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第一話 4月7日 入学式と、最後列の隣


 その朝、勢多央(せた おう)は五時半に目を覚ました。

 いつも通りの時間。

 いつも通りの天井。

 けれど今日だけは、起き上がるまでの一瞬に、ほんの少しだけ間があった。


 四月。

 入学式。


 ふたつの言葉を頭の中で確かめてから、央はゆっくりと上半身を起こした。


 台所に降りると、祖父がもう座卓の前に腰を落ち着けていた。

 湯呑みを両手で包んで、庭のほうを眺めている。

 白髪の後頭部が朝の逆光に沈んでいた。


「おはよう、じいちゃん」

「ああ」


 短い返事。それで充分だった。


 央はポットでお湯を沸かし、棚の引き出しから豆を取り出した。

 細口のドリッパーと紙フィルター。

 毎朝の段取りを手が覚えていた。

 コーヒーミルのハンドルを回す音が、まだ静かな家に低く響く。


 窓の外、東の空がうっすら明るくなりかけていた。

 桜が、まだ残っている。


「今日か」


 祖父が言った。

 問いではなく、確認のような口調だった。


「うん」

「緊張してるか」


 央はドリッパーを傾けながら、少し考えた。


「してないと思う」

「そうか」

「……してるかもしれない」

「正直でよろしい」


 祖父は小さく笑った。

 左手首の腕時計が、朝の光を反射した。

 文字盤が少し擦れている、アンティーク調のもの。

 央が中学に上がるとき、祖父が黙って渡してきた時計だった。


 それを撫でる手つきに、央は自分でも気づかなかった。



 校門前の坂道は、想像より人が少なかった。

 入学式は午前中だ。

 在校生はほとんど登校しない。

 新入生とその保護者、それから式のために出てきた先生方。

 それだけの人間が、四月の朝の校舎に吸い込まれていく。


 央は制服の袖口を一度直して、坂を上った。

 校舎は古いが手入れが行き届いていた。

 昇降口の脇に植えた桜が、まだ散らずに風の中で揺れている。


 この学校を選んだ理由は、家から近いから。

 それだけだった。

 偏差値も校風も、特に気にしなかった。

 近い、という一点だけで決めた。

 そのことを問い詰めてきたのは、ことねちゃんだった。


 波多野(はたの)ことね。一歳年上の従姉妹。

 父方の伯父、つまり父の兄の娘で、幼い頃から家族ぐるみの付き合いがある。

 子どもの頃は央のほうが背が低く、ことねの後ろをついて歩いていた。

 いや、正確に言えば、ことねが常に央の手を引いていた。

 「央ちゃんは私が守る」などと言って、実際そうしていた。


 その頃の記憶は恥ずかしいものが多すぎて、最近はなるべく掘り返さないようにしている。


 三月、入学が決まった直後のことだ。

 ことねは電話口でこう言った。


「え、あそこにするん? 家から近いから、って理由で決めたやろ絶対」

「……なんでわかるの」

「央だもん。いや、よかったやん。あたしも同じ学校やし」


 ことねは今年の四月から二年生になる。

 同じ学校であることは知っていた。

 だからこそ、少し迷ったのも事実だったが、それを言うと余計なことを言われる気がして黙っていた。


「でも央ってさ」とことねは続けた。

「高校はもう少し選んでもよかったんじゃないかな。勉強できるんだからさ」

「別に、どこでもいいよ」

「そういうとこが央っぽいんよな」


 笑い声が聞こえた。

 からかわれているのか、呆れられているのか、その境界線がいつも曖昧だった。


 昇降口で上履きに履き替えて、案内の掲示板を確認する。

 一年A組。教室は三階の一番奥。


 廊下を歩きながら、央はもう一度今朝の自分を思い返した。

 緊張してるかもしれない、と言ったら祖父に正直でよろしいと言われた。

 確かに正直ではあったが、緊張の中身がよく分からなかった。

 不安、というほど暗くはない。

 楽しみ、というほど明るくもない。


 新しい場所に、ただ移ってきた、という感覚に近かった。



 教室に入ったのは、式が始まる三十分ほど前だった。

 一年A組は、まだ半分ほどしか生徒が埋まっていなかった。

 誰もが似たような表情をしていた。

 知らない人間だらけの場所で、さりげないふりをしながら、実は内側でかなり計算している、あの独特の顔。


 央は自分の席を確認した。

 出席番号順に割り振られた席は、ちょうど最後列。

 窓際から数えて二番目。


 移動しながら、窓のほうにさりげなく視線を向ける。


 そこに、いた。


 正確に言えば、「いるはずなのに存在を小さく畳んでいた」という表現のほうが近かった。


 最後列の窓際の席。

 黒に近い暗いブラウンの髪を、緩やかなシュシュでまとめた女子が、そこに座っていた。

 前を向いて、教科書でも入れてきたのかふくらんだスクールバッグを膝の上に乗せて、まっすぐに視線を落としている。


 ただ、どう見ても。

 どう計算しても。


 脚が、長い。

 膝から足元まで、標準的な机の前では、とても収まっていなかった。


 央は自分の席に座りながら、横目でもう一度確認した。

 やはり、そうだった。

 隣の席の女子は、椅子に深く腰をかけることができないのか、やや前寄りに座っていた。

 そうすることで、なんとか膝を机の下に押し込んでいる格好だった。


 上半身のほうを見ると、肩から首にかけてのラインが、教室の天井にずいぶんと近いところにあった。


 央は前を向いた。

 腕時計を一度撫でた。


(背が……高い)


