第二話 4月7日 入学式と、わたしの座り方
その朝、葛城みおは六時に目を覚ました。
アラームより十分早かった。
暗い天井を見上げて、今日が入学式だということを確かめた。
確かめる必要があるわけではなかった。
昨夜から何度も思い返していた。
制服のジャケットに皺がないか、鞄の中に必要なものが揃っているか、去年の春に買ったローファーの踵が削れていないか。
そういうことを繰り返し確かめながら、なかなか眠れなかった。
洗面台の前に立つと、鏡の中の自分が目に入った。
暗いブラウンの髪が、眠っている間に少し乱れていた。
シュシュでまとめる前に、指でざっくりとほぐす。
鏡の上枠が、みおの頭のすぐ上にあった。
少し昔は余裕があったはずだが、最近は縁に頭をぶつけないよう気をつけている。
成長期、と言われ続けている。
いつ終わるのか、誰に聞いても「そのうちね」という答えしか返ってこなかった。
台所に下りると、母がすでに朝食を用意していた。
トーストと目玉焼きと、緑茶。
「おはよう。制服、似合ってるね」
みおは少し俯いて「ありがとう」と言った。
椅子を引いて座ると、この家の中だけは身体がちょうどよく収まった。
ダイニングテーブルと椅子の高さは、ずいぶん前に父が調整してくれたものだ。
問題は、外の世界だった。
「緊張してる?」と母が聞いた。
「……少しだけ」
正直に言えば、緊張というより疲れていた。
まだ一歩も外に出ていないのに。
入学式は人が多い。人が多いということは、視線が多い。
「大丈夫よ」と母が言った。「何かあったら、さやかちゃんかひなちゃんに言いなさい」
みおは頷いた。
さやかとひなは中学から一緒だった。
昨日もLINEが来ていた。さやかからひとつ、ひなから絵文字まみれのものがひとつ。
それだけで、少し気持ちが軽くなった。
母が席に着くのと同時に、廊下の奥から足音が聞こえた。
「みお、起きてたんだ」
台所のドアに、兄が寄りかかっていた。
寝癖のついた頭で、スウェットのポケットに手を突っ込んで、眠そうにしていた。
「今日、入学式か」
「そう」
「……まあ、なんかあったら連絡して」
「うん」
それだけで、兄は冷蔵庫を開けてアイスコーヒーのパックを取り出した。
春にアイスコーヒー、と母が軽く嗜めたが、兄は気にしていなかった。
なんかあったら、とは言ってくれたが、入学式にどんな「なんか」があっても兄に出来ることはほとんどない。
それでも、言ってくれるのはありがたかった。
最寄り駅から乗った電車は、ちょうど混み始める時間帯だった。
みおはドアの脇に立って、窓の外を見ていた。
イヤホンを耳に入れていたが、音楽は流していなかった。
ただ、話しかけられにくくなる、という理由で付けていた。
電車が揺れるたびに、重心を低くして踏ん張る。
吊り革には手が届いた。
問題はそこではなかった。
乗り込んでから三分ほどで、向かいの席の女性が一度みおを見た。
驚いた顔ではなかった。ただ、一瞬だけ視線が上に向いた。
それだけで充分だった。
みおはイヤホンをそっと押し込んで、窓の外に目を向けた。
(慣れた)
慣れた、という言葉を使うたびに、少しだけ胃の辺りが重くなる気がした。
慣れるしかない、の間違いかもしれない。
でも今日は入学式だから、こういうことをあまり考えないようにしようと思っていた。
校門前に着いたとき、さやかが先にいた。
セミロングの内巻きの髪が、朝の光の中で少し明るく見えた。
みおを見つけて、表情を緩めた。
「みお、おはよう」
「おはよう、さやか」
並ぶと、肩の高さがずいぶん違った。
さやかはそれに慣れているのか、特に気にした顔をしない。
それがみおには、少しありがたかった。
「クラス、どこになった?」
「A組」
「えっ、わたしも」
さやかの声が少し上がった。
「よかった。ひなはC組だったっけ。それでも近い」
みおは胸のあたりが軽くなるのを感じた。
さやかと同じクラス。
それだけで、今日のハードルが二段くらい下がった気がした。
三分ほど待つと、ひなが駆け込んできた。
ベージュブラウンの巻き髪が揺れながら近づいてくる。
スマホを横持ちにしたまま走っていた。
「ちょ、待って待って、ごめん」
息を切らしながら、ひなはふたりの前に立った。
それから顔を上げてみおを見て、一瞬だけ目を細めた。
「みお、制服めちゃくちゃ似合うじゃん。羨ましいんだけど」
「……そんなことないよ」
「あるって。スタイルいいから」
