第五話 4月15日 測れないもの
健康診断の日は、朝から空気が違う。
廊下に並ぶ生徒たちの声は、いつもの登校時よりひそひそとしていた。
体重が増えたとか、視力が落ちたとか。
検査結果への期待と不安が、廊下の端から端まで薄く漂っている。
勢多央は列の中ほどで、静かに順番を待っていた。
腕時計を撫でる。
文字盤は、いつもどおり冷たかった。
太秦が後ろから肩を叩いた。
「おうくん、体重って毎年測るの緊張しない?」
「……そんなに気にしてるのか」
「気にするじゃん。冬から春でどう変わってるか、みたいな」
太秦は腕を組んで、少し困り顔をした。
頭の後ろを掻く。照れているときの仕草だ。
「増えてたらちょっとへこむし、減ってたら『でもそれ筋肉か?』って別のことが気になるし」
「考えすぎじゃないか」
「考えるでしょ、普通。おうくんは気にならないの?」
「……そこまでは」
答えながら、本当のことを言えているか少し怪しいと思った。
気にしない、ということはない。
ただ、口に出すことではない、という感覚のほうが近かった。
体重というのは、男女問わず、他人が踏み込んでいい場所ではない。
数字は記録に残るが、それを声に出して共有するものではない。
列が少し前に進んだ。
「まあ、ちゃんと食えてれば大丈夫だろ」
「そういうふうに考えればいいのか」
「それだけじゃないと思うけど」
「なんだそれ」
太秦が笑った。
央も少しだけ口角を上げた。
身長測定の列は、男女別になっていた。
央は壁に貼られた目盛りの前に立って、測定員の先生の指示に従った。
かかとをつける。
顎を引く。
「はい、百八十五センチ。変わってませんね」
先生が記録用紙に数字を書いた。
央は「はい」とだけ答えた。
百八十五センチ。
高校入学時点で、すでにそこで止まっている。
太秦が後ろから茶化した。
「おうくん、去年も一八五だったっけ」
「そう」
「成長止まった?」
「もう止まってる気がする」
太秦は少し考えるような顔をして、「それはそれでかっこいいじゃん」と言った。
慰めなのか本心なのか、判断がつかなかった。
央は壁際に下がりながら、ふとある記憶を呼び起こした。
(中学入学のとき、俺は何センチだったか)
確か、百五十センチを少し下回っていた。
入学時の健康診断で、担任の先生に「小柄だね」と言われた。
その言葉の意図は悪くなかったと今は分かるが、当時の自分は少し傷ついた。
太秦は小学校から一緒だった。
あのころの央は、クラスで背の順に並べば前から数えた方が早い位置にいて、太秦もさほど変わらなかった。
ふたりで廊下を歩いても、誰も目を止めなかった。
(それが今、十五センチも違う)
太秦が今百七十センチで、自分が百八十五センチ。
中学に入ってからの数年間で、三十センチ以上伸びたことになる。
成長期の伸びというのは、本当に突然来る。
中学一年の終わりから二年の夏にかけて、一気に十センチ以上伸びた。
服のサイズが半年で変わった。
母に何度も「また伸びたの」と言われながら、自分でもどこまで伸びるのか分からなかった。
ことねちゃんに「もう私より大きくなっちゃうじゃん」と言われたのは、中学二年のときだったはずだ。
廊下の先から、女子の列が動いているのが見えた。
保健室の方向に向かう人の流れが、そちら側にもある。
央はそちらを直接見るつもりはなかったが、視界の端に引っかかるものがあった。
列の中に、ひとつだけ高い頭があった。
葛城みおだった。
それ以外の同級生の頭がどれも同じくらいの高さに並んでいるなか、みおだけが明らかに一段高かった。
本人は少し猫背気味になって、なるべく目立たないようにしているようだった。
それでも高い。
猫背にしたくらいでは、どうにもならない高さだった。
(あれで体育が苦手なのか)
不思議だと思った。
体格だけ見れば、体育の授業で不利になる要素はなさそうに見える。
でも本人が苦手と言っていたし、実際に授業中もそんな様子があった。
運動神経と体格は別の話だ、と央は一応分かっていた。
分かっていたが、なんとなく意識するのを止められなかった。
女子の列が保健室の入口あたりで、一瞬、詰まった。
理由はすぐには分からなかったが、列の流れが一時止まって、また動き出した。
みおが保健室に入り、数分後に出てきた。
その間、列は待っていた。
なんだろうと思ったが、遠目には分からなかった。
聞ける立場でもなかった。
ただ、出てきたときのみおの顔が、少しだけ違って見えた。
何かから降りてきたような、それでもまだ何かを抱えているような。
それだけを、央は遠くから見ていた。
後になって、さやかから断片的に聞いた話がある。
保健室の前で少し待たされたのは、みおが養護教諭に何かを頼んでいたかららしい。
さやかは詳しくは教えてくれなかったし、央も深くは聞かなかった。
葛城みおは、測定器の前で足を止めた。
先に入っていた生徒が次々と測定されていくなか、みおは養護教諭の先生が他の生徒の対応を終えるのを待った。
「葛城さん、どうぞ」
