第五十話 3月9日 送り出す側と、送られる側
卒業式の朝は、いつもと違う校内だった。
正門に看板が出ていた。
「卒業式」という文字が、黒々と書いてあった。
在校生は式場の準備を昨日の放課後に終えていた。
体育館の椅子を並べ、演台を磨き、来賓用の席に布を敷いた。
今日は在校生代表として、全クラスから数名が式に出席する。
残りの生徒は教室待機だった。
央は在校生代表のひとりだった。
図書委員として選ばれていた。
体育館の入り口で上履きに履き替えながら、少し中を確認した。
並んだ椅子が整然としていた。
昨日自分たちが並べたものだった。
「……勢多くん」
声がした。
振り返ると、朔がいた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は代表で?」
「……はい。サクさんも?」
「図書委員長として、一応」
朔が体育館の壇上を見上げる。
「今日で3年生がいなくなりますね」
「……そうですね」
「来年は自分たちがこちら側になる、と思うと」
朔が少し間を置いた。
「……少し、複雑です」
央は少し頷いた。
「まだ、来年の話ですけどね」
「……そうですが」
朔が眼鏡を少し直した。
「でも今日みたいな日に、来年を考えるのは自然ですから」
「そうかもしれないです」
「……勢多くんは」
朔が続けた。
「今日、何を考えますか。式を見ながら」
央が少し間を置いた。
「……ここが終わることと、次が始まることが、同じ日のことなんだと思いました」
「……そうですね」
朔が静かに頷いた。
「うまく言いますね」
「そのまま思ったことを言いました」
「それが一番正確なことが多いです」
ふたりで、並んだ椅子の列を少し眺めた。
3年生が座る席と、在校生が座る席が、はっきり分かれていた。
式は粛々と進んだ。
来賓の挨拶。
卒業証書の授与。
在校生代表の送辞。
卒業生代表の答辞。
式の間、央は在校生席から壇上を見ていた。
卒業生の顔は遠くてよく見えなかった。
でも、代表の生徒が答辞を読む声は届いた。
落ち着いた声だった。
ゆっくりと読んでいた。
(ここを出ていく)
と、央は思った。
特別なことは思わなかった。
ただ、ここが終わるということと、次が始まるということが、同じ意味を持つ日なのだと分かった。
式が終わり、在校生が先に退場した。
廊下に出ると、いつもより静かだった。
昼前に、みおと廊下で会った。
みおは在校生代表ではなく、教室待機だったはずだった。
「教室ではなかったんですか」
「……少し、廊下を歩いていました」
「……そうですか」
並んで歩いた。
廊下の窓から、外が見えた。
3月の空は薄く曇っていた。
でも暗くはなかった。
曇りの中にも、光があった。
上履きの音が廊下に響いた。
いつもより人が少なかったため、音が少し遠くに届く感じがした。
「式は終わりましたか」
「はい。さっき」
「……どうでしたか」
央が少し考えた。
「……静かでした。ちゃんとした式でした」
「……そうですか」
みおが窓の外をすこし見た。
桜の木が植わっていた。
まだ花は咲いていなかった。
蕾が、枝の先にかたく閉じたまま並んでいた。
「……桜、まだですね」
「もう少しでしょう」
「式に、間に合わなかったんですね」
「毎年、少しずれるらしいです」
「……そうですか」
みおが少し頷いた。
「……再来年」
みおが言った。
「……はい」
「わたしたちも、送られる側になるんですね」
央が少し止まった。
「……そうですね」
「……なんか」
みおが少し間を置いた。
「……今日が来ると、あと2年、と思いますね」
「……そうです」
「長いようで……」
「そうでもないかもしれないです」
みおが少し頷いた。
窓の外の空が、そのまま続いていた。
午後、教室待機の時間が続いた。
1年A組は普段より静かだった。
太秦が頭の後ろで手を組む。
「なんか今日ちょっとしんみりするな」
さやかがその声に振り向く。
「なんで」
「式があったから」
「太秦くん、式に出てないじゃん」
「雰囲気が来てる」
「……雰囲気が来てるって、何?」
「なんか校内全体がそういう感じじゃないですか」
さやかが少し考えた。
「まあ、そうかな」
