第十七話 7月14日 全力と、不器用と
七月に入ってから、教室の空気が変わった。
廊下に期末テストの日程表が貼り出されて、A組のホワイトボードの端に「残り十二日」という数字が残っていた。
梅雨明けは七月十日に宣言され、窓の外はもう夏だった。
セミの声が届いてくる。
なのに教室の中だけが、なんとなく重かった。
央は手元の数学のノートを見た。
計算ミスが止まらない。
展開式の符号を一箇所間違えると、答えが全部ずれる。
隣で、みおは教科書のページを読んでいた。
ペンを持ったまま、何も書いていない。
ただ、読んでいた。
(一度読んで終わりなのか、あれは)
聞く気はなかった。
でも、少し気になった。
「数学、終わった?」と太秦が小声で言ってきた。
「終わらない」
「俺も。因数分解の応用、やり方忘れた」
「……あとで教える」
「おうくん優しい」
「優しいじゃない、早くやっておかないと自分が困るからだ」
そうしていると、みおがちらりとこちらを見た。
「……少し聞こえました」
「太秦が大きかった」
「はい、太秦さんが」
太秦が苦笑した。
「あー、すみません。葛城さん、因数分解の応用って分かりますか」
「……共通因数を先に括り出してから展開すると解けます。順番の問題です」
みおが問題集のページを示した。
太秦が覗き込んで「あー」と言った。
央は手元のノートを一度閉じた。
(共通因数を先に)
展開してから手詰まりになっていたところを思い出す。
順番を変えるだけだ、と気づいた。
ノートをもう一度開いた。
今度は、できた。
(……なるほど)
声には出さなかった。
でも、少し腑に落ちた感触があった。
球技大会の告知が出たのは、その三日後だった。
七月十七日。
期末テスト終了の翌日、全学年合同の球技大会。
種目はバドミントンとバレーボールの選択制で、クラス混合チームを組む。
「バレー、バドミントン、どっちにする?」
さやかが昼休みに言った。
「バドミントン。バレーはネットが低いから」
みおが少し目を伏せた。
「身長的に?」
「ジャンプしなくてもネットに当たりそう」
「あー」
ひなも来ていた。
「うちも絶対バドミントン。バレーのサーブって高いとこから来るじゃん、届かないやつ」
「届かないのは一緒だよ」とさやかが言った。
「でも一番届かないのうちだから!」
ひなが力説した。
みおは少し窓の方を見た。
(バドミントン)
体育の授業でやったことはある。
結果は覚えていなかった。
覚えていないということは、たぶん、良くなかった。
体育の時間は、翌週の火曜日に来た。
球技大会前の練習として、バドミントンのコートが体育館に張られていた。
A組の授業だったので、央と太秦とみおとさやかが同じ空間にいる。
ひなはC組で、この時間は別の授業だ。
三雲先生が体育館の中央に立っていた。
がっしりした体つきで、日焼けした腕に実業団の練習ウエアを着ている。
口数が少なく、授業の説明も必要最低限だ。
生徒の名前を全員分覚えているという噂がある。
「出席確認は省く。自分が欠席してると思う奴は言え」
誰も言わなかった。
「よし。今日はラリー中心。チームの相談は十分後に始める。始め」
それだけ言って、先生はコートの端へ歩いた。
央が、みおと並んでコートの前に立った。
(……バドミントン)
シャトルを手に取る。
軽い。
それはいい。
ラケットを構えた。
みおが向かいに立った。
身長差がある。
いつもは並んで座っているから気にならないが、向かい合って立つと、改めてみおの方が高い。
ネットを挟んで立つと、みおの肩の位置がはっきり見える。
(背は関係ない。シャトルを打てば同じだ)
と思ったが、みおがラケットを構えた瞬間、リーチの長さが明らかに違った。
みおがサーブを打った。
シャトルが、きれいな放物線を描いて飛んできた。
央が打ち返した。
飛んだ。
ただし、ネットの下をくぐった。
「……もう一回打ちます」
みおが言って、新しいシャトルを手に取った。
今度は央が少し高く構えた。
打った。
ネットの上を越えた。
ただし、コートの外へ出た。
「……出ました」
「分かってる」
「力の加減が」
「分かってる」
央は少し腕を見た。
長さの問題だけではない気がしていた。
「勢多くん、振り方が少し腕だけになってるよ」
横からさやかが来た。