先生が声をかけると、みおは少し口を噛んでから、おずおずと口を開いた。
「あの……少し、お願いがあるんですが」
先生が顔を上げた。
「記録のことなんですけど……」
みおは小声で、はっきりと言った。
「百九十八センチで、書いていただけますか」
先生は一瞬、みおの頭のてっぺんを見た。
それからゆっくりと、測定器を見た。
それからまた、みおに目を戻した。
「……葛城さん」
「はい」
「測定はきちんとしないと、学校の記録として残りますから」
「わかってます。でも、どうか」
みおの声は低かった。
ぶれていなかった。
ただ、顔は真っ直ぐ前を向いたまま、視線だけが少し伏せられていた。
先生は少しの間、何も言わなかった。
みおが測定器に立った。
ガイドが当たった場所を、先生は確認した。
数字は、二百十センチを示していた。
先生は記録用紙を手に取り、少し考えてから、ペンを動かした。
「……百九十八、ね」
みおは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「来年もそうするつもり?」
「……できれば」
「分かった。でも、成長に関係することだから、お母さんにはきちんと話した方がいいわよ」
先生はそれだけ言った。
みおは「はい」と答えた。
百九十八センチと書かれた記録を見ながら、みおは保健室を出た。
廊下に出ると、外の空気が少し冷たかった。
実際の身長は、二百十センチ。
まだ、成長が止まっていない。
それが怖かった。
測定が終わった後、クラスは教室に戻った。
「いやあ、体重えぐかった」
太秦が机に突っ伏した。
去年から増えたのか減ったのか、本人は言わなかった。
「言わないのか」
「言わないっすよそんなの」
「そうだろうと思った」
数字そのものより、変わったことへの実感を口に出したかっただけだろう、と央は思った。
それで十分だった。
「葛城さんは?」
太秦が声を上げた。
みおが少し目を向けた。
「体重ってなんか感慨ある?」
「……測ることは、少しだけ」
みおは慎重に言葉を選んでいた。
「感慨、ありますか」
「増えるのも減るのも、なんというか……気になりますよね」
太秦は「それ分かる、普通にそれ」と言った。
さやかが「そういうのって毎回ちょっとドキドキするよね」と頷いた。
ひなが「でもうち、もうちょっと数字が欲しかったなって気持ちになる」と言った。
小さく笑いが起きた。
ひな本人も笑っていたが、その笑いの端に何かが混じっていた。
(身長のことか、体重のことか)
どちらとも取れる言い方だった。
でも聞ける話題ではなかった。
央は視線を自分の机の上に戻した。
「みおは、身長何センチなの?」
さやかが聞いた。
みおの表情が、わずかに止まった。
「……百九十八です」
答えるまでに、一拍あった。
その間の短さは、準備された言葉の短さだった。
「すご……」
「わたしも大きいとは思ってるんですけど」
「いや、すごいなあ」
さやかが率直に言った。
ひながそこに「ていうか、みんな身長の差えぐくない?」と続けた。
「ひなが一四五で、みおが……一九八って、五十センチ以上差があるじゃん」
さやかが言うと、みおがそっと「すみません」と言った。
「謝らなくていいよ!」とひなが言った。「うちは絶対そっち側に行けないんだから、もうあきらめてるし。せめてもうちょっとだけ欲しかったって言ってるだけで」
ひなはそう言いながら、みおを見ていた。
「コンプレックスって、反対側にも存在するよね」という言葉は、声に出なかった。
でも目の端で、ひなはみおを見ていた。
みおも、それに気づいていた。
気づいて、少しだけ目を細めた。
昼休みになると、スマホが鳴った。
ことねちゃんからのLINEだった。
『健康診断やったー?』
央は軽く返した。
『さっき終わった』
『そっかあ。うちも今日だったよ。身長変わってなかったわ』
既読がついて、続きが来た。
『央は何センチやったん?』
『一八五』
『あー去年と同じか。もう止まったんちゃう?』
『そんな気がする』
しばらく間があった。
それからまた通知が来た。
『でも一八五って十分やん。女子から見たら普通に背高いよ』
央は少し考えてから返信した。
『ことねちゃんは何センチ?』
『あたし? 一七二。高校入ってから止まってると思う』
一七二。
その数字を見て、央は自分の記憶をたどった。
ことねちゃんとはじめて身長の話をしたのは、小学校の六年生のころだった。
そのときことねちゃんはすでに百六十センチを超えており、自分は百四十センチちょっとだった。
ことねちゃんは、自分より背の低い従弟を引っ張り回すのが好きだった。
ことねちゃんが一歳と少し年上で、当時すでに二十センチ以上の身長差があった。
週末に会うたびに央の手を引いて、行きたい場所に連れていく。
「これ見て」「ここ来て」「こっちこっち」。
テンポが速くて、央はよくついていけなかった。
でも、ことねちゃんの隣に立つと、その高さが少し眩しかった。
(女の子の方が高いの、不思議だな)
あのころの央は、そんなふうに思っていた。