「葛城さん、どう思います? 卒業式の日って、なんか違う感じしません?」
みおが少し首を傾けた。
「……空気が変わる感じはします」
「ですよね。俺だけじゃなかった」
「……でも太秦くんの言い方は、曖昧でした」
「正直なんですよ」
さやかが「それはそう」と言った。
しばらく、それぞれが過ごした。
教室の窓から空が見えた。
薄い雲が、ゆっくり流れていた。
太秦がスマホを見ていた。
さやかが爪を確認しながら何かを考えていた。
みおが鞄から本を出した。
央の誕生日に贈った作品とは別の本だった。
栞が挟んであった。
(……読んでいる)
央はその背表紙を横目で見た。
タイトルが見えた。
読んだことのある本だった。
少し迷ってから、言った。
「……それ、読みましたか」
みおが顔を上げた。
「……前に読みました。今日は気になって、また最初から」
「そうですか。どのあたりが」
「……中盤の展開が好きで。でも序盤の伏線をもう一度確認したくて」
「分かります」
央が少し頷いた。
みおが央に向き直る。
「……どのあたりで気づきましたか、伏線に」
「最初に読んだときは、終盤まで気づきませんでした」
「わたしは中盤で少し感づきました。でも、確信が持てなかった」
「それが正解な気がします。その作者は、確信を持たせないように書きますから」
みおが少し目を細めた。
「……そう思います。うまいですね」
「……はい」
さやかが「ふたり、なんの本の話してんの」と聞いた。
みおが背表紙を向けた。
「んー、読んだことない」
「……おもしろいですよ」
「こんど貸してくれる?」
「……読み終わったら」
教室が少しだけ、また穏やかになった。
放課後、ひなが下駄箱のあたりに来た。
3年生の下駄箱の前だった。
卒業生はすでに帰っていた。
下駄箱の扉が開いていた。
中は空だった。
ひながスマホを横に構えた。
「……撮っていいか聞いた方がいい?」
さやかが言った。
「いや、もう誰もいないから」
「そうか」
ひなが何枚か撮った。
角度を変えて、また撮った。
「なんか好き、こういう瞬間」
ひなが言った。
「どのあたりが」
「空っぽなんだけど、でも使ってた感じが残ってるじゃん」
さやかが少し考えた。
「……確かに」
「ちょっとのあいだだけ、その人がまだいる感じがする」
みおが少し下駄箱を見た。
「……そうですね」
「こういうの後で見返すと好きなんよな」
ひなが画面を確認した。
満足そうだった。
「ひなちゃんが撮るもの、たまにすごくいいとこ突いてくるよな」
太秦が言った。
「でしょ!」
「写真部らしいというか」
「当然! 撮る専門だもん!」
みおがその下駄箱をもう一度見た。
(……使ってた感じが残っている)
ひなが言った言葉が、少し頭に残った。
来年、再来年。
いつかこの下駄箱が空になる日が、自分たちにも来る。
その前に、どれだけのことが積み重なるか。
(まだ、これから)
みおはそう思った。
静かにそう思った。
夕方、図書室に寄った。
今日は返却期限の確認だけして帰るつもりだった。
扉を開けると、朔が奥の席に座っていた。
宇陀さんは事務仕事をしていた。
央が鞄を置いた。
朔が顔を上げた。
「来ましたか」
「……当番ではないですが」
「知っています。ちょうどよかった」
朔が椅子を少し引いた。
「話があります。少し、いいですか」
「……はい」
央が向かいの席に座った。
朔が少し間を置いた。
「……図書委員の引継ぎのことです」
「……そうですか」
「3月で僕は委員長を退きます。来年度の委員長は新2年生から出ます」
「はい」
「ただ、図書委員の人数が来年度どうなるかは、4月に1年生が入ってからでないと分かりません」
「……そうですね」
「勢多くんには続けてほしいと思っています。正式に依頼する立場にはないですが」
央が少し頷いた。
「……続けます」
「ありがとうございます」
朔が少し間を置いた。
「……引継ぎ書類は4月の前に作ります。去年のものと、今年加えた分を合わせて」
「去年のもの、というと」
「勢多くんが来たときに渡した書類です」
央が少し止まった。
「……誕生日が載っていたものですか」
朔が少し、口の端を動かした。
「そうです。そのときからきちんと読んでいたんですね」
