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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~一年生~

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第五十二話 3月20日 来年の春のこと


 高校入試の日は、校内がいつもと違った。


 正門の前に、受付の案内板が出ていた。

 担当の先生が数名、玄関のあたりに立っていた。

 在校生は別の入口を使うよう、前日に案内が出ていた。


 1年生は自宅学習日だったが、(おう)は図書室を使うために学校に来た。


 別の入口から入ると、廊下がいつもより静かだった。

 人が少ないわけではない。

 受験生が来ているのに、静かだった。


 足音が違う。

 上履きではなく、外靴で歩く音が廊下に散っていた。

 いつもは聞こえない音だった。


(……緊張している、というよりは)


 集中している、という方が近かった。

 まだ試験は始まっていないはずなのに、校舎全体が少し、息をひそめているような気がした。


 在校生が何人か、央と同じように図書室や空き教室を使いに来ていた。

 すれ違うたびに、いつもより声が小さかった。

 受験生が来ているから、というわけでもないだろう。

 ただ、場の空気というのはあるのだと思った。

 静かな場所では、自然と静かにしたくなる。



 図書室の扉を開けると、宇陀(うだ)さんがいた。


 (さく)の姿もあった。

 奥の席で、何か書いていた。


「来ましたか」


 朔が顔を上げた。


「……自宅学習日ですが」


「知っています。来ると思っていました」


 央が荷物を置いた。

 宇陀さんが「今日は少し静かですね」と言った。


「……入試日なので」


「ええ。こういう日の図書室は好きです」


「……どのあたりが」


「音が変わります。外の空気が少し緊張していると、ここに来る人の静け方も変わる気がして」


 宇陀さんが手元の作業を続けながら言った。

 朔が「詩的な観察ですね」と言った。

 宇陀さんが「そうでもないですよ」と応えた。


 央が椅子を引いて、鞄から文庫本を出した。

 学年末テストが終わったので、ようやく読めるようになった一冊だった。

 テスト期間中は積んでいた。

 表紙を見るたびに「まだ読めない」と思っていたものが、今日ようやく手に取れる状態になった。


 本を開いた。

 静かだった。

 外靴の音が、遠くで一度、二度、鳴った。



 一時間ほど読んでいると、窓から外が見えた。


 中庭の向こうに、試験会場になっている棟があった。

 まだ試験中らしく、廊下に人影が見えなかった。

 受験生が中にいる、というのが、人が見えないことで分かった。


(……去年の今頃、自分は何をしていたか)


 と央は思った。


 去年の3月。

 中学3年生の終わりだった。

 入試が終わって、合格発表を待っていた時期だったと思う。

 毎日少し落ち着かない感じがあって、でもやることもなくて、家で本を読んでいた記憶がある。


 あの頃この学校のことを、どれだけ具体的に想像できていたか。


(……あまりできていなかった)


 と思った。

 この教室の様子も、この廊下の音も、どんな先生がいて、どんな人が隣の席に座るかも、何も分からなかった。

 パンフレットを見て、図書委員があることは知っていた。

 でもその先は、来るまで分からなかった。


 窓の外で、空が薄く明るかった。

 3月の曇り空は、2月よりわずかに白みがかっている。

 遠くで木の枝が少し揺れた。

 風が出てきていた。


(……今年の受験生も、来年のことは分からないだろう)


