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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~一年生~

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第三話 4月8日 気軽に、の正体


 その朝、勢多央(せた おう)は五時半に目を覚ました。

 アラームより一分早かった。


 いつものことだった。

 身体が勝手に覚えているらしく、目覚まし音を聞いた記憶がほとんどない。


 台所に下りて、豆を挽いた。

 コーヒーミルのハンドルを回す音が、まだ静かな家に低く響く。

 祖父はまだ眠っているようだった。

 母が起き出してくる気配もない。


 ドリッパーを傾けながら、昨日のことを少し考えた。

 入学式。名前の呼ばれ方。

 それから、隣の席に座った女子のこと。


 葛城(かつらぎ)みお。


 声が小さかった。

 立ち上がった瞬間、教室の空気がほんの少し変わった。

 背が、高かった。


 自己紹介で「後ろの席の方、少し見えにくかったらごめんなさい」と言ったとき、教室がくすくすした。

 責める笑いではなかった。

 央は笑わなかったが、悪くないと思った。


 コーヒーが落ちる音がした。

 細く、一定のリズムで。


 今日は初授業と、レクリエーションがある。

 担任の笠置(かさぎ)先生がLINEで送ってきた文面には「気軽に参加してください」と書いてあった。

 気軽に、というのが何を意味するのか、央にはあまりぴんとこなかった。


 窓の外、東の空がうっすらと明るくなりかけていた。

 桜が、まだ残っている。

 散る前に、もう少し見ておこうと思った。



 通学路は静かだった。

 始業時刻まで余裕があったので、ゆっくり歩いた。


 腕時計に目をやる。

 祖父から譲り受けた文字盤は、少し古びたクリーム色をしている。

 見るたびに、なんとなく落ち着いた。


 校門をくぐると、桜の花びらが数枚、足元に落ちていた。

 昨日より少し多い。

 坂を上りながら、花びらを踏まないようにした。


 教室のドアを開けると、すでに何人かが席についていた。

 太秦(うずまさ)はもう来ていた。

 斜め前の席で、スマホを縦に持ちながら何かを見ていた。


「おう、おうくん。早いじゃん」


 太秦は顔を上げて言った。

 ソフトモヒカンが今日もきれいに立っていた。


「いつもこのくらい」

「早起きだな」


 太秦はそれだけ言って、またスマホに目を落とした。

 余計なことを聞いてこないのが、央には合っていた。


 自分の席に鞄を置いて、椅子を引いた。

 隣の席を、一度だけ見た。

 まだ誰もいなかった。



 初授業は現代文から始まった。

 担当は担任の笠置先生ではなく、五十代とおぼしき男性教師だった。


 教科書を開く。

 活字が目に入った瞬間、少し気持ちが落ち着いた。

 現代文は得意だった。正確には、文章を読むことが苦にならなかった。


 となりで、かすかに椅子が動く音がした。

 葛城みおが、座り直していた。

 机の下で膝の角度を確かめるように、少し前寄りに位置を取る。


 昨日も同じ動作をしていた、と央は気づいた。

 言えなかった。

 何と言えばいいのか分からなかったし、言ったところで何かが変わるわけでもないと思った。


(……それに、聞かれたいことでもないだろう)


