、せたと読みます」
ほのかが少し、嬉しそうに笑った。
「よかった。けいくんの名前の方が難しいですよね、はなてんって」
ほら、とほのかが横にいる男子生徒を肘で小突く。
「あ、すいません。俺、放出慧です。放出で、はなてん」
「……どちらも、すぐには読めないですね」
「ですよね!」
ほのかが言った。
元気のよさは、ふたりで共通するようなところがあった。
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
みおが歩いてきた。
慧が、みおを見た。
一瞬、止まった。
止まり方が、少し特徴的だった。
驚きというより、圧倒されるような止まり方だった。
「……先輩ですか」
慧が聞いた。
声が少し、普段より低くなった。
「……2年生です。葛城みおといいます」
みおが静かに言った。
「あ……、よろしくお願いします。放出です、放出慧」
「……放出さん、ですね。図書委員に入ると聞いています」
「はい! 来てよかったと思います。なんていうか、いい雰囲気だったので」
「それはよかったです」
ほのかがみおを見上げた。
「……先輩、身長、どれくらいですか」
ほのかが聞いた。
「ほのか」
慧が小声で言った。
「え、だってびっくりして。ごめんなさい、失礼でした」
「……よくある質問なので」
みおが静かに言った。
「198cmと言っていますが、実際はもう少しあるかもしれないです」
「もう少し、というのは」
「……よく分からないんです、自分でも」
ほのかが「そっか」と言った。
それ以上は聞かなかった。
(……「もう少し」か)
央は少し、みおを見た。
「もう少し」という言い方を選んだことに、何かが含まれている気がした。
2年A組の教室に戻ったとき、太秦が央の席に来た。
「おうくん、今年も185?」
「……186だった」
「1cm伸びたじゃん」
「そうだな」
「俺も1cm伸びてたわ。171になってた」
「よかったな」
「よかったよかった」
太秦が腰を下ろした。
少し間があってから、太秦がふと窓の方を見た。
窓際の最後列で、みおが本を出して読んでいた。
教室の中で、ひときわ目立つ位置にいる。
(……おうくん、昔、背の高い女の人が好きって言ってたよな)
声には出なかった。
出す気もなかった。
(……あのとき小学生だったけど、本人まだ覚えてるかな)
太秦がまた央を見た。
央はノートを開いていた。
(……まあ、覚えてるだろうな)
それだけだった。
それだけで十分だと思った。
放課後、慧が図書室に申込書を持ってきた。
ほのかも一緒だった。
「持ってきました」
「ありがとうございます」
央が受け取った。
宇陀さんが確認した。
「ふたりとも、これで正式に委員になります。次回の委員会で詳しい説明をしますね」
「はい!」
「よろしくお願いします」
慧が部屋を見回した。
ほのかも本棚を眺めた。
「……先生、この棚の並び方、ジャンルごとですか」
ほのかが宇陀さんに聞いた。
「はい。あと背の高さ順で並べているコーナーもあります」
「整理されてますね」
「委員の人たちが毎年きちんとやってくれているので」
ほのかが本を一冊取り出した。
表紙を見た。
また棚に戻した。
「……さっきみた、葛城先輩ってここの委員ですか」
「そうです」
「なんか、先輩なのに初めて見る感じがしなかった。……入学前の説明会のとき、来ていましたか」
宇陀さんが少し考えた。
「それは覚えていませんが、もしかしたら」
慧が「俺は覚えてる」と言った。
「廊下で一回見た気がする。でも顔は見えなかった」
央が少し、止まった。
「……入試のときか」
「そうっす。廊下歩いてたときに、なんか長い手足が通り過ぎた気がして」
ほのかが「背中しか見てないのに覚えてるの」と言った。
慧が「なんか印象に残ったんだよ」と言った。
(……あのとき図書室の外の廊下で見えたふたりが、そのとき廊下でみおの後ろ姿を見ていたことになる)
央はそういう計算を少し頭でやって、少し可笑しいような気持ちになった。
「……そうか。それは、縁があるんだな」
慧が「縁ですかね」と言いながら笑った。
慧とほのかが帰った後、図書室は静かになった。
宇陀さんが書き物をしていた。
央が本棚の整理を少し続けた。
ふと、宇陀さんのデスクに目が行った。
紙が一枚、置いてあった。
前に見たことのある、縦書きの、細かい字の。
「……あの話は、続いていますか」
央が聞いた。
宇陀さんが顔を上げた。
「少しずつ」
「……そうですか」
「書けているような、書けていないような。でも止めてはいないです」
「そうですか」
「……読んでいただく段階になったら言います」
