第二十六話 10月23日 文化祭、はじまる
体育館の空気は、いつもと違った。
折りたたみ椅子が縦横に並んで、そこに全学年の生徒が学年・クラス別に座っていた。
正面のステージには生徒会の役員が並んでいて、スピーカーから断続的に雑音が混じっていた。
央は一年A組の列の、端から三番目の椅子に座っていた。
隣に、みおがいた。
体育館はすでに人の熱気で温かかった。
十月の末だというのに、上着を脱いでいる生徒が多かった。
みおは手元のシフト表を一度だけ確認して、折り畳んだ。
それから前を向いた。
央はそれを横目で見た。
(シフトは把握してあるんですね)
口には出さなかった。
ステージ上の生徒会長が開会の挨拶を読み始めた。
声はよく通っていた。
内容は定型文だったが、本人が緊張していないのは分かった。
央はそのまま、視線をゆっくり動かした。
二年生の席が、A組より少し後方に並んでいた。
その列の中に、ことねがいた。
ことねが、こちらを見た。
目が合った、というより、探していたように合った。
ことねが小さく手を振った。
右手を胸のあたりで、小さく。
央は軽く頷いた。
隣で、みおが少し首を動かした。
開会式の壇上を見つめたまま、横目だけがことねの方へ向いていた。
それだけで、また前を向いた。
「では、実行委員長から一言いただきます」
マイクがスタンドごと引き継がれた。
実行委員長が前に出た。
そのタイミングで、一年A組の列の後ろから声がした。
「笠置先生、先生も初参加ですよね?」
列の外に立っていた笠置先生に向けた、誰かの声だった。
先生がわずかに硬直した。
「……うん、そうだね。去年は風邪だったんでね」
「じゃあうちらと一緒です」
「先生は去年もいたから! この学校に!」
「でも文化祭はいなかったので同期ですよね」
「同期は違う。そこは違う」
笠置先生がきっぱり言った。
でも頬が少し赤かった。
周囲の生徒から笑いが漏れた。
隣の列にいた太秦が「楽しくなりそう」と小声で言った。
さやかが「笑い声、もう少し抑えて」と即座に返した。
央は前を向いたまま、口元だけが少し動いた。
みおも、前を向いていた。
開会式が終わると、各クラスが出し物の持ち場へ散っていった。
一年A組は、教室棟一階の廊下に面したスペースを縁日ブースとして割り当てられていた。
前日までに設置した台座と、射的の板壁が、朝の光の中に並んでいた。
太秦がブースを一周してから、射的の台座の前に屈み込んだ。
「……ちょっと右側の足が浮いてる」
呟いた。
道具箱からドライバーを出して、台の底面をのぞき込んだ。
「ここ、昨日も確認したじゃないですか」
後ろから声をかけたのは同じクラスの男子だった。
「確認した。でも今日は床が違う」
「床が違う?」
「廊下と教室、微妙にフラットじゃない。昨日教室で作ったからな」
太秦がドライバーを回した。
数秒で台が落ち着いた。
そのまま台に体重をかけてみた。
動かなかった。
「はい、解決」
「え、速い」
「これくらいは」
太秦が立ち上がった。
どこか満足そうだった。
クラスから笑いが起きた。
さやかがそれを横で聞きながら、シフト表を見直した。
「じゃあ第一部の射的、勢多くんと……あと二人お願い。輪投げとボールすくいも同様に第一部入ってる人は定位置に」
「はい」
央は前に出た。
第一部が始まった。
縁日ブースの前に、少しずつ人が集まり始めた。
最初に来たのは同じ一年生の女子グループだった。
四人で連れ立っていた。
射的の前に立って、「やってみる」と言いながらそわそわしていた。
「一回百円です」
央が言った。
四人のうちの一人が「え、百円なら全員やれる!」と言って財布を出した。
コルクの弾を渡した。
的の説明をした。
女子四人が順番に打った。
的が倒れるたびに声が上がった。
最後の一人が的の端を掠めて惜しくも倒せなかったとき、「あー!」という声が大きかった。
「もう一回やっていいですか」
「どうぞ」
弾を受け取って、また構えた。