 左の口角に、無意識に力が入った。

 央はそれに気づいて、教科書に視線を戻した。


 授業は淡々と進んだ。

 教師が黒板に書く文字を追いながら、央は時々となりの気配を意識した。

 みおは教科書に視線を落としたまま、動かなかった。

 ノートを取る手が、一定のリズムで動いていた。


 落ち着いている、と思った。

 昨日の入学式では、立ち上がるたびに少し緊張していた気がしたが、授業中は違った。

 静かに座っているときのみおは、何か別のものになっていた。


 授業終了のチャイムが鳴った。

 教師が「じゃあここまで」と言って教室を出た。



 休み時間が終わると、笠置先生が入ってきた。


「はーい、じゃあ今日のレクリエーション、始めましょうか」


 先生の声は、授業中の教師とはテンションが違った。

 少し前のめりで、本人も楽しみにしていることが伝わってきた。


「ルールを説明しまーす。今から一人ずつ、このビンゴシートを持って動いてもらいます」


 配られた用紙には、三行三列のマス目が印刷されていた。

 各マスには短い文が書いてある。


「朝ごはんを食べてきた人」

「兄弟姉妹がいる人」

「ペットを飼っている人」

「読書が好きな人」

「スポーツが得意な人」

「早起きな人(六時前起床)」

「料理ができる人」

「遠くから引っ越してきた人」

「楽器が弾ける人」


「当てはまる人を見つけたら、そのマスにサインをもらいます。同じ人からは一マスしかもらえません」


 笠置先生がそう補足した。


「五分後に始めますから、まずシートを見ておいてください。じゃ、よーい……」


 先生が手を叩いた。

 教室が一斉に動き出した。



 央はシートを手にしたまま、しばらく動かなかった。

 どこから動けばいいのかが、よく分からなかった。


 隣では、みおが同じようにシートを見ていた。


「……あの」


 みおが、静かに言った。

 央は少し驚いて顔を向けた。


「読書が好きな人、ですか」


 みおがシートの一マスを指さしていた。

 当てはまるか、と聞いている。


「……はい」

「ならサインを、もらえますか」


 央は頷いて、みおの用紙に名前を書いた。

 字が小さくなった。緊張したわけではないが、妙にきちんと書いてしまった。


「ありがとうございます」


 みおがそう言った。

 声が低めで、よく通る声だった。

 人前ではなるべく小さく話そうとしているようで、だから聞き取りにくいことがある、と央は昨日から思っていた。

 でも今は聞こえた。


「こっちも……」と央は言いかけて、自分のシートを確認した。「料理ができる人、ですか。当てはまりますか」

「……はい、たぶん」


 たぶん、という言葉に、央は少し引っかかった。


「たぶん、ですか」

「家での夕食を手伝うくらいなので。できる、と言っていいのか分からなくて」


 央は考えた。

 それは謙遜ではなく、本当に迷っているように聞こえた。


「手伝えるなら、できる、でいいと思いますけど」

「……そうですか」


 みおは少し間を置いてから、「では」と言った。

 央の用紙に、葛城、とだけ書いた。

 字が、まっすぐだった。


 ふたりはそこで一度、言葉が途切れた。

 やや間があった。

 決して気まずいわけではなかったが、次の言葉がすぐには出てこなかった。


「……早起きなんですか」


 みおが、また静かに聞いた。

 央のシートの「早起きな人(六時前起床)」マスを見ていた。


「五時半起床です」

「それは……早いですね」


 みおは少し目を見開いた。

 感心しているのか、引いているのか、央には判断がつかなかった。


「朝が好きなので」

「……わたしは六時に起きるので、惜しかったです」


 惜しかった、という言葉が、央には少し意外だった。

 マスを埋めたかったのか、純粋に六時前と比べてのことなのか。

 どちらとも取れた。


 また一瞬、静寂があった。

 それでも、不快ではなかった。


(……話すのが得意じゃない、のかもしれない)


