第四十八話 2月28日 今年も、この日に
2月28日の朝は、いつもより少し早かった。
5時半より前に目が覚めた。
暗かった。
カーテンの端がうっすら白くなっていた。
央は起き上がった。
誕生日だった。
正確には、誕生日ではなかった。
本来の誕生日は2月29日だ。
今年はうるう年ではないので、29日が存在しなかった。
だから今日を誕生日として扱う、ということを、毎年この時期に確認した。
珈琲を入れた。
ドリッパーにお湯を細く注いだ。
蒸らしの時間が、少し長く感じた。
完成した珈琲をカップに移して、窓辺の椅子に座った。
外はまだ暗かった。
2月の最後の日の夜明けだった。
廊下から足音がした。
祖父だった。
祖父もたいてい、央より少し遅れて起き出してきた。
台所に入ってきて、央の珈琲カップを見た。
「もう入れたか」
「……はい」
「早いな」
「……今日だったので」
祖父が少し止まった。
それから頷いた。
「そうだな」
祖父が急須を出して、茶葉を入れた。
お湯を注ぐ音がした。
湯気が上がった。
「おめでとう」
祖父が言った。
台所の方を向いたまま言った。
「……ありがとうございます」
央も窓の方を向いたまま答えた。
それだけだった。
それで十分だった。
しばらく、ふたりで黙っていた。
祖父が急須を持って央の向かいに座った。
茶を一口飲んだ。
外が、少しずつ明るくなっていった。
「その時計、合っているか」
祖父が聞いた。
央が腕時計に目をやった。
「……5時47分です」
「直してやろうか」
「狂っていなければ大丈夫です」
「まあそうだな」
祖父が茶を一口飲んだ。
「去年も同じことを聞いたな」
「言いましたか」
「誕生日の朝に、時計が合っているかと」
「……覚えていなかったです」
「覚えていないものだ、そういうのは」
祖父が少し笑った。
央も少し、口の端を動かした。
「おまえが中学のとき渡したものだが」
「そうです」
「もう3年か」
「……はい」
「似合っているか」
央が少し腕を見た。
「……合っています」
「似合うかどうかを聞いた」
「それも、合っています」
祖父がまた笑った。
窓の外がゆっくり白くなっていた。
学校に着くと、太秦がもう来ていた。
いつものことだった。
太秦は朝が早かった。
「おうくん」
「……お疲れ様です」
「今日誕生日じゃなかった?」
太秦が確認するように聞いた。
「……そうです」
「おめでとう! あっ、でも本当の誕生日って2月29日じゃなかったっけ」
「今年は29日がないので、28日に」
「あ~、うるう年の年だけ本物なのか」
「本物、という言い方は少し違いますが」
「じゃあどう言えば」
央が少し考えた。
「……4年に一度だけ、日付が一致する日が来る、という方が正確です」
「それってなんか、すごいな」
「そうですか」
「だって4年に一回しか本番が来ないってことじゃん」
「……本番という概念が誕生日にあるかどうか」
「あるだろ、気分的に」
さやかが「太秦くん、おめでとうって先に言いなよ」と言った。
太秦が「言った! 最初に言った!」と応えた。
さやかが央の方を向いた。
「改めて、おめでとう」
「ありがとうございます」
「うるう年生まれって初めて身近に会った気がする」
「珍しいらしいです」
「自分ではどう思う? 毎年ちゃんと誕生日を祝えないの」
央が少し考えた。
「……4年に一度、ちゃんと来るので。それでいい気がしています」
「なんかおうくんらしい答えだな」
太秦が言った。
さやかが「そう?」と言った。
太秦が「そういうところが」と言いかけて止まった。
「……何が」
「いや、なんか。多くを求めない感じが、おうくんっぽい」
「……そうですか」
「褒めてる」
「……分かりました」
さやかが「素直か」と小声で言った。
昼休み、グループLINEが動いた。
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太秦 :おうくん誕生日!今日だって!おめでとう!
さやか:おめでとう。さっきも言ったけどね
ひな :え!勢多くん誕生日なの!おめでとう!!
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みおが少し後から返信した。
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みお :……おめでとうございます
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央 :ありがとうございます
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ことね:央!誕生日おめでとう!!!!
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太秦 :おうくん、誕生日って結局毎年どっちで祝ってんの?
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央 :28日が多いです。29日の年は29日に
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太秦 :じゃあ本当の年齢より若いじゃん
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央 :……計算上は
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ことね:なんか得じゃん!!!