「……一度読んだものは、だいたい覚えています」
朔が静かに頷いた。
「それは頼もしい。新しい委員に引き継ぐとき、説明が助かりそうです」
「……できる範囲でやります」
「十分です」
「来年の委員を探すのは、春以降ですか」
「そうです。4月に1年生が入って、委員会希望を確認してから」
「新入生に、図書委員の魅力を伝える必要がありますか」
朔が少し考えた。
「……宇陀さんが毎年やってくれています。パンフレットを作っていて」
「そうですか」
「去年も勢多くんが委員を選んだのは、あのパンフレットがきっかけではないですか」
央が少し止まった。
「……そうかもしれないです」
「ではきっと、次の委員も同じように来ます」
宇陀さんが奥から少し顔を出した。
「ふたりとも、まだいましたか」
「はい」
「お茶、入れましょうか。今日は少し特別な日なので」
「……いいんですか」
「司書の仕事に含まれていませんが、気持ちで」
しばらく、三人で静かにいた。
朔が手元の本を閉じた。
宇陀さんが急須を準備した。
「宇陀さんは、卒業式を何度見ましたか」
朔が聞いた。
「……ここに来て5年目なので、4回ですね」
「……毎年、同じですか」
「毎年少し違います。顔ぶれが違うので。でも式の流れは同じです」
「違う中に同じものがある、という感じですか」
「そうですね。ずっとここにいると、自然とそう見えてきます」
お湯が沸いた。
宇陀さんが急須にお湯を注いだ。
湯気が細く上がった。
(……違う中に同じものがある)
央はその言い方が少し頭に残った。
来年も、再来年も、卒業式はある。
でもそこにいる自分たちは、毎年違う。
今日のこの日は、今日だけのものだった。
お茶が出てきた。
温かかった。
少し渋かった。
央はそのやりとりを聞きながら、窓の外を少し見た。
夕方の空が、3月らしい色をしていた。
オレンジではなく、淡い灰色とも藍色ともつかない色だった。
春の夕方の色だった。
(……卒業式の日の空は、こういう色をしている)
と思った。
来年、再来年。
いつかこの空をまた見るときには、今日とは違う立場でここに立っているはずだった。
帰り道、央はひとりで歩いた。
みおとは今日は別の方向だった。
改札を出てから、それぞれの路線に分かれた。
鞄を持ち直して、ホームを歩いた。
3月の夜は、まだ少し寒かった。
でも、2月の寒さとは質が違った。
柔らかい寒さだった。
電車を待ちながら、スマホを出した。
グループLINEに一言送ってから、鞄を持ち直した。
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央 :今日は図書室に寄りました。引継ぎの話を少し
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送って歩き出した。
すぐに返ってきた。
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みお :……そうですか
みお :比叡先輩と?
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央 :はい。続けてほしいと言ってもらいました
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みお :……よかったですね
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央は少し立ち止まった。
(よかったですね)
みおがよく言う言葉だった。
本当のことを言っているときに出てくる言葉だと、央はもう知っていた。
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央 :……そうですね
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送信した。
歩き出した。
3月の夜が始まろうとしていた。
学年末まで、あと少しだった。
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