 自分と同じかもしれない、と央は思った。

 急がない話し方。

 間があっても焦らない。


 それだけで、少し気が楽になった。


「あとは動かないの?」


 太秦が後ろから来た。

 手にしたシートにすでにいくつかサインが入っていた。

 行動が早い。


「今から動く」

「葛城さんも、どんどん聞いてった方がいいですよ。みんな断りませんから」


 太秦はそう言って、さやかのいる方向へ向かっていった。

 みおが「……そうですね」と小さく言った。

 腰が重い様子だったが、シートを持って立ち上がった。


 央も動き出した。



 教室の前の方では、数人が固まって盛り上がっていた。

 男子グループが「スポーツが得意な人」マスで揉めていた。

 得意と普通の基準が人によって違う、という話だった。


 央はそこには近づかず、窓側のグループに向かった。

 女子三人に一言断って、「楽器が弾ける人」を確認した。

 一人が「ピアノならちょっと」と言ってサインをくれた。


 教室の後ろに戻ると、太秦が央を捕まえた。


「おうくん、早起きって何時?」

「五時半」

「は?」


 太秦が固まった。

 頭の後ろを掻いて、シートに視線を落とした。


「いや六時前ってそこまで含む? まじで?」

「書いてあるから」

「……なんで起きるの、五時半に」

「朝が好きなので」

「意味分かんない」


 太秦は心底不思議そうな顔をしながら、央の「兄弟姉妹がいる人」マスにサインをした。

 央もかわりに太秦の「早起きな人(六時前起床)」マスに名前を書いた。


「葛城さんも相当早起きだったよ」と太秦が言った。「六時らしい」

「知ってる」


 太秦が一瞬、顔を上げた。

 何かを言いかけて、やめた。

 それから口角だけ少し上げた。


「……なんか、仲よくない?」

「隣の席だから」

「そっか」


 太秦は素直に頷いたが、その顔はどこか楽しそうだった。

 央は何も言わなかった。



 レクリエーションが中盤に差し掛かった頃、廊下側の窓がノックされた。

 正確には、廊下を歩いていた人物が、ガラス越しに教室を覗き込んで、見知った顔を見つけたらしかった。


「央~!」


 声は廊下から、ドア越しに届いた。

 教室のいくつかの視線が、そちらに向いた。


 央は少し目を閉じた。

 ことねちゃんだ、と分かった。

 声でわかった。

 それ以外でも分かった。


 廊下に出ると、波多野(はたの)ことねが立っていた。

 テニス部のバッグを肩にかけて、人懐こい笑顔をこちらに向けていた。


「なにやってるの、なんか楽しそうなことやってるやん」

「レク。自己紹介ビンゴ」

「レクか、いいな。うちらのときもあったっけ、そういう」


 ことねは廊下から教室を覗き込んで、クラスメイトたちを見渡した。

 それから央に顔を戻して、少し声を低くした。


「どう、クラスは」

「……普通」

「隣の席の子は?」


 央は一拍、答えを止めた。


「普通」

「ふうん」


 ことねはにやりとした。

 央はその顔が苦手だった。

 何かを見透かすときの顔だった。


「まあ、楽しんでね。邪魔したらあかんから行くわ」


 ことねは片手を上げて、廊下を歩いていった。

 部活に向かうのだろう、バッグを揺らしながら角を曲がった。


 教室に戻ると、太秦が近くにいた。


「あの先輩、知り合いですか?」


 近くの男子が聞いた。

 太秦が先に答えた。


「央の従姉妹。波多野先輩、テニス部の」


 男子は「あ、そうなんだ」と言って納得した顔をした。

 それだけで、話が終わった。


 央は席の方向へ戻った。

 みおが席に座って、シートを確認していた。

 マスがいくつか埋まっていた。


「先輩、知り合いでしたか」


 みおが聞いた。

 声の調子は、変わらず平坦だった。


「従姉妹です。同じ学校に通ってます」

「……そうなんですね」


 みおはそれだけ言って、シートに目を戻した。

 何か思うところがあった様子には見えなかった。

 ただ、一度だけ唇を軽く噛んだのを、央は目の端で見た。


(何か気になることがあったのか)


 聞く理由がなかった。

 央は自分の席に座った。



 レクリエーションが終わり、笠置先生が結果を確認した。

 ビンゴを達成したのはさやかを含む数人で、先生が黒板に名前を書いて小さく拍手が起きた。

 さやかは「いやあ」と言いながら、それほど照れていなかった。

 似合っていた。


「じゃあ今日はここまで。お疲れ様でした」


 解散の言葉とともに、教室が一気に緩んだ。

 鞄を持ち始める音。椅子が引かれる音。誰かと誰かが笑い合う声。


 央は立ち上がって、鞄のファスナーを閉めた。


 そのとき、ふと気になった。

 みおが立ち上がるとき、一度だけ机に手を添えていた。

 慎重に立ち上がる、その動作。

 昨日も、今日の授業中も、同じ動きをしていた。


「……椅子、大丈夫ですか」


 口から出てから、少し後悔した。

 大丈夫ですか、というのは質問として曖昧すぎた。


 みおが目を向けた。


「大丈夫です」


 一拍間があった。

 それから、少しだけ付け加えた。


「……いつも、こうなので」


 いつも、こうなので。

 その言葉の意味を、央はすぐに解釈しようとして、やめた。

 本人が言ったことを、そのまま受け取ることにした。


「そうですか」


 それだけ言って、央は鞄を肩にかけた。


(大丈夫です、か)


 大丈夫、という言葉の重さは、使う人によって違う。

 いつもこうなので、と続けたなら、それは慣れているということだ。

 慣れているということは、慣れるしかなかった、ということかもしれない。


 央はそこまで考えて、腕時計を指でなぞった。


 別に、何かを変えられるわけでも、何かを言えるわけでもない。

 ただ、気にはなった。

 それだけだった。


 廊下に出ると、太秦が隣に並んできた。


「帰る?」

「うん」

「一緒に行こうぜ。コンビニ寄ってもいい?」

「どうせ寄るだろ」

「寄ります」


 太秦は笑いながら、先に廊下を歩き出した。

 央はその後ろについて、階段に向かった。


 階段を下りながら、窓の外に目をやった。

 午後の光の中に、まだ桜があった。

 花びらが何枚か、風に乗って流れていった。


 明日も咲いているかどうかは、分からない。

 でもたぶん、まだもう少し残っている。


 央はそんなことを思いながら、靴を履き替えて校門を出た。

 腕時計を一度撫でて、歩き出した。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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