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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~一年生~

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第十六話 7月7日 短冊に、書けないこと


 七月七日。


 梅雨明けの宣言は、まだ出ていなかった。

 ただ、この日は朝から空が晴れていた。


 みおは朝、いつもより少しだけ早く目を覚ました。


 理由は分からなかった。

 目が覚めて、天井を見て、それだけだった。


(今日、七夕だ)


 思ってから、少し息を吐いた。

 七夕が特別なわけではない。

 ただ、なんとなく頭に浮かんだのは、六月二十五日のことだった。


 あの日。

 傘の中。

 「言い出せなかった」という感触。


 今でも、なぜ言えなかったのかが、よく分からない。

 自分の折りたたみ傘は、ちゃんとバッグの中にあった。

 言おうと思えば、軒下を出る前に言えた。


 でも、言えなかった。


(……別に、いい)


 みおは起き上がった。

 手を洗って、お茶を入れる。

 いつもの流れだ、と思った。

 今日もいつも通り、朝が始まる。



 学校に着くと、廊下の掲示板に短冊の告知が貼り出されていた。


 手書きの紙で、「図書室に七夕笹を設置しています。短冊、書きませんか」と書いてあった。

 文字が丁寧で、少し几帳面な印象だった。

 宇陀(うだ)さんの字だと、みおには分かった。


(短冊、か)


 図書委員の当番は放課後だった。

 七時間目が終わってから向かえばいい。


 みおは自分の席に荷物を置いた。


「おはよう、みお」


 さやかが来た。

 鞄を机に下ろしながら、廊下の掲示を見た。


「図書室に笹あるんだ。七夕」


「……うん。宇陀さんが準備したみたい」


「短冊書いてみたいな。放課後に図書室行ける?」


「当番だから、いる」


「じゃあ後で行くよ」とさやかが言った。「願い事、考えとかないと」


 みおは少し窓の外を見た。


(願い事)


 何か、あるだろうか。

 思い浮かばないわけではなかった。

 ただ、それを書いていいものかどうか、少し分からなかった。



 放課後。


 図書室の扉を開けると、すでに笹が立てられていた。


 入口から少し奥のカウンター横、窓に近い場所に、青竹の笹が一本据えられていた。

 高さはみおの肩あたりまであった。

 葉がひろびろと広がって、涼しい緑の色をしていた。

 いくつかの短冊がすでに吊るされており、そよいでいた。


「来てくれたね」


 宇陀さんがカウンターから声をかけてきた。

 今日は薄い緑のカーディガンで、笹の色に少し似ていた。


「笹、用意したんですか」


「準備したのは昨日。本物の竹が手に入ったから、せっかくだと思って」


 宇陀さんが少し笑った。


「短冊はあそこに置いてあるから、書きたかったら書いてね。義務じゃないけど」


 カウンターの端に、色とりどりの短冊と細い筆ペンが並べられていた。

 短冊は五色で、赤・青・黄・白・紫だった。


 みおは荷物を置いて、当番の作業を始めた。

 返却棚の整理、新着本のラベル確認。

 いつも通りの手順だった。


 しばらくして、(おう)が来た。


「……笹が」


 入ってきて、立ち止まった。

 小さく言った。


「宇陀さんが。本物の竹だそうです」


 みおが答えると、央は少し近づいて笹を見た。

 視線が静かだった。

 何かを読んでいるような目で、すでに吊るされた短冊をひとつひとつ見ていた。


「……笹って、こんなに葉が動くんですね」


「そうですね。風がなくても」


「少しだけ揺れてる」


 央が言って、そのまま棚の整理に向かった。


 みおは手を動かしながら、央の方をちらりと見た。

 央は本棚に向かっていた。

 背中だけが見えていた。


(……別に)


