第五十四話 4月8日 また、新しい席から
4月の始業式の朝は、天気がよかった。
空が青く、風が少しあった。
前の日に雨が降ったので、地面がわずかに湿っていた。
桜は、咲いていた。
央は朝の珈琲を飲みながら、窓から空を見た。
4月の朝がこんなに明るかったのは、去年も同じだったと思う。
去年の4月の始業式の朝、自分は何を考えていたか。
あまり覚えていなかった。
隣の席に誰が来るか、そのときはまだ知らなかった。
腕時計を見た。
6時47分。
まだ少し早い。
珈琲をもう一口飲んだ。
外で鳥が鳴いた。
桜の枝が少し揺れた。
今日から2年生だ、と思った。
去年の今頃とは違う春が、始まろうとしていた。
学校に着いたとき、太秦が校門の前にいた。
「おうくん」
「おはよう」
「始業式ってなんかそわそわするよな」
「……クラス替えがあるから」
「それだよな。葛城さんと同じクラスだったらいいけど」
「……そうだな」
「いやそっちか。俺じゃなくて葛城さんの話かよ」
「……どっちもだ」
「まあそうか」
太秦が頭の後ろを掻いた。
校門の脇の桜が、半分ほど咲いていた。
先週は蕾だったのが、週末に一気に開いたらしかった。
「桜、咲いたな」
「今年は少し遅かったな」
「そうかなあ」
太秦が笑った。
ふたりで校門をくぐった。
クラス分けの張り紙は、昇降口の横に出ていた。
人が集まっていた。
央と太秦も近づいた。
2年A組から順番に見ていった。
勢多 央。
「……あった」
「見つけた? 俺もいるかな」
太秦が央の隣から覗き込んだ。
「太秦 拓海。あったわ」
「……俺もいた」
「やった」
太秦が少しほっとした顔をした。
央はその下の列を見た。
葛城 みお。
「……いた」
「え、葛城さんも?」
「同じクラスだ」
「やば、全員か」
太秦がリストを指でたどった。
「さやかさんもいる。去年とほぼ同じメンツじゃん」
「……そうだな」
「ひなちゃんは」
別のリストを確認した。
「今年もC組だ」
「あ、そっか。残念だな」
「……また違う形で会える」
太秦が「まあそうか」と言った。
張り紙の前に、少し立ち止まっていた。
たくさんの名前が並んでいた。
去年の春もこうして自分の名前を探したことを思った。
あのとき隣に誰が並ぶかは、この紙には書いていなかった。
(……今年は分かっている)
央は思った。
去年と、そこが違った。
何が分かっているかが、一年前とは違う。
ホームルームで席が発表された。
2年A組は、配置が変わっていた。
央の席は、窓際から二列目、後ろから二番目だった。
(……去年と違う場所だ)
と思った。
去年は最後列だった。
みおが隣の席だった。
今日から、それが変わる。
少し遅れて、みおが教室に入ってきた。
背が高いので、入口で少し首を傾けた。
いつも通りだった。
みおが自分の席を探した。
視線がゆっくり動いた。
窓際の最後列で止まった。
央の席から、斜め前だった。
隣ではない。
でも、見える距離だった。
みおが席に着くとき、一度こちらを見た。
目が合った。
「また、同じクラスでしたね」
「……うん」
「……よかった」
みおが静かに言った。
それだけだった。
前を向いた。
央も前を向いた。
(……よかった)
と思った。
それだけだったが、それで十分だった。
窓から桜が見えた。
去年の席からは見えなかった角度の桜だった。
場所が変わっても、見えるものは変わらなかった。
休み時間に、さやかが央の席まで来た。
「今年も同じクラスだったね、ひな以外」
「……そうだな」
「ひなとはLINEで話した。また合流できるからいいって言ってた」
「……よかった」
「よかったよかった」
さやかが少し笑った。
みおもそちらを向いた。
「さやかは今年、何か変えることありますか」
「そういうのあんまり立てないかな。やりたいときにやる方が合ってる」
「……そうですか」
「みおは?」
「……去年とそんなに変わらないかもしれないですが」
「変わらなくていいじゃん。続ける部分は続けたらいいだけで」
「……そうですね」
みおが少し、頷いた。
太秦が戻ってきた。
飲み物を手に持っていた。
「なんか喋ってた?」
「今年の方針を」
「俺も。英語をなんとかしたい」
「いつも言ってるやつじゃん」
