第三十三話 11月4日 旅立つ前に
月曜の朝、央は鞄の中に黒いマントを入れて登校した。
昇降口のそばで、ことねを見つけた。
「ことねちゃん」
「あ、央。おはよ」
「……これ」
鞄から取り出した紙袋を差し出した。
黒いマントをたたんで入れてあった。
ことねが受け取った。
中を確認して、少し笑った。えくぼが出た。
「あー、これ。ありがとね、持って帰っといてくれて」
「……返しそびれていたので」
「ドタバタしてたもんね」
ことねがマントを取り出して、くるりと一度広げた。
それからまた丁寧にたたんだ。
「でも似合ってたで」
「……そうですか」
「太秦くんも言ってたし、みおちゃんも言ってたでしょ」
央は少し考えた。
「……言っていました」
「でしょ」
ことねが鞄にしまいながら、少し顔を上げた。
「今週さ、修学旅行やねん」
「……知っています」
「楽しみにしてる」
「……そうですか」
「央も何かある? 今週」
「……特には」
「そっか」
ことねが少し笑った。
何か言いかけて、言わなかった。
「行ってくるね」
まだ出発は数日後だった。
でも、ことねらしい言い方だった。
「……はい」
央が答えた。
「楽しんできてください」
「うん。任せて」
ことねが廊下の方へ歩いていった。
背中がすぐに人混みの中に消えた。
修学旅行の出発は木曜日だった。
その前日の水曜日、放課後に図書室へ行くと、朔がいた。
いつもの窓際の席だった。
文庫本を開いていた。
外の光が、眼鏡のレンズに反射していた。
央が近くの席に鞄を置いた。
朔が顔を上げた。
「……勢多くん」
「お疲れ様です。当番ですか」
「……いえ、今日は違います」
本を読みに来ていた。
それだけだった。
央は文庫本を取り出した。
少し読んだ。
図書室は静かだった。
しばらくして、央が口を開いた。
「……修学旅行、楽しんできてください」
朔がページから目を上げた。
「……はい」
一拍あった。
「波多野さんも一緒なので」
央はそれを聞いた。
「……そうですね」
それだけだった。
ふたりともまた本に目を戻した。
宇陀さんが返却棚の整理をしていた。
静かな音だった。
外から、部活の声が遠くに聞こえた。
何かが一区切りを迎えようとしていた。
言葉にはならなかったが、そういう空気だった。
木曜の朝、2年生の姿が学校から消えた。
中庭を横切ったとき、央はそれに気づいた。
廊下に人がいた。
でも、何かが少ない。
2年生がいなかった。
当たり前のことだった。
でも、体感として初めて分かった。
一時限目が始まる前、みおが言った。
「……なんか、静かですね」
「……2年生がいないので」
「……そうですね」
みおが窓の外を少し見た。
「……ことね先輩も」
「はい」
「……少し、変な感じがします」
央は少し考えた。
「……慣れます」
「……そうですか」
「4日間です」
みおが頷いた。
それで終わりだった。
でも、「少し変な感じ」は、そのまま残った。
昼休みに、太秦が来た。
「なんか今日の学校、空気ちがくね」
お弁当を広げながら言った。
「……2年生がいない」
「あー、修学旅行か」
「はい」
「そういえばことね先輩もいないじゃん。どっかからすかすかする」
央は少し頷いた。
「……今日、気づいたんですか」
「うん。今」
太秦がおにぎりを一口食べた。
「あの人、いると思ったら急にいなくなることあるよな」
「……そうですか」
「なんか毎回びっくりする。あ、いなかったんだ、みたいな」
央はそれを聞きながら、自分は驚かなかったな、と思った。
ことねがいる場所と、いない場所を、なんとなく把握していた。
従姉妹だから、かもしれなかった。
でも、それだけではないかもしれなかった。
「……朔さんもいません」
「図書委員のほうの先輩? あの眼鏡の」
「はい」
「あー、たしかに。図書室どうなるんだろ」
