第三十一話 10月30日 休日、ふたりで
目が覚めたのは、いつもより少し早かった。
珈琲を入れた。
豆を挽く音が、静かな台所に響いた。
窓の外、まだ薄暗かった。
今日は土曜日だった。
三軒茶屋の改札前に着いたのは、約束の十分前だった。
人の流れがあった。
週末の朝の駅は、平日とは違う種類の慌ただしさがあった。
央は邪魔にならない位置に立って、改札を見た。
(待つ、というのは)
考えた。
誰かを待つ経験が、これまであまりなかった。
早く来て、早く終わらせて、早く帰る。
それが央のいつもの行動だった。
今日は、そうではなかった。
改札の向こうに、みおが見えた。
背が高かった。
人の流れの中でも、頭ひとつ分、すぐ分かった。
ゆったりとしたシルエットのコートを着ていた。
色は落ち着いたオリーブグリーンだった。
普段と同じ系統だったが、少し違った。
細部に、何かが違った。
みおが改札を出て、周囲を見た。
央を見つけた。
「……おはようございます」
「おはようございます」
少しだけ間があった。
「……待ちましたか」
「……十分ほど」
「ごめんなさい」
「約束の時間には早いです」
みおが少し、唇を動かした。
笑うほどではなかった。
でも、そうでもなかった。
「……行きましょうか」
「はい」
目黒川沿いに出た。
川面が静かだった。
並木の葉が半分ほど落ちていた。
残った葉が、秋の色をしていた。
人通りはあったが、圧迫感がなかった。
週末の朝の早い時間で、人の波がまだ穏やかだった。
ふたりは川沿いを歩いた。
みおが歩くときのペースに、央は自然に合わせた。
急かさなかった。
急かす理由がなかった。
みおが、少し視線を川の方に向けた。
「……きれいですね」
「……はい」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
ブックカフェは、川沿いから少し入った路地にあった。
入口の木製の扉に、手書きの看板があった。
『TOKO BOOKS & COFFEE』
中に入ると、本の匂いがした。
壁一面に棚があった。
古いものと新しいものが混在していた。
ジャンルごとに分かれているように見えて、境界が曖昧だった。
席についた。
央はコーヒーを頼んだ。ブラックで。
みおは緑茶を頼んだ。
みおが棚を眺めていた。
「……央さん」
「……なんですか」
「この棚、央さんの好きそうな並びです」
央は棚を見た。
歴史の新書と、現代文学の文庫が横並びになっていた。
その隣に、科学の入門書があった。
分類に一貫性がない。
でも、居心地がよかった。
「……そうですか」
「図書室の、央さんが返却した本の並びに似てます」
央は少し考えた。
「……気づいていましたか」
「……図書委員なので」
コーヒーが来た。
みおの緑茶も来た。
央はコーヒーを一口飲んだ。
苦かった。いつも通りだった。
「……珈琲、どこでもブラックなんですね」
みおが言った。
「……そうです」
「……苦くないですか」
「苦いです」
「……好きなんですか」
「……慣れました」
みおが少し首を傾けた。
「小学生のころ、祖父が毎朝飲んでいました。珈琲を」
央が言った。
「……一緒に見ていました。飲んでもいないのに、匂いが好きになりました」
「……それで」
「中学に上がってから、自分でも飲み始めました。最初は砂糖を入れていましたが、祖父がブラックだったので」
みおが聞いていた。
何も言わなかった。
でも、聞いていることは分かった。
「……今も、一緒に飲むんですか」
「はい。早起きなので、朝が合います」
みおが緑茶を一口飲んだ。
「……いいですね」
静かに言った。
「……そうですか」
「はい」
ふたりで少し、棚を眺めた。
みおがふと、表紙の見えているミステリー小説に目を止めた。
央はそれに気づいたが、何も言わなかった。
しばらく、それでいい時間が続いた。
出がけに、央が少し思い出した。
「……ことねちゃんから」
「……はい」
「おめでとうと言っていました。みおに伝えてほしいと」
みおが少し止まった。
「……ことね先輩が」
「はい」
みおがまた少し、唇を動かした。
今度は、はっきり分かった。
「……ありがとうございます。そう伝えてください」
「はい」
和菓子カフェは、代官山から少し歩いた場所にあった。
暖簾のかかった、小さな佇まいの店だった。
『秋色』という屋号が、暖簾に染め抜いてあった。
ガラスの向こうに、季節の和菓子が並んでいた。
みおが入口で少し立ち止まった。
ガラスの中を見た。
栗きんとん。
柿のゼリー寄せ。
芋羊羹。
薯蕷饅頭。
焼き栗饅頭。
目が、少し動いた。
央はそれを見た。
席についてから、央が聞いた。
「……どれが好きですか」
みおが少しの間、メニューを見た。
「……全部」
即答だった。
央は少し、口の端が動いた。
「……では、何か選んでください」
「……難しいですね」
「……どうしますか」
「……栗きんとんと、芋羊羹と、焼き栗饅頭、お願いします」
「……三つですか」
「……ひとつずつです」
央は少し考えた。
それから手を挙げて、注文した。
栗きんとんと芋羊羹と焼き栗饅頭が、小さな盆に並んで来た。
みおは一つ一つ、丁寧に食べた。
急がなかった。
それぞれに、少しだけ目を細めた。
央はひとつだけ、焼き栗饅頭を頼んだ。
甘かった。
苦手ではなかった。
「……央さんも甘いもの、食べるんですね」
「……嫌いではないです」
「どら焼きは」
「……食べます」
「たい焼きは」
「……食べます」
「餡子は」
「……入っていれば食べます」
みおが少し考えた。
「……梅晴堂に一緒に行けますか」
「……行けます」
みおがもう一度、口の端を動かした。
今日、何度か見た表情だった。
少しずつ、見慣れてきた気がした。
駒沢公園に着いたのは、午後の早い時間だった。
広かった。
週末で人はいたが、敷地が広いため圧迫感がなかった。
木が多かった。
葉が落ちかけていて、木漏れ日が地面まで届いていた。
ふたりで並んで歩いた。
何かを話しているわけではなかった。
それでも、歩き続けた。
みおが、少し空を見た。
「……静かですね」
「……好きですか」
央が聞いた。
「……はい」
みおが答えた。
ふたりの間に、ちょうどいい沈黙があった。
木の葉が一枚、風に乗って落ちた。
また一枚、落ちた。
央は少し、みおの横顔を見た。
みおは空を見ていた。
光が、みおの頬のあたりに当たっていた。
(みおが笑っていた、今日は……)
今日は笑っていなかった。
でも、穏やかだった。
それが、今日のみおだった。
央は前を向いた。
並んで、また歩いた。
公園の奥の方から、子供の声がした。
遠くて、でも確かだった。
三軒茶屋の駅に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
改札の前に来た。
みおが定期券を取り出した。
少し立ち止まった。
「……今日、ありがとうございました」
「こちらこそ」
少し間があった。
「……また、学校で」
央が言った。
「……はい」
みおが答えた。
「また、学校で」
改札の中へ入った。
振り向かなかった。
でも、少しだけ歩くのが遅かった。
央はその背中を見た。
改札の向こうに消えた。
みおの背中が、人の流れの中に混じって、見えなくなった。
(見送った)
静かに思った。
以前、みおの背中を見たのはいつだっただろうか。
図書室から出て行くとき。
帰り道、先に行ってしまうとき。
今日は違った。
また、という言葉があった。
央は少しだけ、そこに立っていた。
それから、駅に入った。
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