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央 :得か損かは分かりません
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ひな :わかんないとこがなんかいい
ひな :でもそういうの嫌じゃないってことだよね
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央は少し画面を見た。
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央 :嫌ではないです
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送信した。
グループLINEが少し静かになった。
放課後、央は図書室へ向かった。
今日は委員の当番ではなかった。
ただ、行く方が自然だった。
扉を開けた。
宇陀さんが返却本の整理をしていた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日は当番ではないですよね」
「……本を読みに来ました」
「どうぞ」
いつもの席に鞄を置いた。
文庫本を出した。
しばらくして、扉が開いた。
みおが入ってきた。
央が顔を上げた。
みおが少し止まった。
「……来ていましたか」
「……はい」
「当番でしたか」
「……ではなかったです」
みおが頷いた。
鞄を棚の前に置いた。
少し間があった。
「……あの」
みおが言った。
「はい」
「少し、待ってもらえますか」
央が頷いた。
みおが鞄を持ち直した。
少し奥の方へ歩いた。
宇陀さんの方ではなく、窓際の方だった。
しばらくして、戻ってきた。
小さな封筒を持っていた。
央の前に置いた。
白い封筒だった。
特に飾りはなかった。
封の上に、小さな付箋が貼ってあった。
付箋に、一行だけ書いてあった。
「お誕生日おめでとうございます」
央は少し封筒を見た。
「……開けても」
「……はい」
央が封を開けた。
中から、小さな本が出てきた。
文庫本だった。
新品だった。
タイトルを見た。
読んだことのない本だった。
央の知らない作家だった。
「……おすすめですか」
みおが少し頷いた。
「最近読んで、よかったので」
「……教えてくれたことはありましたか」
「なかったです。まだ話していなかった」
「……そうですか」
「……央さんが好きそうだと、思いました」
央が少し止まった。
文庫本の表紙を見た。
裏表紙の紹介文を少し読んだ。
「……静かな話ですか」
「少し、謎めいています。でも静かです」
「……読みます」
「感想、聞かせてもらえますか」
「はい」
みおが少し頷いた。
少し間があった。
「……選ぶのに、時間がかかりましたか」
央が聞いた。
みおが少し首を傾けた。
「……少し。何冊か迷いました」
「……そうですか」
「最終的に、これにしました」
「……なぜこれにしたんですか」
みおが少し考えた。
「……最初の一文が、央さんの話し方に似ていると思ったので」
央が少し止まった。
「……どういう意味ですか」
「余計なことが入っていない、という意味です」
央はもう一度、文庫本の最初のページを開いた。
一行目を読んだ。
短い一文だった。
主語と述語だけだった。
それだけで、場面が見えた。
(……そういうことか)
央は少し本を閉じた。
「……そうですか」
「……そうだと、思います」
みおが少し頷いた。
それから、自分の席に戻っていった。
今日は、いつもより一列手前の席に座った。
央はもう一度、付箋を見た。
「お誕生日おめでとうございます」
丁寧な字だった。
飾り気のない、しかし丁寧な字だった。
央は少し腕時計を撫でた。
それから、みおにもらった本を開いた。
最初のページを読み始めた。
宇陀さんが奥から出てきたのは、しばらく後だった。
「勢多くん、今日誕生日だそうですね」
央が少し顔を上げた。
「はい。葛城さんから聞きましたか」
「委員の、LINEのやりとりが賑やかで」
宇陀さんが少し笑った。
仕事机の引き出しから、小さな包みを出してきた。
「よかったら」
「……いいんですか」
「司書の仕事に誕生日プレゼントは含まれていませんが、気持ちで」
「ありがとうございます」
「開けてみて」
央が包みを開けた。
しおりだった。
革製の、薄いしおりだった。
「……使います」
「それだけ?」
「……丁寧に使います」
宇陀さんが「それで十分ですよ」と言って、また奥へ戻っていった。
みおが少し、こちらを見ていた。
央と目が合った。
「……宇陀さんから」
央が言った。
「……見ていました」
「……そうですか」
みおが少し口の端を動かした。
「よかったですね」
「……そうですね」
それだけだった。
でも、なんとなく、そのやりとりが図書室に短く残った。
本を読む音だけが続いた。
帰り道は、ひとりだった。
冬の終わりの夕方だった。
空の色が少し変わっていた。
2月の夕暮れは、1月よりわずかに明るかった。
央は歩きながら、鞄の中の本を少し意識した。
(央さんが好きそうだと、思いました)
みおの言葉が、少し頭に残っていた。
どの部分を読んで、そう思ったのか。
どの場面が「央さんが好きそう」に見えたのか。
みおが本を選ぶとき、何を手がかりにしたのか。
考え始めたら、止まらなかった。
(……みおさんは、いつから俺のことを知っていたのか)
そう思った。
「知っている」という言葉が正確かどうかは分からなかった。
でも、みおがこちらを見ていたということは分かった。
こちらを見て、本を選んだということが分かった。
それは、少し前まで気づいていなかったことだった。
央は少し立ち止まった。
周りに人がいた。
駅へ向かう流れの中だった。
人が横を通り過ぎた。
央はまた歩き出した。
腕時計を見た。
時刻は6時を少し過ぎたところだった。
時計は正確だった。
(合っているか、と祖父が聞いた)
今朝のことを思った。
祖父が腕時計を渡したのは、中学の入学のときだった。
「これはいつか正式に渡そうと思っていたが、まあ今でもいい」と言って、あっさりくれた。
その「いつか」が何だったのかを、央はまだ聞いていなかった。
聞きそびれてきた、という方が正確だった。
いつか聞こう、と毎年この時期に思う。
そして聞かないまま、また次の年になる。
(それは、祖父も同じかもしれない)
そう思った。
言いそびれていることが、それぞれにある。
央は駅へ向かいながら、少し上を見た。
2月の空は、夕方でもまだ青かった。
3月が近かった。
夜、帰ってから珈琲を入れた。
朝と同じドリッパーを使った。
蒸らしの時間を測った。
完成した珈琲を持って、みおにもらった本の続きを開いた。
最初の数ページを読んでいた。
静かな文体だった。
地の文が少なく、会話が多い構成だった。
(静かです。でも少し、謎めいています)
みおが言っていた通りだった。
央は少し、それに気づいて止まった。
(みおの感想と同じ印象を持った)
そういうことが、最近何度かあった。
同じ本を読んで、同じ場面で止まる。
同じ空を見て、同じことを思う。
それが何を意味するのかを、央はまだはっきりとは言葉にしていなかった。
でも、何かを意味しているということは、分かっていた。
珈琲を一口飲んだ。
温かかった。
少し苦かった。
窓の外に、2月最後の夜があった。
明日から3月だった。
春が、もうそこにある気がした。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