 それだけだった。

 驚きとも、感嘆とも言い切れない、ただの観察のような思考が、頭の中を静かに流れただけだった。



 入学式は体育館で行われた。

 新入生は出席番号順に並んだから、央はA組の中でほぼ最後のほうに位置していた。

 隣の女子は一つ後ろ、つまり最後尾に近いところだった。


 式の最中、央はほとんど前を向いていた。

 校長の話は長かったが、内容はそれなりに真面目だったので、別に眠くはならなかった。

 来賓の祝辞はさすがに眠くなりかけたが、腕時計の文字盤を指先でなぞることで目を覚ました。


 式が終わって退場するとき、隣の女子が立ち上がった。

 その瞬間、左隣に座っていた男子が、口の中で何かを言うのが見えた。

 央の旧知の人間だった。

 小学校からずっと同じクラスだった太秦拓海(うずまさ たくみ)が、目を丸くして隣の女子を見上げ、それから急いで前を向いて、頭の後ろをかいた。



「なあ」


 移動の列の中で、太秦が央の隣に割り込んできた。

 ソフトモヒカンの髪が、体育館の蛍光灯の下で少し明るく見えた。


「なんで俺が後ろに」

「いいじゃん別に」


 太秦は少し声を低くした。


「……隣の子、見た?」

「見た」

「あれ、背、何センチあるんだろ」

「さあ」

「すごくない? いや、すごいっていう意味じゃなくて、なんか……」


 太秦は頭の後ろをもう一度かいた。


「どういう感じでいればいいのかちょっと迷った」

「普通にしてれば」

「それが普通にできないやつもいるんだよ」


 央は少し考えた。


「じゃあ、何も気にしてないふりをして普通にしてれば」

「その状態を普通というんだよ」


 太秦は小声で言い返して、けれど少し笑った。


 前の列に目を向けると、例の女子が、少し俯き加減で歩いているのが見えた。

 肩を内に入れ、背中をわずかに丸めて。

 なるべく背を低く見せようとしているのか、あるいはただの癖なのか、央には判断できなかった。



 教室に戻ってから、担任が挨拶に来た。

 笠置千尋(かさぎ ちひろ)という名前だった。

 ドアを開けて入ってきたとき、一番前の席の女子とほとんど同じ目線の高さだったから、身長は低いほうだと思った。

 けれどその分、声がよく通った。


「笠置千尋です! 担任します」


 元気よく言ってから、少しだけ間を置いた。


「……一年生の担任は初めてなので、緊張してますが」


 正直な先生だな、と央は思った。


「皆さんもそうですよね。一緒に頑張りましょう!」


 拍手が起きた。

 まばらだったが、悪い拍手ではなかった。

 笠置先生は嬉しそうに笑って、出席をとると言った。


 名前が読み上げられるたびに「はい」という声が散らばった。

 緊張した声、普通の声、妙に大きい声。

 一人ひとりが違った。


「勢多、央」


 央は立ち上がって返事をした。


「はい」

「はい、ありがとう」


 笠置先生が顔を上げて、央のほうを見た。


「勢多で"せた"、央で"おう"……読めますね、大丈夫です。あ、でもこれ確認しておいたほうがいいですね。勢多さん、合ってますか」

「合ってます」

「よかった。座ってください」


 席を占めると、太秦が横から肘をついてきた。


「先生、確認してくれた。ちゃんとしてるじゃん」

「うん」


 数人を挟んで、名前の読み上げが続いた。


葛城(かつらぎ)、みお」


 一拍の間があった。

 隣の席で、衣擦れの音がした。

 央はほとんど無意識に、そちらを向いた。


 女子が立ち上がった。

 「立つ」というより「伸びた」という感覚に近かった。

 机の天板を軽く手で押さえながら、ゆっくりと、しかし確かに、その身体が教室の空間に占める面積を広げていく。


「……はい」


 声は低くて、落ち着いていた。

 ただ、少しだけ小さかった。


「はい、ありがとう。葛城で"かつらぎ"、みお……これも読めますね」


 笠置先生が柔らかく言った。


「……えっと」


 女子、葛城みおは、一瞬だけ教室を見回した。

 長いまつ毛の下の、ヘーゼル色の瞳が、ちらりと揺れた。


「後ろの席の方、少し見えにくかったらごめんなさい」


 静寂があった。

 一秒か、二秒か。


 それからくすくすという笑い声が、何人かから同時に漏れた。

 責めるような笑いではなかった。

 緊張が解けたような、少し温かみのある空気が教室に広がった。


「大丈夫ですよ」と笠置先生が言った。「座ってください」


 葛城みおが座った。

 と同時に、また少し体を小さくした。

 前を向いて、手を膝の上で重ねて、どこか遠くを見るような目をした。


 央はそれを横目に見ながら、前を向いた。

 腕時計を撫でた。


(見えにくかったら、って言ったのか)