「……待ちます」
宇陀さんが少し、目を細めた。
それだけだった。
央が棚の整理を続けた。
外が夕方の色になっていた。
図書室を出て廊下を歩いていると、みおがいた。
教室の方から来るところだった。
今日は図書室に来ていなかったが、ちょうど帰り道が重なった。
「……今日も図書室でしたか」
「整理と、宇陀さんと話していました」
「宇陀さん、元気でしたか」
「元気でした。書き物をしていました」
「……あの、物語の」
「続いているそうです」
「……そうですか」
ふたりで廊下を歩いた。
窓から夕方の光が斜めに差していた。
しばらく歩いて、みおが少し足を止めた。
「央さん」
「……なんですか」
「……今年の身長、聞きますか」
央が少し、みおを見た。
「……聞いていいなら」
みおが少し間を置いた。
窓の外で、風が一度吹いた。
4月の光が廊下を照らした。
「……やっぱり、まだ少し待ってください」
みおが静かに言った。
「……分かりました」
央が頷く。
それだけだった。
ふたりはまた歩き出した。
廊下が、夕方の色に染まっていた。
待つ、ということは、みおが言う日が来るということだ。
央はそう思った。
急かす気持ちは、なかった。
もう少し先に、何かある。
それだけが、今日のことだった。
校門を出る少し前に、ひなが走ってきた。
A組の廊下の前で待っていたらしかった。
「来ちゃった」
「……来ると思ってた」
さやかが言った。
「ほんと?」
「うん。別に待ってていいよって言えばよかったか」
「いや来ちゃったから」
みおが「……よかったです、来てくれて」と言った。
ひなが「みお、それ嬉しい」と笑う。
五人で校門に向かって歩き出した。
太秦が「別クラスになっても一緒に帰るじゃん」と言った。
「当然じゃん」
ひなが胸を張って応える。
さやかも頷きで返す。
「うん、当然」
「……当然です」
「……そうですね」
みおと央も口々に同意した。
4月の空が、少し赤くなっていた。
健康診断の日が、静かに終わろうとしていた。
帰り道の途中で、スマホが振動した。
ことねからだった。
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ことね:ねえ聞いて
ことね:朔くんが春休みのうちに
ことね:うちが大学受かったとして通いやすい路線の喫茶店
ことね:もう3件リストアップしてたんやけど
ことね:どういうこと
ことね:ありがとうはあるけど
ことね:どういうこと
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央がそれを読んだ。
隣でみおが画面を見た。
「……どういうこと、の後に何も言えていないんですね」
「……言えないだろうな」
「ことね先輩らしいですね」
「でも、ありがとうは言っている」
「そうですね」
みおが少し、唇を動かした。
「……朔さんは準備する人ですから」
「……そうだな」
央がことねに返した。
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央 :朔さんらしいな
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ことね:そうなんだよ!!
ことね:らしいんだけど
ことね:でもそっか
ことね:らしいんだ
ことね:うん
ことね:頑張ろ
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央が「頑張ろ」という三文字を読んだ。
(……ことねちゃんが「頑張ろ」と言った)
思えば、ことねが「頑張ろ」と言うのを聞いたのは、あまりなかった気がした。
大抵は「頑張ってね」と言う人だった。
3年生になったんだ、と思った。
「……ことね先輩が『頑張ろ』、ですか」
「みおも気になりましたか」
央がみおを見た。
「なんか、らしくないなとは思いましたが」
「……わたしは、らしいと思いました」
「……そうですか」
「ことねさんは、大切なことは自分に向かって言う人です。励ますのが他の人だとすれば、頑張るのは自分ですから」
央が少し止まった。
「……よく見ていますね」
「一年間、見てきたので」
みおが前を向いた。
央も前を向いた。
4月の夕方が、少し深くなっていた。
健康診断の日が終わって、明日からまた普通の日が始まる。
みおは「少し待ってください」と言った。
待てる、と思った。
いつでも。
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