 みおは手に持っていた本を、棚に戻した。



 朔が来たのは、それから十分ほどしてからだった。


 図書委員の当番は、一年と二年が一日交替で担当する形だった。

 今日は(さく)も当番だった。


「笹、今日だったんですね」


 入ってきて、朔が少し目を上げた。

 笹に視線を向けて、短冊を眺めた。


「昨日から準備してたそうですよ、宇陀さんが」と央が棚の方から言った。


「そうか」


 朔は静かに答えた。

 棚に近づいて、返却作業の続きに入った。


 宇陀さんが少し手を止めて、三人を順番に見た。


「みんな、当番が落ち着いたら短冊、書いてみて。今年初めてやってみたんだけど、一枚も吊るされてないより、にぎやかな方が笹も喜ぶと思うから」


 少し間を置いて、宇陀さん自身が手元の短冊を笹に結んだ。

 細い筆文字だった。

 水色の短冊に、丁寧に書いてあった。


 みおは目を細めて、少し読んだ。


 ――書きかけの物語が完成すること。


(……物語?)


 みおはすぐに視線を戻した。

 宇陀さんの手が笹の枝にするりと短冊を結ぶ。

 何事もなかったように、また手元の仕事に戻る。


 宇陀さんが、何かを書いている。

 知らなかった。

 司書として図書室にいる宇陀さんしか、みおは見ていなかったから。


(書きかけ、か)


 それだけ思って、また手を動かした。



 当番の作業が一段落した頃、さやかが来た。


「来たよ。あとひなも」


 さやかの後ろから、ひなが顔を出した。


「図書室ってこんな感じなんだ。うち初めてかも」


 ひなが入口に立ったまま、きょろきょろした。


「静かにしてね」とさやかが言った。「ここは図書室なんだから」


「分かってるって。……あ、笹だ」


 ひながカウンターの横の笹に気づいて、小走りで近づいた。

 宇陀さんが少し目を細めた。

 制止するのではなく、ただ見ていた。


「短冊書きたい。ねえ、書いていいですか?」


 ひながカウンターの宇陀さんに聞いた。


「どうぞ。色は好きなものを」


「ありがとうございます!」


 ひなが短冊を手に取った。

 迷わず赤を選んで、筆ペンを握った。

 さやかも黄色い短冊を手に取って、しばらく考えてから書き始めた。


 朔がそれを横目で見ながら、返却棚の前に立っていた。

 央が少し戻ってきて、短冊の前で止まった。


「……書きますか」


 みおが言うと、央が少し考える顔をした。


「願い事、というのが」


「難しいですか」


「難しいというより、なんでも書いていいのかと思って」


 央が言った。


 みおは笹を少し見た。

 すでに吊るされた短冊が何枚かある。

 正直な字で、正直なことが書いてある。


「……書けることを書けばいいんじゃないですか」


「書けること」


「書けないことは、書かなくていいと思います」


 みおが言ってから、自分の言葉を少し不思議に思った。

 何かを意識して言ったわけではなかった。

 でも、出た言葉だった。


 央が少し視線をみおの方に向けた。

 何かを考えているような目だった。

 それから短冊の前に戻って、白を一枚手に取った。



 央が短冊を書いた。


 筆ペンで、ゆっくりと。

 急いでいる様子はなかった。

 文字は少なかった。


 書き終えて、笹に吊るした。

 みおはその短冊を、横目で読んだ。


 ――読みかけの本を全部読み終えること。


(……現実的だ)


 思った。

 思ってから、少し口元が動いた。

 笑いかけて、やめた。


 央らしかった。

 好きな本を全部読み終えたい、という。

 願い事というより、目標みたいだった。


 でも、央は本当にそれだと思って書いているはずだった。

 だから余計に、らしかった。



 朔が短冊を書いた。


 ひなとさやかが笑いながら互いの短冊を見せ合う横で、朔は静かに書いた。

 紫の短冊に、落ち着いた字で。


 書き終えると、あまり人に見せないようにして笹に結んだ。


 みおはそれをさりげなく読もうとして、読めた。


 ――大切な人が笑っていること。


(…………)