央は次の客が来るかどうか確認しながら、弾の補充を確認した。
考えることが多かった。
弾の残数。
的の位置が少しずれていないか。
次の来場者。
ブース全体の流れ。
(自分がここに立っている理由を考える間もなく、動いている)
そう思ったのは、ふと気づいたときだった。
考えたのではなく、気がついた、という感じだった。
来場者がいる間は、次のことを考えていた。
来場者が離れた瞬間だけ、少し、頭が静かになった。
その静かな一瞬に、体育館での開会式を思い出した。
(みおは、今何をしているか)
輪投げ担当は第二部から。
今の時間は自由だと聞いていた。
どこを歩いているのか、央には分からなかった。
みおは、ひとりだった。
第二部の輪投げ担当が始まるまで、みおには時間があった。
さやかは「前半は自由に見て回っていい」と言った。
言い方は、そっとしておく、という感じだった。
みおはA組のブース前を離れて、渡り廊下を歩き始めた。
文化祭というのは、こういうものか、とみおは思った。
去年も一昨年も、中学の文化祭には参加していたはずだった。
でもこんなふうに、自分の足でひとつひとつを歩きながら見る、ということは、あまりなかった。
(やることが決まっていると、落ち着く)
さやかに言った言葉を、もう一度頭の中で確認した。
でも今は、やることが決まっていなかった。
それなのに、不思議と焦っていなかった。
歩いた。
二年生のブースが並ぶエリアに入ると、人の密度が少し上がった。
みおは自然に、人の少ない方へ足を向けた。
テニス部のドリンクブースは、正面校舎の前の広場に面したテントの下にあった。
テーブルの上にペットボトルと紙コップが並んでいた。
後ろに手書きのメニュー看板があった。
スポーツドリンク、麦茶、オレンジジュース。
価格は全品百円だった。
受付に立っていたのは、ことねだった。
「……一つください」
みおが言った。
ことねが顔を上げた。
一瞬、目が大きくなった。
それからすぐに笑顔になった。
「みおちゃん! 来てくれた」
「はい。あの……スポーツドリンクで」
「了解」
ことねが紙コップに注ぎながら、横目でみおを見た。
「みおちゃん、央と一緒じゃないの?」
みおは少し、答えを考えた。
「……担当のシフトが違くて」
「あー、そっかそっか」
ことねが紙コップを渡した。
みおが受け取った。
「そっかー」
ことねがもう一度だけ言った。
今度は少し、間があった。
「……来てくれてよかった」
何気ない口調だった。
みおは紙コップを持ったまま、少し止まった。
(来てくれてよかった)
嬉しいと感じた。
感じながら、なぜその一言がひっかかるのか、少し分からなかった。
「……ありがとうございます」
「またね」
「はい」
みおはそのまま、ブースを離れた。
紙コップのスポーツドリンクを一口飲んだ。
少し甘かった。
体育館の熱気が抜けていない体に、悪くなかった。
(来てくれてよかった)
ことねの言葉が、もう一度だけ、頭の中に戻ってきた。
理由は分からなかった。
でも、なんとなく、捨てにくかった。
教室棟を抜けて、本館の奥へ向かった。
人の声が、少しずつ遠くなっていった。
みおはその静けさを少し、体が楽だと感じた。
廊下の壁際に、ポップが並んでいた。
推薦本の展示コーナーだった。
台紙が横一列に並んで、それぞれに本の表紙と手書きの文章が添えてあった。
手書きのものと、プリントで印字されたものが混じっていた。
みおは歩きながら、一枚ずつ目を通した。
端の方に、朔のポップがあった。
漢詩の解説本と、もう一冊。
文字は小さかったが、丁寧だった。
朔がポップの横に立って、展示の位置を確認していた。
みおに気づいて、少し頭を下げた。
「……葛城さん」
「おつかれさまです」
「今日はシフトの合間ですか」
「はい。前半は自由時間なので」
朔が展示の台紙を一枚、少し角度を直した。
それからみおを見た。
「葛城さんのポップ、来場者の方が何度も読み直していましたよ」
