第四十六話 1月19日 兄と、少しだけ本当のこと
蒼介が帰ってきたのは、金曜日の夜だった。
大学の後期試験が終わった翌日だった。
一泊か二泊して戻る、と事前に連絡が来ていた。
みおは夕食の準備をしながら、それを聞いていた。
「ただいま」
玄関から声がした。
みおが廊下に出ると、コートを脱いでいる蒼介の後ろ姿があった。
背が高かった。
家の中だと、特にそれが分かった。
「……おかえり」
「でかくなった?」
「……なってない」
「毎回そう言うけど、なってる気がする」
蒼介がこちらを向いた。
みおと顔立ちが似ていたが、目の形がわずかに違った。
父親に似た目だった。
「試験、どうだったの」
「……そこそこ」
「それ、自信ありの言い方」
「そうでもない」
「……嘘くさい」
蒼介が笑った。
みおは台所に戻った。
「何作ってんの」
「……豚汁と、ごはん」
「いいじゃん」
「……座ってて」
「手伝う」
「いらない」
みおが短く言った。
蒼介はそれを聞いて、素直に椅子に座った。
みおが鍋の蓋を開けた。
湯気が上がった。
蒼介が少し目を細めた。
「帰ってきた感じがするな」
みおは何も言わなかった。
でも少し、耳が動いた。
夕食のあと、みおの部屋に来た。
珍しくもなかった。
蒼介は昔からそうだった。
特に理由もなく来て、特に理由もなく話して、特に理由もなく帰る。
みおのベッドに勝手に腰を下ろした。
本棚を見た。
「増えてる」
「……少し」
「ミステリーばっかりじゃなくなった」
「……そう?」
「こっちのやつ、新しくない?」
蒼介が本棚の端の一冊を指差した。
タイトルは、そこそこ難しい社会科学系の本だった。
「……友達に勧められた」
「へえ。読んだ?」
「読んだ」
「どうだった」
「……面白かった。思ってたのと違う内容だった」
「いい読み方じゃん」
蒼介がその本を抜いて、表紙をめくった。
栞が挟んであった。
蒼介が本を元に戻した。
みおは机の前の椅子に座っていた。
スマホを伏せていた。
スマホを伏せる理由は、蒼介には分かっていた。
(何かある)
そう思った。
でも聞かなかった。
急いで引き出すものではないと、蒼介は経験上知っていた。
「みお、なんか顔が落ち着いてる」
みおが少し顔を向けた。
「……いつも落ち着いてる」
「そうじゃなくて。なんか、前と違う感じ」
蒼介が言葉を探した。
「……いや、うまく言えないんだけど」
「……そう」
みおが少し首を傾けた。
「……変だった?」
「変じゃない。いい方向に変わった感じ」
みおは何も言わなかった。
窓の外、1月の夜が暗かった。
時間が少し経った。
蒼介がスマホを見ていて、みおが読みかけの本を手に取っていた。
部屋の中は静かだった。
みおが本を閉じた。
ページの真ん中あたりで閉じた。
少し間があった。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……いいひとが、います」
蒼介が手を止めた。
スマホを置いた。
みおを見た。
みおは本を机に置いたまま、前を向いていた。
蒼介の方は見なかった。
(……みおが、自分から言った)
蒼介はそれに気づいた。
聞かれたわけでも、察されたわけでもなく。
自分から、言った。
何秒か、黙っていた。
「……そっか」
それだけ言った。
みおが少し、頷いた。
「同じ学校の人?」
「……はい」
「クラスメイト?」
「……はい」
蒼介は少し間を置いた。
「……仲良くなったのはいつ頃から」
「……春から、少しずつ」
「……そっか」
また黙った。
聞きたいことは、他にもあった。
どんな人か。
どういう経緯か。
みおのことをちゃんと分かっているのか。
でも、蒼介は何も言わなかった。
(みおが「いいひとが、います」と言った。それだけでいい)
そう思った。
みおが「います」と言えるようになったなら、それはちゃんとした人だということだと、蒼介は思った。
みおが易々と誰かを「いいひと」と呼ぶような子ではないことは、誰より知っていた。
「……みおが言うなら、そうなんだろうな」
蒼介がそう言った。
みおが少し、唇を動かした。
「……何、笑ってんの」
「笑ってない」
「笑ってる」
「……少しだけ」
「それを笑ってるって言うんだよ」
みおが少し視線を落とした。
笑いを収めようとしている顔だった。
蒼介はそれを見て、少し胸の奥が痛かった。
痛い、という表現が正確かどうかは分からなかった。
でも何か、今まであった何かが、少し形を変えた感触があった。
(俺がいなくても、ちゃんと大丈夫なんだな)
そう思った。