 自己紹介のかわりに、謝った。

 央はそのことを、少しだけ不思議に思った。



 出席確認が終わると、全員が順番に一言自己紹介をする時間が設けられた。

 クラスに打ち解けた空気を作るための、恒例のやつだ。

 笠置先生がそう告げると、教室全体が微妙な緊張に包まれた。

 自己紹介というものは、どんな年齢でも多少の度胸を必要とする。


 太秦が立ち上がったのは、五人目か六人目だった。


「太秦拓海です! 読めた人、天才です」


 笑いが起きた。


「あ、"うずまさ"ね。映画村のある。よろしく!」


 また笑い。そのあとに拍手。

 太秦は頭の後ろをかいて、照れていないふりをしながら座った。


 生まれつきの雑談力だと、央は思った。

 同じことを言っても、自分には無理だ。


 央の番が来たとき、立ち上がりながら一度だけ深呼吸をした。


「……勢多央です。よろしくお願いします」


 それだけ言ってから、一拍おいた。


「あ、読めますよね。勢多で"せた"、央で"おう"です」


 小さく笑い声。控えめな拍手。


 隣に視線を向けると、葛城みおが「聞いてます」という顔で、真っ直ぐ前を向いていた。

 目は合わなかった。


 葛城みおの番が来た。

 今度も、立ち上がるのにほんの少し時間がかかった。

 机を手で押さえ、慎重に立つ。


「……葛城みおです。よろしくお願いします」


 最初の自己紹介と同じ構成だった。そこで終わると思った。

 しかし。


「……えっと」


 みおは、一度だけ唇を軽く噛んだ。

 それから、ためらうような一呼吸。


「後ろの席の方、少し見えにくかったらごめんなさい」


 また、静寂。

 今度は先ほどより長かった。


 そしてまた、くすくすという笑いが来た。

 今度は最初より少し大きかった。


「同じこと言った!」と誰かが言った。悪意のない声だった。

「ほんまや」という声もした。

「でも気にしてくれてる感じがいいよな」という声も。


 葛城みおは、あ、という顔をした。

 気づいていなかったらしかった。さっきも同じことを言ったことに。

 耳の後ろが、少しだけ赤くなった気がした。


「大丈夫ですよ、さっきも言いましたけど」と笠置先生が笑った。

「気にしてくれてありがとう。座ってください」


 みおが座った。

 机に視線を落として、手を組んだ。


 央はそれを横目に見ていた。

 見えにくかったらごめんなさい、か。

 二回言った。おそらく、意図したわけではなく。


 なんとなく、この人はこういう人なのかもしれないと思った。

 具体的には言えなかった。

 ただ、なんとなく。



 自己紹介が終わって、教室に少し緩んだ時間が流れた。

 先生が後から来るまでの間、隣同士で話しかけあう声があちこちから聞こえる。


 太秦が、央の席まで身を乗り出してきた。


「なんか、いいクラスっぽくない?」

「まだわかんないよ」

「でもさあ、笑いのハードルが低いのはいいことだと思う。ぴりぴりしてないってことだから」


 央はそれに頷いた。確かに、悪くはない。


「隣の子さ」


 太秦が小声になった。

 央は内心でため息をつきかけたが、顔には出さなかった。


「なんか、いい子っぽくなかった? ごめんなさい二回言ったやつ」

「……そうかもしれない」

「おうくんは気にならないわけ? 隣の子のこと」

「特には」

「ほんとに?」

「なんで聞くの」

「いや、なんか……」


 太秦は頭の後ろをかいた。それ以上は言わなかった。


 央は前を向いた。

 机の表面に視線を落とした。


 葛城みおは、今も静かに手を組んで、前を向いていた。

 窓から入る光が、ヘーゼル色の瞳の端をわずかに照らしていた。


