第二十七話 10月23日 見ていた人
文化祭の第一部が終わった。
さやかが「お疲れ」と声をかけながら、次の担当者にバトンを渡していった。
てきぱきとしていた。
シフト交代の間も、チェックリストから目が離れなかった。
(動いている方が、生き生きしてる)
みおが言った言葉だと央には分からなかった。
でも、実際そう見えた。
さやかという人間は、止まっているより動いているときの方が、確かに正確だった。
央は射的担当の位置から離れて、縁日ブースの外へ出た。
第二部の自由時間が始まった。
廊下には人が増えていた。
昼に近い時間で、他クラスの生徒も行き来していた。
央は特に行き先を決めずに歩き始めた。
どこを見ようか、とは考えなかった。
歩けば、見えるものが出てくる。
それで十分だった。
テニス部のドリンクブースは、午前と同じ位置にあった。
テントの下、テーブルに紙コップが並んでいた。
人が二、三人、列を作っていた。
受付の端に、ことねがいた。
「央」
央が近づいた瞬間、ことねが顔を上げた。
探していたように、また視線が合った。
「……来てたんですね」
「ブース担当だもん、いるよ」
ことねが紙コップを受け取り渡しながら、空いた手で央の方に向き直った。
「央、みおちゃんと一緒じゃないの?」
央は一拍、間を置いた。
「……シフトが違ったので」
「あー、そっかそっか」
ことねが頷いた。
それから、何か考えるような間があった。
「……ちゃんと話せた?」
央は少し、止まった。
「……何をですか」
「なんでもない」
ことねが笑った。
からかっているような、でもそうでもないような笑い方だった。
紙コップをひとつ取って、麦茶を注いだ。
「はい、これサービス」
差し出された紙コップを、央は受け取った。
「……ありがとうございます」
「行ってきたら」
ことねが手を振った。
また次の来場者に向き直った。
央は麦茶を一口飲みながら、ブースを離れた。
(ちゃんと話せた?)
廊下を歩きながら、その言葉が頭の中に残った。
ちゃんと話す、という言葉の輪郭が、うまく掴めなかった。
話すことは、今日もあった。
開会式の前後で、挨拶と確認をした。
それで十分だったか、と言われると、何が十分の基準なのかが分からなかった。
(ちゃんと話す、とは)
答えが出るより早く、廊下の突き当たりに来た。
本館の奥、廊下の壁際に推薦本の展示が並んでいた。
台紙が一列に続いていた。
手書きの文字と、表紙の写真が交互に目に入った。
朔が、台紙の端に立っていた。
一枚の角度を、指でわずかに直した。
それから央に気づいた。
「……勢多くん」
「お疲れ様です」
「第一部が終わりましたか」
「はい。今は自由時間で」
央は台紙を一枚ずつ目で追いながら、歩いた。
みおのポップの前で、少し足が緩んだ。
ミステリーの一冊と、もう一冊。
接続詞を削ったあとの文章が、確かにそこにあった。
「……サクさんは」
央が言った。
「ことね先輩のブースには行きましたか」
朔が少し、間を置いた。
「……あとで行くつもりです」
静かな声だった。
聞きながら央は、その「あとで」の重さを少し考えた。
(気を紛らわせるのが速い人だ)
以前思ったことが、また戻ってきた。
「あとで」という言葉は、今日だけのものではないかもしれなかった。
でも、それを口には出さなかった。
「……そうですか」
「葛城さんも来ていましたよ」
朔が静かに言った。
「……午前中に」
「そうですか」
央は台紙の列を、最後まで目で追った。
それから、朔に軽く頭を下げた。
「……失礼します」
「はい」
一年C組の教室は、入口のそばに人が数人いた。
央は中に入った。
写真が並んでいた。
机の上に置かれたものと、壁に貼られたものが混じっていた。
校庭の銀杏。
踊り場からの夕暮れ。
傘立てと西日。
ひなが撮ったのだと分かった。
光の角度が、いつもひなの横持ちのスマホから出てくるものと同じ感じがした。
央は一枚ずつ、ゆっくりと目を移した。
そこで、止まった。
一枚の写真があった。
廊下を歩いている、後ろ姿。
背の高い人物が、前へ向かって歩いていた。
シュシュでまとめた暗い髪が、少し揺れているように見えた。
(……これは)
央は、少しだけ近づいた。
光が後ろ姿の輪郭を縁取っていた。
廊下の奥の方から差し込んでいるような光だった。
写真の中の人物が誰か、央には一秒もかからなかった。
「いい写真でしょ」
声がした。
ひなが、展示の奥の方から来ていた。
スマホを横持ちにしたまま、央の方を見ていた。
「撮ってよかったと思ってる」
央は写真から目を離さなかった。
「……いつ撮ったんですか」
「覚えてない」
ひなが言った。
嘘をついている感じはしなかった。
「気づいたら撮ってた。光がよかったから」
央はそれを聞きながら、写真を見続けた。
廊下を歩いているみおが、光の中にいた。
背が高くて、肩幅があって、でも歩き方に力みがなかった。
どこかへ向かっていた。
何を考えていたのかは、分からなかった。
でも確かに、誰かが見ていた。
そのことが、写真の中に残っていた。
「…………」
央は何も言わなかった。
でも、その場を動かなかった。
ひなが少し首を傾けて、央の横顔を見た。
何かを言いかけて、言わなかった。
スマホをポケットに入れた。
