第二十八話 10月24日 好きです
目が覚めたのは、いつもより少し早かった。
時計を確認した。
五時十分。
央は布団の中で少しだけ天井を見た。
昨日の閉会式のアナウンスが、まだどこかに残っていた。
明日があるから、と太秦が言った。
起き上がった。
珈琲ミルのハンドルを回す音が、静かな台所に響いた。
昨夜、豆の準備をしておいた。
引き出しの中に挽く前の豆が入っていた。
それを取り出してミルにセットした。
回す感触が、いつもと同じだった。
音も、いつもと同じだった。
でも、少しだけ違う気がした。
何が違うのかは分からなかった。
分からないまま、ドリッパーを傾けた。
窓の外、東の空がうっすら明るくなりかけていた。
銀杏がまだそこにあった。
昨日より少し、葉が落ちていた。
珈琲を一口飲んだ。
苦かった。
いつも通り、苦かった。
学校に着いたのは、始業の四十分前だった。
昇降口で上履きに替えた。
廊下に人はほとんどいなかった。
文化祭二日目は一般開放日だった。
午前の早いうちはまだ静かで、来場者の波は昼前から本格的になる。
一年A組の教室に入った。
みおがいた。
窓際の席で、シフト表を確認していた。
顔を上げた。
「……おはようございます」
みおが言った。
「おはようございます」
央が答えた。
それだけだった。
いつも通りの挨拶だった。
でも、何かが少し違った。
昨日と今日のあいだに、何かがある。
それが何かは、まだ言葉になっていなかった。
央は自分の席に鞄を置いた。
時計を一度だけ確認した。
ホームルームが終わったあと、みおが近づいてきた。
「……央さん、午前はシフトがありましたか」
「……輪投げ補助が一時間で終わります。十時半には空きます」
みおが少し考えた。
「……わたしも、十時半には終わります」
「そうですか」
少しだけ間があった。
「……一緒に見て回っていいですか」
みおが言った。
声が、いつもよりわずかに低かった。
央は一拍置いた。
「……はい」
みおが少しだけ、唇を動かした。
笑うほどではなかった。
でも、そうでもなかった。
十時半に輪投げ補助を交代した。
廊下に出ると、みおがすでにいた。
壁際に立って、来場者の流れを避けながら待っていた。
央が近づくと、みおが気づいた。
「……お疲れ様です」
「お疲れ様です」
並んで歩き始めた。
方向は決めていなかった。
でも、自然に昨日と同じ順路になった。
本館の廊下を歩きながら、みおが少し足を緩めた。
「……昨日ここを通ったんです」
「……わたしも」
図書委員展示コーナーの前だった。
台紙は昨日のままだった。
推薦本の表紙と、手書きの文字が並んでいた。
朔が見当たらなかった。
今日は一般開放日だから、別の場所にいるかもしれなかった。
みおのポップの前を通った。
二人とも何も言わなかった。
でも、央は少しだけ足を緩めた。
みおも、同じように緩めた。
それだけだった。
一年C組の教室の前を通ったとき、みおがまた少し足を止めた。
「……寄っていいですか」
「……はい」
入口から写真の並びが見えた。
来場者が数人、足を止めていた。
昨日と同じ写真が、同じ場所に並んでいた。
みおがゆっくり歩いた。
廊下を歩く後ろ姿の写真の前で、少し止まった。
央も、その横に立った。
何も言わなかった。
でも、隣に立っていることは分かった。
みおが先に動いた。
「……行きましょうか」
「……はい」
ことねのドリンクブースに差し掛かった。
テントの下、ことねが来場者に紙コップを渡していた。
央とみおが並んで近づいていくのに気づいて、ことねが顔を上げた。
「あ」
一拍、間があった。
「今日も一緒に来た!」
ことねが笑った。
声が弾んでいた。
えくぼが出た。
「……はい」
央が答えた。
「昨日より早い時間やん。どこ見てきたの」
「……図書委員の展示と、C組の写真展示を」
「あー、ひなちゃんとこ。いい写真あったでしょ」
「……はい」
ことねがみおに向いた。
「みおちゃんはどう、今日の文化祭」
「……楽しいです」
ことねが頷いた。
何かを言いかけて、代わりに紙コップを二つ取った。
「はい、サービス。ふたり分」
「……ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ことねが笑いながら次の来場者に向き直った。
背中越しに「楽しんできて」とだけ言った。
十一時を過ぎると、来場者の数が増えた。
廊下を歩く人の流れが、少しずつ濃くなった。
央は自然に人の多い方向を外しながら歩いた。
みおも同じように、廊下の端を選んだ。
ふたりが並んでいると、身長差があった。
みおの方が頭一つ分以上高かった。
でもそれが気になったことは、ほとんどなかった。
昨日一人で歩いた場所を、今日は一緒に歩いていた。
来場者の声と、遠くのブースの音楽が混じって聞こえた。
央は腕時計を一度確認した。
針が十一時半を指していた。
(何かが、決まりかけている感触)
昨夜の片付けのあいだ、そう感じた。
今も、同じものがある。
今日は少し、輪郭がある気がした。
渡り廊下の突き当たりを抜けると、中庭が見えた。
中庭に出た。
来場者はほとんどいなかった。
屋外のブースは校庭側に集中しているため、この中庭は静かなままだった。
銀杏が一本、風に揺れていた。
ふたりは自然に、そこで足を止めた。
遠くから文化祭の声が聞こえた。
歓声と、音楽の断片と、アナウンスの声。
でも、ここだけは少し、静かだった。
みおが銀杏を見ていた。
葉が何枚か、風に乗って落ちた。
央は腕時計の文字盤に、指が触れた。
無意識だった。
気づいた。
少しだけ間を置いた。
「……みお」
みおが振り向いた。
「……はい」
央は前を向いたまま、言った。
「……好きです」
「ずっと考えていた」とは言わなかった。
「突然ですが」とも言わなかった。
それだけで十分だった。
みおがしばらく、黙った。
銀杏の葉が、また一枚落ちた。
みおが唇を一度、結んだ。
遠くの声が続いていた。
ここだけが、静かだった。
「……わたしも」
みおが言った。
「好きです」とは言わなかった。
「わたしも」だけだった。
でも、伝わった。
央はそれを聞いた。
「……そうですか」
みおが少し笑った。
(みおが笑った)
央はそれを、ちゃんと見た。
さっきまで何かが決まりかけていた感触が、今はただ静かにそこにあった。
答えが出た、というより、問いが消えた感じだった。
みおがまた銀杏の方を向いた。
「……銀杏、きれいですね」
「……はい」
ふたりで少し、銀杏を見た。
葉が落ちた。
また一枚、落ちた。
「……行きましょうか」
みおが言った。
「……はい」
ふたりが並んで、また歩き始めた。
中庭の出口に向かって、ゆっくりと。
遠くの声が、また近くなった。
文化祭の二日目が、まだ続いていた。
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