 特には。と言ったのは、嘘ではなかった。

 まだ今日会ったばかりで、名前と顔と、それからふたつの「ごめんなさい」しか知らない。

 気になる、と言えるような話ではなかった。


 ただ。

 どこかに引っかかるものがあることは、認めてもよかった。

 何が引っかかっているのかは、まだわからなかった。


 腕時計を撫でた。

 外では、桜がまだ散っていなかった。



 帰り際に、廊下でことねと会った。

 二階の踊り場で、テニス部の部員らしい先輩に囲まれていたことねが、央の姿を見て手を振った。


「央! 今日どうやった」

「まあ普通に」

「そっか」


 ことねは先輩たちに少し断ってから、央のほうに近づいてきた。

 右頬のえくぼが、笑うたびに現れた。


「クラスは?」

「A組」

「あ、笠置先生か」

「知ってるの」

「二年目の先生。去年職員室で見かけたことある。元気よくて面白い人だって聞いた。いい先生だよたぶん」


 そういう情報収集の速さが、ことねらしかった。


「同じクラスに友達できた?」

「まだ初日だよ」

「太秦は?」

「同じクラスだった」

「よかったやん。じゃあ大丈夫ね」


 ことねは満足そうに頷いた。

 それからふと思い出したように、央の顔を見た。


「隣の席の子とは話した?」


 央は一瞬止まった。


「……なんで隣の席の子の話になるの」

「なんでって、隣ってそれだけで毎日話す機会あるやん。どんな子やった」

「……葛城みおっていう子」

「みおちゃんか。どんな子?」

「背が高くて、おとなしい感じで。自己紹介で、後ろが見えにくかったらごめんなさいって言ってた」


 ことねの顔が、ぱあっと明るくなった。


「え、かわいい。その子」

「かわいいって言うのかな」

「かわいいよ、そういうの。気遣える子じゃん」


 ことねは目を細めた。

 その顔に、なにかを楽しんでいる気配があった。


「ちゃんと仲良くしなよ」

「別に仲良くするとかじゃなくても」

「なんで遠慮するの、隣なんだから自然でいいじゃん」


 それもそうだな、と央は思った。

 思ったが、それを口には出さなかった。


 ことねは最後にもう一度笑って、先輩たちのほうへ戻っていった。


「また今度ね。無理しなくていいからね」

「ありがとう」


 踊り場を下りながら、央は外の景色を見た。

 校舎の窓から、桜が見えた。

 もう少しで散りそうな、しかしまだ粘っている花たちが、夕方の風の中で揺れていた。



 家に帰ると、台所から夕食の匂いがした。

 母との会話は三言で終わった。

 我が家の会話は、だいたいそういう長さだった。


 部屋に上がって制服のジャケットを脱いでから、央はふと気づいた。

 今日一日、葛城みおとは一言も話していなかった。


 隣の席で、式に出て、自己紹介を聞いて、それだけだった。

 話すきっかけは、いくらでもあったはずだ。

 あったはずだが、気づいたときには式と挨拶が終わっていた。


 明日は話すだろうか。

 ことねが言っていた。自然でいいじゃん、と。

 それもそうだな、と央は思った。


 腕時計を外して机の上に置いた。

 文字盤が、部屋の灯りを受けて鈍く光った。


 窓の外は、もう暗くなりかけていた。

 桜は見えなかった。

 けれど、まだ散っていないことは知っていた。


 明日も咲いているはずだ、と央は思った。

 それから少し遅れて、なぜそんなことを考えたのか、分からなかった。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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