第二十五話 10月22日 あとは当日を待つだけ
翌週も、みおは先に図書室にいた。
央が扉を開けると、みおはすでに台紙に向かっていた。
色鉛筆が三本、横に並んでいた。
「……来ましたか」
「はい」
央は向かいの椅子を引いた。
ノートを開いて、推薦文の草稿を続きから取り出した。
しばらく、ペンの音だけがあった。
「……字数、削れましたか」
「削れました。二十字」
「……どうやって」
「接続詞をほぼ全部消しました」
「……それで文になりますか」
「なっています。確認してもらえますか」
央がノートを向けた。
みおが少し首を伸ばして、読んだ。
「……なってますね」
「でしょう」
「……接続詞がないと、少し、武骨ですけど」
「そういう本なので」
「……なるほど」
みおが自分の台紙に視線を戻した。
央もノートに戻った。
宇陀さんの筆記音が、カウンターの奥から静かに続いていた。
その後も、約束は一度更新された。
次の週も、みおは図書室の扉が開く前から来ていた。
それだけで分かることがあった。
央は黙って、向かいに座った。
二冊分の推薦ポップが仕上がったのは、文化祭の一週間前だった。
十月の下旬。
一年A組の教室は、午後になると工作の匂いがした。
太秦が持ち込んできた廃材は、父親の自転車修理店の棚板の端材だった。
厚みのある合板で、射的の台座に使うには申し分なかった。
「これ、カットしてきたの太秦くん?」
さやかが材料を確認しながら聞いた。
「父親がやってくれた。俺は後ろで釘を打ってただけ」
「それも十分だよ」
「こういうの、好きなんで」
太秦はのこぎりの代わりにヤスリを手に取った。
端材の角を丁寧に落としていく。
作業が始まると、手が止まらなかった。
太秦が木材に向かっているあいだ、さやかはチェックリストを持ってクラス内を歩き回っていた。
備品の数、当日のシフト表の確認、景品の在庫。
テキパキとしたさやかのいつもの速度で、クラスの準備が整っていった。
みおは射的の的の絵付けを担当していた。
手先の器用さはもともとあった。
細い線を引くのに迷いがなかった。
さやかが横に来て、作業の手元を一瞬だけ見た。
(上手い)
思いながら、声には出さなかった。
代わりに、みおの隣に立ったまま、クリップボードに何かを書き込んだ。
みおは的の絵付けを続けた。
さやかの気配に気づいていたが、何も言わなかった。
二人の間で、静かな時間があった。
さやかが少し口を開いた。
「……みお、楽しそうじゃん」
「……そうですか」
「そうだよ。珍しい」
「……準備は、結構好きかもしれないです」
みおが少し間を置いてから続けた。
「……やることが決まっているから」
「あー」
さやかが頷いた。
「確かにそういうのが落ち着く人いるよね。私は逆に当日の方が好きだけど」
「……さやかはそう見えます」
「どういう意味?」
「……動いている方が、生き生きしてる感じがする、という意味です」
さやかがペンを止めた。
一拍あって、また書き始めた。
「……ありがとう、それ」
小さく、でも確かに言った。
みおは的に色を乗せ続けた。
廊下の一角。
グラウンドに面した窓のそばで、朔が立ち止まった。
腕に教材を抱えたままだった。
グラウンドでは、テニス部が模擬店用のドリンクブースの設営をしていた。
ことねがいた。
折りたたみ式のテーブルを広げながら、メンバーに何かを指示していた。
声は距離があって聞こえなかった。
でも身振りで分かった。
ここに。
こっちを向いて。
それで良い。
動きが、迷っていなかった。
部活の準備だから当然だった。
でも、朔はそれを「当然だな」とは思わなかった。
ことねがテーブルの位置を確認して、少し首を傾けた。
右頬のえくぼが、遠くからでも分かった。
朔は視線を前に戻した。
足を動かした。
(気を紛らわせることに、慣れていた)
自分で分かっていた。
慣れすぎて、考えないようにするのが速くなっていた。
それがいいことかどうかは、まだ答えを出していなかった。
C組の廊下。
ひなはスマホを横持ちにして歩いていた。
文化祭の前日、最後の撮り歩きのつもりだった。
渡り廊下から中庭の銀杏を撮った。
階段の踊り場から、薄暮の校舎を撮った。
昇降口に差し込む西日と、誰かの置き忘れた傘立てを撮った。
(悪くない)
いくつかは使えそうだった。
写真展示の候補は、もう十数枚あった。
でも。
(あの一枚が、ない)
頭の端に、ずっと残っている景色があった。
どこか、とは言えなかった。
誰か、というのも正確ではなかった。
ただ、「まだ撮っていない」という感覚だけが、確かにそこにあった。
ひなはスマホをポケットに入れた。
廊下の向こう、夕暮れが窓ガラスを橙色に染めていた。
(明日、撮れるかもしれない)
思った。
根拠はなかった。
でも、なぜかそう思った。
前日の夜。
央は台所に立っていた。
コーヒーミルを出して、豆を計って、手を止めた。
(明日の朝に挽く分だ)
夜に準備しておくのが癖だった。
豆は密封容器に入れて、そのまま棚に戻した。
腕時計を、一度だけ撫でた。
文化祭当日の朝は、何時に出ればいい。
開会式は何時からだった。
クラスの準備時間は。
順番に考えていった。
考えることは、いつも一方通行に進んだ。
(文化祭が終わったら)
その言葉が、不意にのぞいた。
「終わったら」の後が来なかった。
考えようとして、考えなかった。
正確には、考え始めたところで止まった。
理由は分からなかった。
でも、無理に続けようとは思わなかった。
腕時計の文字盤を、もう一度だけ撫でた。
窓の外、夜の住宅地に、外灯の光が白く灯っていた。
みおは緑茶を持って、部屋に戻ってきた。
椅子に座って、両手でカップを包んだ。
いつもの姿勢だった。
いつもの感触だった。
(明日)
思った。
(明日は、ちゃんと楽しめるだろうか)
楽しむつもりがある、ということは確かだった。
それでも「ちゃんと」という言葉が出た。
なぜ「ちゃんと」だったのか、自分でも少し不思議だった。
楽しめない理由があるわけではなかった。
仕事は、準備が済んでいる。
ひなの展示も、さやかのシフト管理も、問題はなかった。
(ちゃんと)
もう一度だけ、その言葉を頭に浮かべた。
うまく言えなかった。
みおは緑茶を一口飲んだ。
温かかった。
それだけで少し、落ち着いた。
窓の外に、秋の夜があった。
明日が、もうそこまで来ていた。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