ラケットを持ったまま、肩を使ってみせる。
「肩から動かした方がコントロールできるって、こう」
央が真似した。
打った。
ネットを越えた。
コート内に落ちた。
「……入った」とみおが言った。
「さやかさん、ありがとうございます」
「どういたしまして」
さやかが当然のように言って、自分のコートへ戻っていった。
姿勢がいい。
ラケットの持ち方も、足の踏み出し方も、小気味よかった。
(頼もしいな、あれ)
央はそう思った。
隣のコートで、太秦がスマッシュを放った。
それはきれいに決まったが、その次に来たシャトルをラケットで叩き落として「あっ」と言っていた。
スマッシュはできるが、つなぐのが下手なタイプだった。
みおはまたシャトルを構えた。
ラリーが続いた。
三回、四回。
五回目に、みおが打ったシャトルが鋭くコートの隅に落ちた。
央の手が届かなかった。
「……すみません、入りすぎました」
「入りすぎた?」
「コントロールしようとしたら力が入りました」
みおが少し唇を噛んだ。
(みおも苦手なのか、体育)
特段おかしいことではなかったが、少し意外だった。
図書室ではいつも動きが整然としていた。
それなのに、ラケットを持つと少し別の存在になっていた。
「力を抜いた方が飛ぶと思います」
みおが言った。
自分に向けた言葉のような口ぶりだった。
「……さっき俺が習ったこととおなじ話ですね」
「……そうですね」
「じゃあ一緒に下手だ」
みおが少し止まった。
それから、小さく笑った。
「……そうですね」
またシャトルを構えた。
練習の終盤、コートの端で様子を見ていた三雲先生が歩いてきた。
先生は央とみおのコートの前で足を止めた。
しばらく、黙って二人を見た。
特に表情は変わらなかった。
感想も、指導の言葉もなかった。
ただ見ていた。
みおが打ったシャトルがまたコートを外れた。
央が打ち返したシャトルがネットに当たった。
先生がそれを見て、少し頷いた。
「まあ」
と言った。
「怪我しなきゃいい」
それだけ言って、歩いていった。
央は先生の後ろ姿を見た。
(怪我しなきゃいい)
肯定とも否定とも取れない言葉だったが、「怪我しなければそれでいい」という、静かな免除に近かった。
みおが横を見た。
「……怪我しなきゃいいそうです」
「聞こえてた」
「目標が、一つできました」
「……そうだな」
央は少し目を伏せた。
怪我をしない。
確かに今の状況では現実的だった。
(先生、的確だ)
と思った。
太秦が戻ってきた。
「おうくん、どうだった」
「怪我はしなかった」
「それ前提条件だろ」
「三雲先生に言われた」
「え」
太秦が笑い出した。
「あの先生さあ、体育が壊滅的な生徒には必ず言うらしいよ、去年の先輩から聞いたけど」
「……つまり、認定を受けた」
「壊滅的の、公式認定ね」
みおがそれを横で聞いていた。
「……わたしも聞こえました。二人でいましたから」
「二人まとめて認定されたんだ」
太秦が頭の後ろを掻いた。
みおは少し視線をずらした。
何か言いかけて、また黙った。
球技大会は、期末テスト翌日の曇り空の下に来た。
七月十七日。
テストが前日の午後に終わり、生徒たちは一晩でスイッチを切り替えていた。
体育館の外にコートが設営され、バドミントンのネットが二面、バレーボールのコートが一面張られていた。
学年合同の開催なので、廊下にC組やB組の生徒も集まっている。
「ひな、来た」
さやかが言った。
体育館の入口に、ひなが立っていた。
「みんないた。うち遅れた?」
「ぎりぎり」
「走ってきた。テスト終わったのに急に走らされた」
「それが球技大会だね」
さやかが平然と言った。
今日のさやかは少し様子が違った。
普段からテキパキしているが、体育の場では目つきが変わる。
背筋がまっすぐで、視線が鋭い。
姿勢がいいことが、こういう場所で別の意味を持っていた。
ひなが足元のシャトルを見た。
「これ、ちっちゃい子には絶対不利だよね」
「あなたが一番有利でしょ、低いんだから」とさやかが言った。
「ネットが高いから意味ない。上から打ってくるやつに対応できない」
「練習したら?」
「来年のことじゃん」
ひなが膨れた。
みおは少し横を見た。
央が、ラケットを持って立っていた。
特に何も言っていなかった。
ただ、コートの方を見ていた。
(緊張してる?)