悪い感情ではなかった。
むしろいいことだと分かっていた。
でも少しだけ、時間がかかった。
少しの間があった。
蒼介は部屋をぼんやり見回した。
みおの部屋は昔から整っていた。
物が多くないわけではなかった。
でも全部が、あるべき場所にあった。
本棚。
机の上の文具。
窓際に置かれた小さな観葉植物。
蒼介は一度、実家を出た。
みおはここに残った。
帰省するたびに、みおの部屋が少しずつ変わっていた。
本が増えた。
植物が増えた。
去年はなかった栞が、今年は何枚もあった。
(誰かと読書の話をしているのかもしれない)
蒼介にはそんな想像ができた。
みおが「面白かった」と言える本が増えたということは、「面白かった」と言える相手が増えたということだった。
それは良いことだった。
ずっと、そうなってほしかった。
でも少しだけ、蒼介は時間がかかっていた。
蒼介が部屋を出る前に、もう一度だけ聞いた。
「……その人、みおに合ってる?」
みおが少し考えた。
考え方が、みおらしかった。
すぐに「はい」と言わない。
でも否定もしない。
ちゃんと考えてから答えようとする。
「……静かな人です」
みおが言った。
「……そっか」
「本が好きで、珈琲が好きで」
「みおとは合いそうだな」
「……そう、思います」
蒼介が頷いた。
「……背は?」
「……わたしより低いです」
「まあそうだよな」
蒼介が少し苦笑した。
みおが「……当たり前のことを言わないでください」と言った。
蒼介が「ごめん、ごめん」と言った。
廊下に出た。
ドアを閉める前に、蒼介が振り向いた。
「……紹介しろとは言わない」
「……うん」
「でも、いつか会いたいとは思う」
「……その話は、まだ先でいい」
「分かった」
蒼介がドアを閉めた。
みおは部屋の中で、少しの間そのまま座っていた。
窓の向こうに、1月の夜が静かに続いていた。
翌朝、蒼介が朝食を食べながらスマホを見ていた。
みおが味噌汁を置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
蒼介が味噌汁を一口飲んだ。
黙って飲んだ。
みおが向かいに座った。
「試験、全部終わったの?」
「……三科目残ってる」
「え、まだあるの?」
「後期は遅いから」
「それで来たの?」
「試験の合間に来てもいいだろう」
「まあ、そうだけど」
蒼介がごはんを口に運んだ。
「みお、年末に会ったとき、なんか考えごとしてる感じだった」
みおが少し止まった。
「……そうだった?」
「そう。祖父ちゃん達の家でも、なんか遠いとこ見てるような感じがして」
「……分からなかった」
「みおは自分のことを分かってない」
蒼介がそう言った。
みおが「……そうかもしれない」と答えた。
「年末、何か考えてたの」
「……いろいろ」
「言えないこと?」
「言えなくはない。でも」
みおが少し間を置いた。
「……うまく言葉にならなかった」
蒼介が頷いた。
「今は、なった?」
「……なりつつある」
「それでいいんじゃない」
みおが少し首を傾けた。
「……お兄ちゃんて、たまにそういうこと言う」
「どういうこと?」
「……ちゃんとしたこと」
蒼介が少し目を丸くして、それからおかしそうに笑った。
「いや、俺はいつもちゃんとしたことしか言ってないけど」
「そんなことはない」
「例えば?」
「……みおのごはん世界一、とか」
「それはちゃんとしたことだろ」
「……それは感情論」
みおが平坦に言った。
蒼介がまた笑った。
台所に朝の光が差していた。
冬の低い光だった。
味噌汁の湯気が、ゆっくり立ち上がっていた。
昼過ぎ、蒼介が支度をして玄関に立った。
コートを着て、荷物を持った。
いつもの帰宅前の顔だった。
「じゃあ、また」
「……うん」
「試験終わったら春休みに来る。長めに」
「……連絡して」
「する」
蒼介が靴を履いた。
みおが玄関の横に立っていた。
蒼介がドアを開ける前に、みおの方を向いた。
「……みお、なんかあったら言え」
「……うん」
「なんかなくても、たまに連絡しろ」
「してる」
「する方がいいってこと」
「……分かった」
蒼介が少し間を置いた。
「……大事にしてもらえよ」
みおが少し、止まった。
「……うん」
「大事にしてもらえないなら兄として黙ってない」
「……分かった」
「よし」
蒼介がドアを開けた。
冬の外気が少し入ってきた。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアが閉まった。
みおは少しの間、玄関の前に立っていた。
(大事にしてもらえよ)