教室の外から、文化祭の声が続いていた。
遠くて、でも確かな賑やかさだった。
央はもう一度だけ写真を見て、顔を上げた。
「……展示、よくできていますね」
「ありがと」
「本当にそう思って言っています」
「……知ってる」
ひながぶっきらぼうに、でも少し笑いながら言った。
廊下に出ると、人の流れが少し変わっていた。
昼に近い時間で、行き来する生徒の数が増えていた。
央は人の流れを確認しながら、人だかりができている方向をさりげなく外した。
もともと、人の多い場所は苦手だった。
廊下の端を歩いた。
渡り廊下の角を曲がろうとしたところで、止まった。
みおがいた。
同じように廊下の端を歩いていたみおが、角を曲がってきたところだった。
二人は、ほぼ同時に立ち止まった。
みおが少し目を見開いた。
央も、特に何も言わなかった。
少しだけ間があった。
どちらからともなく、また歩き始めた。
自然に、並んでいた。
「……どこを見ましたか」
先に口を開いたのは、みおだった。
「……ひなさんの展示を見ました」
「……わたしも」
歩きながら、短いやりとりが続いた。
「……写真に気づきましたか」
みおが聞いた。
具体的に何の写真か、とは言わなかった。
「……はい」
「……そうですか」
それだけだった。
でも、同じものを見たことは伝わった。
廊下の外、銀杏の葉が風に揺れていた。
秋の光が、斜めに差し込んでいた。
みおが少し、唇を噛んだ。
それからまた前を向いた。
央はそれを横目で見た。
見て、何も言わなかった。
二人の間に、ちょうどいい距離があった。
ことねのドリンクブースに差し掛かったのは、自然な流れだった。
テントの下、ことねが来場者に紙コップを渡しているところだった。
央とみおが並んで近づいてくるのを見て、ことねが顔を上げた。
「あ、そろって来た」
ことねが笑った。
えくぼが出た。
少し声に弾みがあった。
「……合流しました」
「たまたまですか」
「……廊下の角で鉢合わせました」
「へえ」
ことねがみおに紙コップを一つ差し出した。
「みおちゃん、今度は麦茶でいい?」
「……ありがとうございます」
そこへ、後ろから声がした。
「あ、おうくんいる」
太秦だった。
第二部のシフト交代の合間に抜けてきたらしく、エプロンをまだつけていた。
横にさやかがいた。
「葛城さんも一緒じゃないですか」
「……たまたまです」
「へえ、たまたま」
太秦が頭の後ろをかきながら、ことねに向かった。
「俺にも一つください」
「はい、百円」
「高校生から取るんですか」
「テニス部の運営費」
「分かりました」
さやかが隣でそのやりとりを聞きながら、クリップボードに何かを書き込んでいた。
それでも口の端が、かすかに上がっていた。
賑やかになった。
四人が一箇所に集まると、どうしてもそうなった。
午後の光が傾き始めた。
ブースの客足が少し落ち着いた時間に、央は縁日ブースの後片付けを始めた。
第一部の射的台をずらして、壁側に収める。
使ったコルク弾の数を確認する。
景品の残数を集計する。
さやかが「残りはわたしが確認するから、そっちやっといて」と分担を割り振った。
動きが止まらなかった。
文化祭の閉幕が近づくほど、さやかは速度が上がるように見えた。
央は台座の端を持ちながら、少し考えていた。
(みおが笑っていた)
ことねのブースを離れるとき、太秦の言葉に少し笑っていた。
今日、何度か、笑っていた。
(今日も見ていた)
それが当たり前のことのように、自分の中に収まっていた。
(ちゃんと話せた? とことねちゃんに聞かれた)
麦茶の紙コップを持ちながら、答えられなかった。
「何をですか」と聞き返したまま、ことねは教えてくれなかった。
(ちゃんと話す、とはどういうことだろう)
台座の角を壁に当てないように調整しながら、考えた。
挨拶のことではないと思った。
確認や、用件のことでもないと思った。
では、何だろうか。
腕時計の文字盤に指が触れた。
無意識だった。
気づいて、少し止まった。
祖父から譲り受けた時計だった。
重さは分かっていた。
針の進み方も知っていた。
答えは、出なかった。
でも何かが、決まりかけているような感触が、薄く、あった。
(決まりかけている)
言葉にしたら消えてしまいそうで、言葉にしなかった。
「おうくん」
声がした。
太秦が台座の向こう側に来ていた。
エプロンを外したところだった。
「……分かってる」
央が言った。
太秦が少し首を傾けた。
「……何が?」
「……まだ分からない」
「え」
太秦が少し間を置いた。
頭の後ろを掻いた。
「……まあ、明日があるから」
短く言った。
それ以上は言わなかった。
央は台座をゆっくりと壁に収めた。
閉会式のアナウンスが流れた。
スピーカーから、文化祭一日目の閉幕を告げる声が響いた。
縁日ブースの周囲で、生徒たちが動き始めた。
片付けの音と、声とが重なった。
央は台座を壁に沿わせたまま、少し立った。
アナウンスの声は、廊下の向こうまで届いていた。
明日、この時間が、また来る。
央は腕時計を一度だけ撫でた。
秋の夕方が、廊下の窓に差し込んでいた。
もうすぐ、日が沈む。
ご一読いただきありがとうございます。
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