 そう思った。

 分からなくていい、という気もした。

 分からないままに、春が来る。

 そういうものだと、この1年で少し分かった気がした。



 昼過ぎ、試験が終わったらしかった。


 廊下の外で、足音が増えた。

 上履きではない音が、まとまって動く気配がした。


 宇陀さんが「試験が終わったようですね」と言った。

 朔が手を止めて、少し窓の方を向いた。


「来年入ってくる子たちですね」


「……そうですね」


「どんな子が来るんでしょうか」


「……来てみないと分からないですが」


 朔が少し間を置いた。


「でも、きっと来ます。こういう場所に来たいと思う子は、毎年必ずいる」


「宇陀さんのパンフレットを見て来る子が、また」


「……そうかもしれないですね」


 宇陀さんが静かに言った。


 央は本から顔を上げて、廊下の方を少し意識した。


 そのとき、扉の外を通り過ぎる気配があった。


 廊下を歩いていく外靴の音が、ふたり分だった。

 少し遠ざかる前に、低い声と少し高い声が短く言葉を交わすのが聞こえた。

 声の中身は聞き取れなかった。


 央は何となく廊下の窓を見た。


 外廊下を、受験生らしき男女が並んで歩いていた。

 背の高い男子だった。

 ふたりとも前を向いていて、顔は見えなかった。

 距離の近さが、長い付き合いのある人同士に見えた。


 すぐに通り過ぎた。

 廊下に、また静けさが戻った。


(……仲がいいんだな)


 と、央は思った。

 それだけだった。

 本に視線を戻した。



 午後になって、朔が席を立った。


「少し外の様子を見てきます。引継ぎの確認で、宇陀さんに聞きたいことがあって」


「……分かりました」


 宇陀さんと朔が棚の方に移動した。

 書棚の前で、何か小声で確認し合う声がした。


 央は本を読み続けた。

 一段落したところで、栞を挟んだ。


 少し伸びをして、ふと視線が動いた。


 宇陀さんのデスクに、何かが置いてあった。

 手書きの紙だった。

 A4よりひと回り小さいサイズで、表面を上にして置かれていた。

 文字が細かく並んでいた。


 ほんの一瞬、目に入った。

 小説の書き出しのような、書き方だった。

 仕事の記録や連絡事項とは違う、縦書きで、余白に息があるような字の配置だった。


(……仕事のメモではなさそうだ)


