第二十九話 10月24日 火のそばで、言えたこと
中庭を出ると、文化祭の声が戻ってきた。
来場者の波は昼前から本格的になっていた。
廊下を行き来する人が増えていた。
央とみおは廊下の端を選んで歩いた。
昨日と同じ選び方だった。
でも、昨日と何かが違った。
何が違うのかを言葉にしようとすると、うまくいかなかった。
央はそれを、言葉にしようとするのをやめた。
隣で、みおが歩いていた。
それで十分だった。
縁日ブースに戻ったのは、少し後だった。
さやかが片付けの指示を出しながら、ふたりが並んで戻ってくるのを見た。
クリップボードを持ったまま、少し止まった。
「……みお」
さやかが言った。
「……なんか顔が違う」
みおが少し間を置いた。
「……そうですか」
さやかがみおを見た。
それだけで、何かを受け取ったようだった。
クリップボードを胸の前で一度抱えて、また片付けの方へ向いた。
何も聞かなかった。
太秦が近づいてきたのは、その少し後だった。
エプロンを外したばかりで、手に飲みかけのスポーツドリンクを持っていた。
「おうくん」
「……なんですか」
「どうした」
太秦が聞いた。
普段より少し、声が低かった。
「……特に何も」
央が答えた。
太秦が頭の後ろを掻いた。
「……そっか」
一拍置いた。
「よかった」
それだけだった。
太秦はスポーツドリンクを一口飲んで、別の方向へ歩いていった。
聞かなかった。
でも分かっているのだ、と央は思った。
午後の中頃、ことねのブースに立ち寄った。
来場者が減った合間に、ことねがテーブルの端を拭いていた。
央が近づくと、顔を上げた。
「央」
「……少し、いいですか」
「うん、何」
央は少しだけ間を置いた。
「……はい」
それだけ言った。
ことねが手を止めた。
一秒、二秒、央を見た。
それから、笑った。
えくぼが出た。
声は出さなかった。
でも、笑った。
「……そっか」
ことねが言った。
「うん、そっか。よかった」
またテーブルを拭き始めた。
背中を向けたまま、もう一度だけ言った。
「よかったよ、ほんまに」
夕方になった。
文化祭のプログラムが最後に差し掛かった。
グラウンドへの移動を促すアナウンスが流れた。
生徒たちが廊下を流れていった。
上着を手に持っている人が多かった。
十月の夕方のグラウンドは、日が落ちると冷える。
央はみおの少し後ろを歩きながら、外に出た。
グラウンドの中央に、薪が組まれていた。
日が傾いて、空の色が変わり始めていた。
東の方からもう暗くなりかけていて、西だけがまだ明るかった。
生徒たちが薪の周囲に、大きな円を作った。
学年の違いに関係なく、来た順に場所を取っていった。
央はみおの隣に立った。
自然にそうなった。
少し離れた場所に、太秦とさやかとひながいた。
ひなはスマホを横持ちにしていたが、今は撮らずにいた。
さらに少し離れた位置に、朔が立っていた。
プログラムの紙を手に持っていた。
その隣に、ことねがいた。
偶然、そうなった場所だった。
火が点いた。
薪の中心から炎が上がった。
最初は小さかったが、すぐに大きくなった。
火花の爆ぜる音が、グラウンドに広がった。
周囲から歓声が上がった。
火が揺れていた。
オレンジと赤が混じった光が、並んで立つ生徒たちの顔に当たった。
央は少し先の方を見た。
遠くに、朔の後ろ姿とことねの横顔が見えた。
ことねが火を見て言った。
声は聞こえなかったが、口の動きで「きれい」と言っているのが分かった。
朔がその横顔を見た。
炎の光がことねの右頬に当たっていた。
央は前を向いた。
それ以上は見なかった。
みおが少し体を動かした。
「……寒いですか」
央が聞いた。
「……少し」
みおが答えた。
「……上着を」
「……持ってきました」
みおが手に持っていたものを羽織った。
ゆったりとしたシルエットの、地味な色のものだった。
火が明るかった。
風がなかった。
遠くのプログラム係が何かを読み上げていた。
各クラスの展示への感謝と、一日ありがとうという言葉が断片的に聞こえた。
みおが少し静かに立っていた。
央も、同じように立っていた。
時間が少し経った。
歓声が収まり始めた。
火は安定した燃え方になっていた。
最初よりも少し、落ち着いた明るさだった。
生徒たちが少しずつ動き始めた。
隣の人と話し始める人もいた。
立ち位置を変える人もいた。
そのなかで、朔とことねの周囲が少しだけ開いた。
朔がことねの方を向いた。
「……波多野さん」
少し離れた位置から、その声の出方で分かった。
ことねが振り向いた。
えくぼが、火の明かりの中に見えた。
「ん?」
朔が一拍置いた。
眼鏡の奥の目が、静かだった。
「……好きです」
朔が言った。
「……ずっと、あなたのことが好きでした」
言い終えた後、少し息を吐いた。
ことねが黙った。
火が揺れた。
パチ、と薪が鳴った。
「……朔くん」
ことねが言った。
「返事は、すぐじゃなくていいです」
朔が先に言った。
急いでいない声だった。
待てる、ということが、その声の中にあった。
「……うん」
ことねが少しの間、火を見た。
「ちゃんと考える。それでいい?」
「……はい」
朔が答えた。
「それで十分です」
しばらく、ふたりで火を見た。
「……ありがとう、朔くん」
ことねが言った。
「こちらこそ」
朔が短く答えた。
央はそれを見ていた。
朔の後ろ姿と、ことねの横顔だけが見える距離だった。
言葉は届かなかった。
でも、何が起きたかは分かった。
隣でみおも、同じ方向を見ていた。
「……気づいてましたか」
みおが言った。
「……はい」
央が答えた。
しばらく、ふたりで火を見た。
グラウンドの端の方で、誰かが笑っていた。
プログラム係のアナウンスが、また流れた。
「……サクさんは、言えましたね」
央が言った。
「……そうですね」
みおが答えた。
少しの間があった。
火が一度、大きく揺れた。
「……央さんも」
みおが小さく言った。
「……言えました」
「……そうでした」
央が言った。
キャンプファイヤーの火が、ゆっくりと落ち始めた。
炎が小さくなった。
薪の形が見え始めた。
生徒たちがまた少し動いた。
空が、完全に暗くなっていた。
星は出ていなかった。
でも、火のそばはまだ明るかった。
「……帰りましょうか」
みおが言った。
「……はい」
ふたりで、グラウンドの外に向かって歩き始めた。
火が後ろに残った。
遠くなるにつれて、明るさが薄れた。
文化祭の二日間が、終わろうとしていた。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