「今年こそ本気」
「どこが普段と違うの」
「気合いが違う」
さやかが「それをいつも言ってる」と言った。
太秦が「今年は本当に」と応えた。
みおが少し、口の端を動かした。
「……今年もよろしくお願いします」
みおが言った。
四人に向けて、静かに言った。
「こちらこそ」
さやかが言った。
「よろしく」
太秦が言った。
「……よろしく」
央が言った。
四人で少し、間があった。
悪くない間だった。
去年の4月、四人でこうして話したのはいつだったか。
最初はもう少し、ぎこちなかったような気がした。
今はそれがない。
窓から桜が見えた。
4月の光が、教室の床に伸びていた。
さやかが立ち上がろうとして、少し止まった。
「……去年と同じクラスって、なんかちょっと変な感じだよね」
「変な感じ?」
「いい意味で。去年と全部同じじゃないのに、続きみたいな感じがする」
みおが少し、さやかを見た。
「……続きですね」
「そう。続き」
太秦が「続きかあ」と言った。
央が「……そうだな」と続いた。
さやかが「じゃあまた」と言って戻っていった。
太秦も飲み物を手に立ち上がった。
ふたりが離れた後、央とみおがそれぞれ前を向いた。
(……続き、か)
央は思った。
続きというのは、始まりがあるということだ。
去年の春があって、今年の春がある。
窓の桜が、また揺れた。
放課後、央は図書室に寄った。
宇陀さんがカウンターにいた。
何か書き物をしていたが、央が入ると顔を上げた。
「来ましたね」
「新年度の挨拶に」
「新しいクラスはどうですか」
「……去年とほとんど同じです」
「それはいい同じですか、普通の同じですか」
央が少し考えた。
「……いい方だと思います」
「そうですか。よかった」
宇陀さんが静かに言った。
「……宇陀さんの方は」
「今年も変わらずです。本は毎年、同じだけ入ってきますから」
「それはいい同じですか」
「いい方ですね」
宇陀さんが少し目を細めた。
央が本棚の整理を手伝い始めたとき、図書室の扉が開いた。
ふたりの新入生が入ってきた。
背の高い男子と、その少し後ろに立つ女子だった。
制服が新しかった。
まだ着慣れていない感じがあった。
男子が部屋を見回した。
目が大きく、活発な印象だった。
央の視線に気づいて、きちんと頭を下げた。
「あの、図書委員って、ここで申し込みますか?」
宇陀さんがカウンターから立った。
「はい。パンフレットをどうぞ」
一枚ずつ渡した。
ふたりが受け取った。
「読んで、入りたければ申込書を出してください。今週中で大丈夫ですよ」
「分かりました。ありがとうございます」
男子が答えた。
女子が頷いた。
ふたりとも、部屋をゆっくり見回していた。
(……去年の自分も、あんな感じだったかもしれない)
と央は思った。
パンフレットを手に持って、部屋を見回す。
どんな場所か、まだ分からない。
どんな人がいるか、まだ分からない。
男子が女子の方を見た。
「どう思う?」
「いいんじゃない。居心地よさそう」
「俺もそう思う」
短いやりとりだった。
声のトーンが、仲のいい人間同士のそれだった。
長い時間、一緒にいた人同士が自然に持つ距離感だった。
ふたりが扉の方を向いた。
去り際に、男子がもう一度、央の方を見た。
「先輩ですか?」
「……2年生です」
「よろしくお願いします。来週、申込書持ってきます」
「待ってます」
ふたりが出ていった。
図書室に、また静けさが戻った。
央が棚の向こうから出てきた。
「……仲がいいんですね、あのふたり」
「幼馴染だそうですよ。入学前の説明会で話してくれました」
「……そうですか」
央が少し間を置いた。
(……廊下で見た、あのふたりだ)
入試の日、図書室の前の廊下を並んで歩いていた背中を思い出した。
距離の近さが、長い付き合いのある人同士に見えた、と思ったことを。
「見た気がします。あのふたり」
「どこで?」
「……入試の日に、この学校の廊下を歩いていたのを」
「ああ。そうかもしれないですね」
宇陀さんが静かに頷いた。
「……今年は、あのふたりがここに来るんですね」
「そうですね。楽しみですね」
窓から桜が見えた。
4月の光の中で、白くほぐれていた。
(……去年の自分も、こうして来た)