みおは少し、首を傾げた。
「……何度も」
「二人ほど、足を止めて読み直していました。書いた推薦文が気になったのだと思います」
「……そうですか」
みおは視線を自分のポップの方へ向けた。
ミステリーの一冊と、もう一冊。
百字以内に、何度も削って書いた文章がそこにあった。
「……推薦文を書くときだけ言葉が多くなるので」
みおが言った。
朔が少し目を細めた。
「……それは、良いことだと思います」
央が言ったのと同じ言葉だった。
みおは少し、黙った。
「……はい」
それだけ答えた。
静かな廊下で、窓の外の人の声が遠くに聞こえた。
銀杏の葉が、風に揺れていた。
一年C組の教室は、写真展示のために机を壁際に寄せてあった。
展示台になった机の上に、プリントされた写真が並んでいた。
A4サイズと、それより大きいものが混じっていた。
校内の風景と、人の姿と。
みおは入口のそばから、少し離れて見た。
校庭の銀杏。
踊り場から撮った夕暮れの校舎。
傘立てと西日。
(ひなが撮ったのか)
写真の端に、撮影者の名前はなかった。
でも、光の切り取り方で分かった。
みおは一枚ずつ目を移しながら、ゆっくりと歩いた。
そこで、止まった。
一枚の写真があった。
廊下を歩いている、後ろ姿だった。
人物は一人。
背が高かった。
シュシュでまとめた暗い髪が、少し揺れていた。
(これは)
みおは少し、近づいた。
写真の中の人物が、自分だと分かるまで少し時間がかかった。
気づいていないときに撮られた写真というのは、そういうものだった。
「……あ、それ気づいてなかったでしょ」
声がした。
ひなが入口の方から来ていた。
スマホを横持ちにして、みおを見ていた。
「……いつ撮ったんですか」
「覚えてない」
ひなはそう言った。
嘘をついている感じはしなかった。
「……本当に?」
「本当に。なんか、光がよくて。気づいたら撮ってた」
みおは写真に視線を戻した。
廊下に差し込む光が、後ろ姿の輪郭を縁取っていた。
自分がいつ、こういう光の中にいたのか、みおには分からなかった。
(知らない自分だ)
自分の後ろ姿を、自分では見ることができなかった。
当たり前のことだった。
でも、写真の中にそれがあった。
みおはしばらく、その一枚を見た。
写真の中の自分は、どこかへ向かって歩いていた。
何を考えていたのか、みおには分からなかった。
でも、誰かが見ていた。
見ていて、残してくれていた。
「……ちゃんと撮れてるじゃないですか」
「でしょ」
ひなが少しだけ得意そうに言った。
それから、スマホをポケットに入れた。
「みおは、一番自分の後ろ姿を知らないよね」
「……そうかもしれないです」
「みんなに見られてるのに」
「……そういうのは、あまり見えていないので」
ひなが少し、黙った。
「……そうだよね」
声が、少しだけ柔らかくなっていた。
みおは写真をもう一度だけ見た。
それから、顔を上げた。
「……展示、よくできていますね」
「ありがと」
「本当にそう思って言っています」
「……知ってる」
ひなが少し、笑った。
教室の外から、文化祭の声が聞こえてきた。
遠くて、でも確かな、賑やかさだった。
みおはひなに「また後で」と言って、C組の教室を出た。
廊下に出ると、人が少し多くなっていた。
時間が経っていた。
みおは自分の手の甲を見た。
紙コップはもう、どこかで捨てていた。
(ちゃんと見ている人たちだ)
第二十四話の図書室で思ったことが、今日また違う形で戻ってきた。
ことねが来てくれてよかったと言った。
朔が何度も読み直していたと伝えた。
ひなが気づかないうちに撮っていた。
みおは廊下を歩きながら、その三つを並べてみた。
(並べると、なんだか)
うまく言えなかった。
でも、少し、胸が温かかった。
それは自分でも分かった。
外から光が差し込んでいた。
文化祭の、午前だった。
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