と思った。
してないように見えたが、ラケットの握り方が少し固かった。
みおも別に緊張していないわけではなかった。
人が多い場所で動くのは、体育の授業よりも難易度が上がる。
目線が増えるからだ。
ただ今日は、理由が少し違う気がした。
試合が始まった。
バドミントンのコートは三つ。
一年A組のチームは、央・みお・さやかの三人を中心に組まれた。
最初の試合の相手は、一年B組だった。
さやかが先に出た。
ダブルスで、太秦とのペアだった。
二人が出た瞬間、ほぼ勝負が決まった。
さやかのサーブが低くて速かった。
相手が返すと、さやかが前に出て叩き落とす。
太秦が後ろでしっかり拾っている。
太秦はスマッシュが得意なので、後ろを任せると機能した。
ゲームが取れた。
「さやか、本当に強いね」
横でひなが言った。
C組と合同のチーム編成だったので、ひなも同じコートにいた。
「バド部に当たったら話は違うよ」
さやかが汗を拭いながら言った。
「それ謙遜になってない、十分すごい」
「部活やってる人が相手だったら、の話」
次に、央とみおのペアが出た。
二人並んでコートに入った。
二人とも背が高い。
それだけで存在感があった。
(見られてる)
みおは思った。
これはいつものことだ。
サーブは央が先に打った。
ネットを越えた。
相手が返す。
みおが受けたが、打ち返したシャトルがコートを外れた。
「……ごめんなさい」
「大丈夫です」と央が言った。
次のラリーは央が続けた。
四回続いた後、相手のスマッシュが央の足元に落ちた。
二人揃って見た。
「……入った」
「入りましたね」
二人で確認した。
横でひなが「どんどん入るじゃん」と言うと、さやかが低く「コート内は静かに」と言った。
央とみおの試合は、そのまま一セット落とした。
央のシャトルが何度かネットに。みおのシャトルが何度かコートの外へ。
コートを出た二人に、さやかが来た。
「コートの中に入りすぎてる、みお。後ろから広く使って」
「……そうか」
「あと勢多くん、ラケット面を少し立てて。内に向けすぎ」
さやかが実演した。
央が真似した。
「分かった気がする」
「次で試してね」
さやかが淡々と言った。
指導が速くて的確だった。
他のクラスの生徒が「え、あの子上手くない?」という声が聞こえてきた。
(さやか、頼もしいな)
みおは思った。
さやかはいつもそうだった。
困ったときに隣にいて、何かを解決する。
それが当たり前みたいにできる人だった。
試合の合間。
ひながコート脇のベンチでみおに並んだ。
「みおってバドミントン苦手なの、初めて知った」
「……そんなに見えてた?」
「結構見えてた。でも勢多くんと雰囲気が合ってたよ」
「雰囲気」
「二人でコート外れた場所に立ってたから、揃って迷子みたいだった」
みおは少し間を置いた。
「……それは褒めてない気がする」
「一緒に迷子になってるのも合ってるって意味だよ」
ひなが当然のように言った。
みおは少し前を見た。
央が太秦と話していた。
太秦が何か言ったのか、央が少し口元を動かした。
(一緒に迷子)
ひなの言葉が、少しだけ頭の中に残った。
午後の試合で、A組チームはもう一勝した。
さやかが出た試合を中心に得点が積み上がった。
央とみおのペアは二試合目も一セット落としたが、最終的にゲームを取った。
さやかの指示通りに動いた結果で、二人の力というよりはさやかの判断力によるものだった。
それでも一本、みおが打ち返したシャトルがコートの奥に鋭く決まった瞬間があった。
コントロールではなく、たまたまだったかもしれなかった。
でも、決まった。
「入った」
央が言った。
小さかったが、確かに言った。
みおは少し止まった。
(つい、入ったって言った)
ただ、少し嬉しかった。
嬉しいのが、少し不思議だった。
試合終了の笛が鳴った。
二人でコートを出た。
「……一本、決まりましたね」
「そうですね」
「偶然かもしれないですが」
「それでも決まった」
央が静かに言った。
特に続けなかった。
みおも続けなかった。
ただ、央の言葉が少しだけ胸の中で温かかった。
球技大会が終わり、片付けが終わった頃には夕方近くなっていた。
みおは更衣室から出て廊下を歩いた。
体を動かした後の、少し重い疲れがあった。
(怪我はしなかった)
三雲先生の言葉を思い出した。
怪我はなかった。
目標、達成。
みおはひとりで少し笑った。
声には出さなかった。
廊下を曲がったところで、さやかがいた。
「みお、お疲れ」
「……うん。さやか、本当に強かった」
「普通だよ」
「全然普通じゃない。今日、楽しそうだったよ」
「……少し楽しかったのは確かだね」
さやかが照れを隠すようにさっぱりした口調で言った。
みおはそれを見て、また少し笑った。
(さやかは、好きなことをしているとき顔が変わる)
それが分かっていた。
今日も、そうだった。
帰り際。
みおが昇降口に向かうと、央が一人で靴を履いていた。
「今日、お疲れ様でした」
みおが言った。
央が顔を上げた。
「……お疲れ様です」
「怪我、なかったですか」
「なかったです。三雲先生の言葉を守れました」
「……わたしも」
みおが靴に手を伸ばした。
少し間があった。
「来年は、もう少し上手くなれると思います」
央が言った。
自分に言い聞かせているような言い方だった。
「……そうですね」
みおが答えた。
「みおは、力加減を覚えたら変わる気がします」
「そうですか」
「さっきの一本、入ってましたから」
みおは少し止まった。
(また、言う)
覚えていた。
試合の中の、あの一本のことを。
「……覚えてたんですか」
「はい」
央が静かに答えた。
特に強調する気配もなかった。
ただ、覚えていた、と言った。
みおは少し前を見た。
(怪我しなきゃいい、から始まって、一本入った、まで)
今日一日の引っ張り出された感情の量が、思ったよりも多かった。
体育が苦手なのは変わらない。
それでも、少しだけ今日は、違った気がした。
「……来年は、もう少し上手くなれると思います」
みおが繰り返した。
さっき央が言った言葉と同じだった。
央が少し目を動かした。
「……俺のを借用しましたね」
「ちょうどよかったので」
「それは別に構いません」
また少し間があった。
「じゃあ、また明日」
みおが言った。
「また明日」
央が答えた。
二人は別々の方向に歩き始めた。
夏の夕方は長い。
空が、まだ明るかった。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