ひなは当然のような顔で言った。
コンプレックスを羨ましいと言う子だな、とみおは毎回思うのだが、それをひなに言ったことはなかった。
ひなはスマホで素早くふたりの写真を撮った。
断る前に撮られていた。
「それ、顔出しは嫌だよ」
「分かってる。後ろ姿だけ使う」
ひなはにっこりしながらスマホを縦に持ち直した。
「さ、入ろうか」
さやかが率先して歩き出した。
校門を抜けると、坂道があった。
花びらが数枚、足元に落ちていた。
桜が、まだ咲いている。
みおはそれを踏まないようにして、坂を上った。
教室に入ったのは、式が始まるかなり前だった。
早めに席を確保したかった。
さやかは昇降口で別れた。
「終わったら連絡して」
「うん」
「頑張ってね」
頑張る、というのが何を指しているのか分からなかったが、みおは「うん」と言った。
三階の廊下を歩きながら、一番奥の角の部屋を目指す。
廊下を歩くたびに、すれ違う生徒の視線を感じた。
みおは目を正面に向けたまま、少し早足で歩いた。
教室のドアを開けた瞬間、数人の視線がこちらを向いた。
当たり前のことだった。人が入ってきたら見る。それだけだ。
出席番号順の割り振りなら、「か」行は最後列に近い。
素早く確認して、窓際の最後列の席に向かった。
椅子を引いて、座った。
机の下に脚を入れながら、膝の角度を確かめる。
思っていた通り、膝が机の天板にすぐに当たった。
少し前寄りに座り直す。
椅子の深さを浅くして斜めに位置を取ると、かろうじて収まった。
この感覚も、慣れていた。
小学校の頃から、ずっとこうだった。
授業用の机と椅子は、みおのために作られていなかった。
スクールバッグを膝の上に乗せて、前を向いた。
少しだけ、息を吐いた。
隣の席には、まだ誰もいなかった。
やがて気配がして、誰かが座った。
静かだった。荷物を置く音も、椅子を引く音も、控えめだった。
みおは顔を向けるタイミングを逃して、そのまま前を向いていた。
(……あとで機会があれば)
いつもそう思って、機会が来ないままになることを、みおは知っていた。
体育館に移動するとき、廊下に出た瞬間に自分の背丈が浮いた。
他の生徒と並んだとき、みおだけが一段違う高さにいるように感じた。
みおは少し肩を内に入れた。
背を丸めると首と肩が楽になる気がして、気づくといつもこうなっていた。
式の列は出席番号順だった。
みおは最後尾に近いところに並んだ。
式が終わって列を崩したとき、みおの前に並んでいた男子が振り返って、驚いた顔をした。
それからすぐに前を向いて、隣の男子の耳に何かを言った。
みおはそれを視界の端で見ながら、前を向いた。
驚かせてしまった、とは思わなかった。
いつものことだった。
ただ、少しだけ疲れた。
式が終わっただけなのに。
教室に戻ると、担任の先生が来た。
笠置千尋先生。小柄で、声がよく通った。
教師二年目と自己紹介で言っていた。
緊張してます、という言葉が、みおには少し親しみやすく聞こえた。
出席確認のとき、名前が呼ばれた。
「葛城、みお」
立ち上がると、いつも通り、教室の空気が少し変わる気がした。
「はい」
声が小さかった。
もう少し大きく出そうと思ったが、間に合わなかった。
「はい、ありがとう。葛城で"かつらぎ"、みお……これも読めますね」
笠置先生が柔らかく言った。
座ろうとして、一瞬止まった。
後ろを見る生徒がいた。
みおが立つたびに、すぐ後ろの視界が遮られる。
それが、みおには何年も前からずっと気になっていた。
出席確認が終わり、自己紹介の時間になった。
前のほうで笑いが起きた。
太秦、と名乗った男子が上手いことを言ったらしかった。
ソフトモヒカンの、明るい雰囲気の男子だった。
隣の席の番が来た。
男子が立ち上がった。
長身で、黒髪をやや長めに伸ばし、後頭部でまとめていた。
「……勢多央です。よろしくお願いします」
落ち着いた声だった。ゆっくりしていて、急いでいなかった。
「あ、読めますよね。勢多で"せた"、央で"おう"です」
小さな笑い声。控えめな拍手。
男子は静かに座った。
勢多。セタ、おう。
珍しい名前だと思った。
次が、みおの番だった。
立ち上がるとき、机に手を添えて慎重に立つ。
これもいつも通りだった。
「……葛城みおです。よろしくお願いします」
言い終えて、一拍。
後ろの席の人が、今どういう状況かは分かっていた。
みおが立つと、すぐ後ろの視界が遮られる。