不思議で、少し羨ましくて、でもなんとなく惹かれるものがあった。
ことねちゃんが走ると、足が長かった。
荷物を取るとき、手が届く場所が違った。
並んで歩くと、肩の高さが全然違う。
それが、子どもながらに何か印象として残った。
今考えると、あのころの感覚が今でも自分の中にある気がする。
説明のつかない「好み」というものは、気づかないうちに作られていく。
でも、それを誰かに話したことはなかった。
話したところで何が変わるわけでもなかった。
スマホに返信した。
『一七二ってかなり高いじゃないか』
『そうかな。でも女子の中では高い方やとは思う。うちより高い子、あんまりいないし』
『クラスには?』
『おらん。今年はとくに。央のクラスにはいる?』
央は一拍、考えた。
『……いる』
『まじで? どのくらい?』
『自称一九八』
数秒後、既読がついた。
それからしばらく間があって、スタンプが一個届いた。
目が丸くなって固まっている熊のスタンプ。
続いて文字が来た。
『自称って何』
『本人がそう言ってる』
『実際は?』
『分からない』
これは嘘ではなかった。
央は公式の数字を知らない。
ただ、「一九八ではないかもしれない」という感覚はあった。
『うわあ』とことねちゃんが送ってきた。『それ央の隣の子?』
『そう』
『めちゃくちゃ気になるんだけど』
『それは本人に聞いてくれ』
『いやそれ無理やん。というか央が聞けばいいじゃん』
『俺には関係ないから』
『関係あるでしょ。隣の席なんやから』
央は返信する手を止めた。
ことねちゃんはこういう話題になると、少し前のめりになる。
こちらが言葉を止めると、しばらくして「?」が届いた。
央は答えなかった。
代わりに話題を変えた。
『ことねちゃんの委員会、何だっけ』
『購買委員。なんでそんな話になるの』
察しが良いことねちゃんは、それ以上追ってこなかった。
かわりに「まあ仲良くしときなよ」とだけ送ってきた。
スマホを閉じると、廊下から太秦の声がした。
午後の授業が終わって、帰り道。
太秦が横に並んだ。
「葛城さん、背高いよな」
「……そうだな」
「一九八って言ってたけど」
央は黙った。
「なんか、ちょっと不思議じゃない?」
太秦の言い方は、責めているわけでも深読みしているわけでもなかった。
ただ、言ってみた、という感じの。
「何が」
「いや、列の中で見てたらさ……なんか、もっとある気がするんだよな。高さが」
央は返事をしなかった。
太秦はそれきり、その話をしなかった。
代わりに「コンビニ寄る?」と言った。
「いつもどうせ寄るだろ」
「寄りますね」
太秦は笑って、先を歩いた。
央はその後ろを歩きながら、ふと思った。
(太秦も気づいてるのか)
隣の席だからといって、何か言えるわけではない。
みおが自分から言わない理由があるなら、それは本人が決めることだ。
でも、気にならないかといえば、嘘になる。
央は腕時計に手を添えた。
文字盤が、夕方の斜光を反射した。
コンビニのドアが開いた。
肉まんのにおいが流れてきた。
太秦が迷わず肉まんのケースに向かった。
央は棚の前で立ち止まって、少し考えてからコーヒーを手に取った。
百八十五センチと、(おそらく)二百センチ以上の差。
それがどんな日常を作るのか、と考えかけて、少し止まった。
(何を考えてるんだ、俺は)
特に意味はない、と打ち消した。
隣の席の人の身長を心配したところで、何かが変わるわけでもない。
ただ。
ことねちゃんと並んで歩いたあの記憶が、少しだけ重なった気がした。
あのとき見上げた、肩の高さの違い。
手が届く場所の、差。
それが、今も自分の中のどこかに残っている。
央はコーヒーを持ってレジに向かった。
太秦が「おうくんってほんとにコーヒー好きだよな」と言った。
「好きなので」
「高校生でブラック飲むのはかっこつけすぎじゃない?」
「かっこつけてない」
「そう言うのがかっこつけてるって言うんだよ」
太秦が笑った。
央も少し笑った。
外に出ると、夕方の空が少しだけ赤くなっていた。
太秦は帰り際、何気なく言った。
「今日の健康診断、葛城さん一番大変だったんじゃないかな」
央は振り返らなかった。
「毎年そういう日があるって、ちょっと想像した」
「……そうだな」
太秦は何も続けなかった。
ただ少しの間、歩みを緩めた。
太秦が角で手を振って、別の道を歩いていった。
央は一人になって、腕時計を撫でた。
大変だったんじゃないか、という言葉を、もう一度頭の中で繰り返した。
大変、というのはそういうことだ。
測定される行為そのものが、人によっては毎回、何かに向き合い直す時間になる。
みおがどう感じているかは分からない。
ただ、廊下の列でわずかに猫背になって、なるべく目立たないようにしていたみおの後ろ姿が、少し残っていた。
央は空を見上げた。
夕焼けが、もう少しだけ濃くなっていた。
明日はどんな空かな、とぼんやり思った。
それだけだった。
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