パンフレットを見て、図書委員があることを知った。
横には、みおがいた。
どうなるか、来るまで分からなかった。
あのふたりも、来てみるまで分からないだろう。
でも、部屋を見回したときの顔が、央の去年に似ていた気がした。
「居心地よさそう」という言葉も、そのときの自分が感じたことと同じだった気がした。
(……でも、きっと気に入る)
と思った。
根拠はなかったが、そう思った。
帰り道、みおと一緒になった。
校門を出たところで並んだ。
桜が道に沿って続いていた。
花びらが一枚、ふたりの間を通り過ぎた。
去年の春、この道を初めて通ったとき、隣に誰かがいることはなかった。
今日は隣にいる。
しばらく黙って歩いた。
悪くない黙り方だった。
「新入生が図書室に来ました」
央が言った。
「……そうですか」
「幼馴染のふたりで。来週申込書を持ってくると言っていました」
「それはよかったですね。宇陀さんも喜ばれたんじゃないですか」
「はい。嬉しそうでした」
みおが少し頷いた。
「……去年のパンフレットを読んできたんでしょうね、きっと」
「……そうかもしれない」
少し間があった。
桜が風に揺れた。
「……去年、みおがここに来たときみたいだと思いました」
央が言った。
みおが少し、足を止めた。
「……わたしが来たとき」
「あのとき俺はどんな感じだったか、相手から見て」
「……少し驚きました」
「何に」
「図書室に、同じクラスの人が……央さんが先に来ていたから」
「……俺も驚いた」
みおが少し央を見た。
「そうでしたか」
「……背が高かったので」
「……それですか」
「それもあった。でも、それだけじゃなくて」
央が少し間を置いた。
「……話しかけてもいいかどうか、最初は分からなかった。でもレクリエーションのやり取りを思い出して、話すことができた」
「……わたしも、どう返事をすればいいか最初は分からなかったです」
「……今は」
「今は?」
「迷わないで返せるようになりましたか」
「……なりました」
みおが静かに言った。
「……央さんは、迷わないで話しかけられますか」
「……考えないで話せる気がします」
「それはよかったですね」
みおがまた歩き出した。
央も並んだ。
桜並木が続いた。
花びらが肩のそばを通り過ぎた。
風が少し温かかった。
ふたりで黙って歩いた。
悪くない黙り方だった。
しばらくして、スマホが振動した。
ことねからだった。
───────────────────────
ことね:咲いたよ!!!!
ことね:念じたら咲いた
ことね:朔くんと今日も来た
ことね:朔くんが前に調べてた開花予測と同じ日だったんやけど
ことね:うちの念じる力もあるはずやけど
ことね:どっちが理由かはともかく咲いた!!
───────────────────────
央がそれをみおに見せた。
みおが読んだ。
「……ことねさんらしいですね」
「念じたから咲いたと言っている」
「……開花予測の方が精度は高いですが」
「ことねちゃんはそういう人だ」
「そうですね」
みおが少し、唇を動かした。
「……よかったですね、咲いて」
「……そうだな」
ふたりで少し、立ち止まった。
桜並木が続いていた。
ことねが念じて、朔が調べて、今日咲いた。
理由はどちらでもよかった。
咲いているという事実が、今日はそれだけあればよかった。
花びらが一枚、ゆっくり落ちた。
また一枚。
「……ことねさんと朔さんも、来週また来るんでしょうか」
「今日来たと書いてあるから、来週はまだ分からない」
「でも来そうですね」
「……来ると思います」
みおが少し前を向いた。
「来年も、ここに桜は咲きますね」
「……そうだな」
「再来年も」
「咲きます」
みおが少し、央を見た。
「……即答でした」
「……当然です」
央が静かに言った。
みおがまた前を向いた。
ほんの少し、口の端が上がった。
梅晴堂でも、同じような返し方をした気がした。
そのことに、央は気づいていた。
4月の風が、少し温かかった。
桜並木の先に、駅が見えた。
2年生の春が、始まっていた。
続きは、まだこれからだった。
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