 と思った。

 それ以上は見なかった。


 宇陀さんが戻ってきた。

 央はすぐに本に視線を戻した。


「……どうかしましたか」


 宇陀さんが聞いた。

 気配で分かったらしかった。


「……何か、書いていましたか」


 央が聞いた。

 少し、間があった。


「……手が空いたときに書くものが、あって」


「……そうですか」


「仕事とは関係ないものですが。ここが静かなので、気がつくと書いています」


 宇陀さんが紙をさりげなく裏返した。

 央は何も言わなかった。


「……小説ですか」


 少し経ってから、聞いた。


 宇陀さんが少し止まった。

 それから、静かに答えた。


「……そういうものかもしれません。まだ言える段階ではないですが」


「……そうですか」


「読み終わったことのない物語があって、それを書こうとずっとしています。うまくいくかどうかは、まだ分かりませんが」


「……読み終わったことのない物語」


「……頭の中に、ある話があるんです。筋は見えているんですが、言葉にするとどこかが変わってしまって。ずっとそのままにしてあります」


 央が少し考えた。


「……言葉にすると変わる、というのは」


「言葉にした時点で、少し固まってしまう気がして。頭の中にあるときは、もっと動いているんですが」


「……分かる気がします。読んでいるときの感覚と、読み終わった後では、同じ本でも少し違う」


 宇陀さんが少し、央を見た。


「……そうです。そういうことです」


 宇陀さんが少し目を細めた。

 それから手元に視線を落とした。


「いつか書けたら、誰かに読んでもらいたいとは思っています」


「そのときは」


 央が少し間を置いた。


「……読みます」


「……ありがとうございます」


 宇陀さんが静かに言った。

 それから「お茶を入れましょうか」と話を切り替えた。

 央が「……いただきます」と応える。



 朔が戻ってきたのは、お茶が出てきた少し後だった。


「引継ぎの書類の最後の確認が終わりました」


「お疲れ様でした」


 宇陀さんが朔にもお茶を出した。

 三人でしばらく、黙って飲んだ。


 窓の外で、試験帰りらしき受験生が校門を出ていくのが見えた。

 思い思いの方向に歩いていった。

 家族と来ていたらしい人が、門の外で待っていた家族と合流するのが見えた。

 少し遠くて顔は見えなかったが、揃って歩き出す様子があった。


「来年の図書委員、楽しみですね」


 朔が言った。


「……そうですね」


 央が答えた。


「どんな人が来るかは分からないですが、この図書室を気に入ってくれる人が来るといいと思っています」


「来ると思います」


「……どうして」


「……去年、来たので」


 朔が少し間を置いた。


「……そうですね」


 静かに言った。

 眼鏡の向こうで、少し目が細くなった。


「勢多くんが来てくれてよかった」


 央が少し止まった。


「……先輩が作っていた図書室だったので」


「それは半分ですよ」


「半分」


「宇陀さんと、来てくれた委員みんなで。今年は勢多くんも含めて、そういうものだったと思っています」


 宇陀さんが「そうですね」と静かに言った。


 お茶が、少し冷めていた。

 央はそれでも飲んだ。

 温かかった。


「……先輩は来年、図書室に来ますか」


 央が聞いた。


「……3年になると授業が変わるので、頻度は落ちると思います。ただ」


 朔が少し間を置いた。


「ここが好きですから。用がなくても来るかもしれないです」


「……それはいいと思います」


「勢多くんが来なくなると寂しいので、来てください」


 央が少し、返事に詰まった。

 朔がそういうことを言う人だとは思っていなかった。

 直接的に言う方ではないと思っていたので、少し驚いた。


 宇陀さんが「私も同意見です」と言った。

 央が「……来ます」と答えた。


 三人で少しだけ笑った。

 図書室に、小さな声が溶けていった。



 夕方近く、図書室を出た。


 帰り道に、スマホを確認した。


───────────────────────

みお :今日は学校に来ましたか

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 央は少し止まった。


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央  :図書室にいました

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みお :……そうですか

みお :入試日でしたね

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央  :いつもと違う感じでした

央  :受験生の足音が上履きじゃないので

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みお :分かります

みお :去年、自分がその足音だったんですよね

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 央は少し考えてから、返した。


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央  :……そうですね

央  :来年のことは分からなかった

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みお :……今年は分かりますか

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 央が止まった。


 少し考えた。

 何が分かるか。

 何が分かるようになったか。


 隣の席のことは、分かる。

 廊下の音のことは、分かる。

 図書室でお茶をもらえることも、宇陀さんが何かを書いていることも、朔が眼鏡を直すタイミングも、みおが甘いものの前で表情が変わることも。

 去年の今頃は、何も分からなかった。

 それが今は、少し変わった。


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央  :少しは

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みお :……わたしも、少しは

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 みおも今日、どこかで同じように3月の空を見ていたかもしれない。

 そう思ったら、少し可笑しかった。


 少し歩いてから、また通知が来た。


───────────────────────

ことね:みおちゃんに連絡してるんだけど

ことね:春休みに女子会したくて

ことね:さやかちゃんとひなちゃんと都合確認してもらえる?

ことね:あと央、あんたはあんたで梅晴堂の予定あるんやろ

ことね:みおちゃんから聞いたで

ことね:ちゃんと行きや

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 央はそれを読んで、少し間を置いた。


───────────────────────

央  :……行きます

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───────────────────────

ことね:よし

ことね:じゃあそれぞれ各自準備!

ことね:春休みは忙しなるで

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(……そうかもしれない)


 央は思った。


 来年のことは分からなかった、と今日思った。

 でも今は、少し先のことが、見えている気がした。

 梅晴堂の暖簾のことも、桜が咲いた後の景色のことも、春休みにどこにいるかも。

 去年の今頃は、何も見えていなかった。


 桜が咲くまで、あと少しだった。

 春休みまで、もう少しだった。


 3月の夕方が、少しずつ春に変わろうとしていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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