それが気になって、口から言葉が出た。
「……えっと」
唇を一度噛んだ。
「後ろの席の方、少し見えにくかったらごめんなさい」
静寂があった。
しまった、と思った。
自己紹介でそんなことを言う人間はいない。
でも次の瞬間、くすくすという笑いが来た。
責める笑いではなかった。温かかった。
「大丈夫ですよ」と笠置先生が言った。「座ってください」
誰かが「気にしてくれてる感じがいいよな」と言った。
みおは手を膝の上で重ねて、机を見た。
耳が熱い気がした。
変なことを言ったのに、笑ってもらえた。
それがおかしいのか、ありがたいのか、みおにはよく分からなかった。
昼前。廊下に出ると、さやかが小走りで来た。
「どうだった? クラスの空気感とか」
「……普通だった」
「隣は?」
「勢多央って人で、おとなしい感じの男子だった」
「話した?」
「まだ」
さやかは「まあそうか」という顔をした。
「なんかあったらすぐ言ってね」
それだけ言って、さやかはA組の方向へ戻っていった。
昼休み、ひなが教室まで来た。
ドアから顔を出して「みお~」と小声で呼んだ。
みおが立ち上がった瞬間、ひなが素早くスマホを向けた。
「ちょっと」
「ごめんごめん、立ち上がる瞬間が綺麗だったから」
みおは小さくため息をついて、荷物を持って廊下に出た。
三人で中庭のベンチに腰を下ろした。
ひなはみおの横に来て、斜め下からみおを見上げた。
「あのさ、みお。高校入ってもそのくらい背あるってことは、もう止まんないじゃん」
「……たぶん、そう」
「いや、うちはまじで羨ましいんだけど」
「それを言ったらひなだって」
「うちのはコンプレックスなんですけど」
ひなはそう言いながら、お弁当の蓋を開けた。
さやかが腕を組んでふたりを見ていた。
「みおはどうなの」とさやかが静かに聞いた。「コンプレックスじゃないの?」
みおは箸を持ちながら、少し考えた。
「……慣れてる、と思う」
さやかはそれ以上聞かなかった。
それがみおには、やはりありがたかった。
「あ、そうだ」とひなが顔を上げた。「明日ってレクリエーションあるん?」
「あるって」とさやかが言った。「初授業のあとにクラス全員参加のやつ。LINEのグループに流れてきてたよ」
「見てなかった」
ひなが慌ててスマホを確認した。
みおも鞄からスマホを取り出した。
クラスのグループに笠置先生から連絡が入っていた。
「明日はHR・初授業のあとにクラス全員参加のレクリエーションがあります。気軽に参加してください」
気軽に、という言葉を、みおは二回読んだ。
「どんなやつなんだろ」とひなが言った。
「分かんない。でも楽しそうじゃない?」とさやかが言った。
みおは何も言わなかった。
明日のことは、明日考えよう、と思った。
それでも、明日の教室にさやかがいることは分かっていた。
隣に、勢多央がいることも。
放課後、さやかはホームルームのことで残っていた。
クラス委員を引き受けたらしかった。
あの子らしかった。
ひなとは下駄箱で別れた。
「また明日ね。レクリエーション、楽しみにしとくよ」
ひなはそう言ってスマホを横持ちにして、人の流れに紛れていった。
みおはローファーを履き直して、昇降口を出た。
坂を下りながら、今日一日を思い返した。
視線は、やはり多かった。
ただ、入学式の緊張が想定していたより長く続かなかった。
隣の席の勢多央は、一言も話しかけてこなかった。
別に、それでよかった。
みおも話しかけなかった。お互い様だった。
でも、落ち着いた声だったな、とは思った。
急いでいない話し方。
自分の名前を説明することに慣れているような、確かめるような言い方。
みおには少し、そのことが分かった気がした。
家に帰ると、玄関で靴を脱いだ。
手を洗って、緑茶を入れた。
いつもの流れだった。
台所の椅子に座って、温かいお茶を両手で包んだ。
窓の外は、もう夕暮れになりかけていた。
明日は初授業と、レクリエーションがある。
クラス全員と関わる日になる。
みおは少し、唇を噛んだ。
でも今日は、さやかの「頑張ってね」と、ひなの「羨ましいんだけど」と、笠置先生の「一緒に頑張りましょう」があった。
それから、くすくすという笑い声も。
桜は見えなかったが、まだ散っていないことは知っていた。
明日も咲いているはずだと、みおは思った。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