「宇陀さんがいます」
「そっか。じゃあ大丈夫か」
太秦がまたおにぎりを食べた。
それで話が終わった。
さやかが言及したのは、午後の授業の合間だった。
「ねえ、今週図書委員の当番どうなってるの」
央に聞いてきた。
「……2年生の枠は他の1年に振り分けられています」
「へえ。ちゃんと回るんだ」
「……毎年そうだと思います」
「そっか」
さやかが少し考えた。
「なんか、ことね先輩いないと廊下が静かな気がする」
「……存在感がある人なので」
「そうだよね。勢多くん、あの人の従姉妹なんだっけ」
「……はい」
「毎年修学旅行でいなくなる感じ、どう?」
央は少し考えた。
「……今年が初めてです」
「あ、そっか。去年は勢多くんが中学生だった」
「はい」
「じゃあこれが最初の『いない週』だね」
央は頷いた。
その言葉が、少し頭の中に残った。
ひなが言ったのは、帰り道だった。
C組の出口でひなと鉢合わせた。
珍しい場所だった。
「勢多くん、帰り?」
「……はい」
「いっしょに行こ」
ひなが横に並んだ。
小柄だった。
央と並ぶと頭ひとつ以上の差があった。
「今週、なんか学校つまんないな」
「……修学旅行中だから、ですか」
「うーん、それだけじゃないかも」
ひながスマホを横持ちにした。
撮らなかった。
単に持ち歩く癖らしかった。
ひながスマホをポケットにしまった。
「なんかさ、あの先輩って、ことね先輩のこと好きじゃない?」
さらりと言った。
央は一拍置いた。
「……さあ」
「しらばっくれてる顔じゃん」
「……そういう顔ではないと思います」
ひなが少し首を傾けた。
「まあいっか。ことね先輩もちゃんとした人が好きそうだし、あの先輩はちゃんとしてそうだし」
「……そうですか」
「うん。あ、私こっちだわ。またね、勢多くん」
ひなが路地の方へ折れていった。
小さな背中が遠ざかった。
(察しが速い)
央は思った。
言葉にはしなかった。
木曜から日曜にかけて、学校の2年生フロアは静かだった。
央は図書委員の補助当番が一日あった。
宇陀さんと二人で、返却棚を整理した。
「修学旅行中は静かになりますね」
宇陀さんが言った。
正確な観察だった。
「……毎年そうですか」
「毎年。でも来週には戻ります」
「……そうですね」
「寂しいですか」
央は少し考えた。
「……特には」
「そう」
宇陀さんが本を一冊、棚に戻した。
背表紙が、静かに向こうを向いた。
図書室は静かだった。
いつもより、少しだけ静かだった。
金曜日の夕方、みおとふたりで帰った。
廊下を歩きながら、みおが少し口を開いた。
「……ことね先輩から、LINEが来ました」
「……そうですか。何が」
「……京都、きれいだって」
「……そうですか」
「……写真が一枚、来ました」
「……何の」
「……お寺だと思います。夕方の光が入っていて」
央は少し考えた。
「……ことねちゃんらしいですね」
みおが少し首を傾けた。
「……そうですか」
「……写真は撮る方ではないと思っていましたが」
「……送りたくなったんだと思います」
央はそれを聞いた。
「……そうですね」
ふたりで少し歩いた。
11月の夕方は、暗くなるのが早かった。
街灯が、もう点いていた。
「……みおは」
央が言った。
みおが少し顔を向けた。
「……修学旅行、行きたかったですか」
「……2年生になったら行きます」
「……そうですね」
「……その頃には、今より少し人が多い場所も平気になっていると思います」
央は少し止まった。
「……そうですか」
「……なんとなく、そんな気がします」
みおが少し、唇を動かした。
街灯の下を、ふたりで歩いた。
11月の夜が、静かに深まっていた。
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