蒼介の言葉が、少し耳に残った。
蒼介がそういうことを言うとは、思っていなかった。
いつもはもっと過干渉で、もっと心配性で、もっとうるさかった。
なのに今日は、それだけだった。
みおはコートを取って、玄関を出た。
少し歩きたかった。
近所の公園を抜ける道を選んだ。
1月の公園は人が少なかった。
ベンチが一つ、日当たりのいい場所にあった。
みおはそこを通り過ぎた。
座るつもりはなかった。
ただ歩きたかった。
木の枝が、冬の光の中で黒く細かった。
葉がなかった。
でも、それが悪いとは思わなかった。
1月の空が、澄んでいた。
乾燥しているから、と頭の中で誰かの声がした。
歩きながら、スマホを取り出した。
央とのトークを開いた。
最後のやりとりは、二日前だった。
短い確認のようなやりとりだった。
みおは少し考えた。
何も送らなかった。
でも、スマホを仕舞わなかった。
手の中に持ったまま、少し歩いた。
それから、一行だけ打った。
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みお :兄が来ていました。帰りました
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送信した。
しばらく歩いた。
既読がついた。
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央 :そうですか
央 :試験の前後だったんですね
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みおが少し止まった。
(前後、というのは)
記憶を辿った。
12月に、兄が大学の後期試験前後に帰省するかもしれないという話を、したことがあったかもしれなかった。
こちらが意識していないことを、向こうは覚えていた。
みおは少し、唇を動かした。
───────────────────────
みお :覚えていたんですか
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すぐに返ってきた。
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央 :……一度聞いたことは、だいたい覚えています
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みおは少し間を置いた。
(わたしも、覚えていると言った)
初詣の帰り道が、少し頭に浮かんだ。
あのとき自分が「聞いたことはだいたい覚えています」と言ったら、央が少し止まっていた。
今は立場が逆だった。
みおも少し、止まっていた。
それに気づいて、少しおかしかった。
───────────────────────
みお :……そうですか
───────────────────────
打って、少し考えて、もう一行追加した。
───────────────────────
みお :わたしも、です
───────────────────────
送信した。
少し間があった。
───────────────────────
央 :……知っています
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みおは歩きながら、画面を見た。
(知っています)
短い返信だった。
でも、過不足がなかった。
みおはスマホを仕舞った。
空を見た。
1月の光は角度が低かった。
でも、ちゃんと温かかった。
夜、みおはお茶を入れながら少し考えた。
蒼介が「なんか顔が落ち着いてる」と言っていた。
「前と違う感じ」と言っていた。
自分では分からなかった。
でも、分からないということは、自然にそうなったということかもしれなかった。
お茶を一口飲んだ。
温かかった。
テーブルの上に、昨日まで読んでいた本があった。
蒼介が手に取った本とは別の、ミステリーだった。
複雑な構成の作品だった。
一度では全部は追えなかった。
みおは本を開いた。
栞のあるページを開いた。
少し読んで、また栞を挟んだ。
今日はそこまでだと思った。
読み終えたら、話したいと思った。
誰かに。
窓の外、1月の夜は静かだった。
春まで、まだ少しある。
でも、どこかでもうそれが始まっている感じがした。
ご一読いただきありがとうございます。
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