 みおは視線を戻した。

 朔の横顔は、穏やかだった。


 大切な人、とは誰だろう。

 みおには分からなかった。

 でも、その短冊は丁寧に書かれていた。

 誰かのことを、ちゃんと想っている人の字だと思った。



 ひなの短冊は、みおに真っ先に見せてきた。


「みお、見て見て」


「……うん」


「どうよ、これ」


 赤い短冊に、丸みのある字で書いてあった。


 ――フォロワーが一万人になること。


 みおは少し間を置いた。


「……ひならしい」


「でしょ!正直に書いたよ」


「うん、正直だと思う」


「さやかのはどう?」とひなが隣を向いた。


「見せないんだけど」とさやかが言った。


「えー、ケチ」


「ケチじゃない、個人の願い事だから」


 さやかが短冊を自分の方に向けたまま、笹に吊るした。

 みおはその字をちらりと見た。

 見えた気もしたが、確認しなかった。


(短冊って、そういうものかもしれない)


 思った。

 見せたい人は見せて、見せたくない人は見せなくていい。

 そういうものだと思った。



 みおは、最後に短冊を書いた。


 みんながわいわいやっている間、みおだけがまだ手を動かしていなかった。

 作業を続けていたせいもあった。


 でも、作業が終わっても、少しためらっていた。


(何を書けばいい)


 願い事。

 書けることを書けばいい、と央に言った。

 でも、頭の中に浮かんでいるものは、書けるかどうか分からなかった。


 みおは青い短冊を一枚手に取った。

 筆ペンを持った。


 書いた。


 書き終えて、少しだけ見た。

 それから、さっと笹に向かって、葉の奥の方の枝に結んだ。

 見えにくい場所を選んだ。


「みお、何書いたの」


 ひなが言った。


「……内緒」


「えー」


「個人の願い事だから」とさやかが代わりに言った。「ひな、さっき自分で見せてきといてそれ言う?」


「あたしは見せたかったから見せたんだよ」


 ひなが膨れた。


 みおは笹を少し見た。

 短冊が何枚も揺れていた。

 自分の短冊も、その中にあった。


 見えなかった。

 見えにくい場所に結んだから。


(……いい)


 それでいいと思った。



 ひなとさやかが帰ってから、図書室はまた静かになった。


 宇陀さんが奥に引っ込んで、央と朔と、みおの三人が残った。


 三人とも、特に話をしているわけではなかった。

 それぞれの作業がまだ残っていて、それをやっていた。


 央は棚の奥の方で、背表紙の確認をしていた。

 朔は返却ボックスの整理をしていた。


 みおは笹の横を通った。


 短冊が何枚も、静かに揺れていた。


 一番目立つ場所に吊るされた宇陀さんの水色の短冊。

 白い短冊に「読みかけの本を全部読み終えること」と書いた央の字。

 紫の短冊の「大切な人が笑っていること」。


 みおは笹の前で、少し止まった。


(気になる)


 思った。

 央の短冊のことではなかった。


 自身の短冊のことだった。


(……違う)


 思い直した。

 違う。

 自分の短冊は、自分で書いた。

 気になるとか、そういうことじゃない。


 では何が、と思った。

 答えはなかった。


 ただ、笹の前で少しだけ立っていた。



 みおが棚に戻ったあと。


 央は作業の手を止めて、笹を見た。


 吊るされた短冊が、何枚か揺れていた。


(みおの短冊)


 どれだろう、と思った。


 思ってから、央はその考えに少し止まった。


(なぜ気になる)


 分からなかった。

 みおが何を願ったかを知りたいという気持ちが、なぜあるのかが、分からなかった。


 さやかが短冊を見せなかった。

 それは特に何も思わなかった。

 ひなが見せてきた。

 それも特に何も思わなかった。


 みおが見せなかった。

 それだけが、少しだけ引っかかっていた。


(……おかしい)


 央は棚に視線を戻した。


 背表紙を確認する。

 いつもの作業だった。


 でも、引っかかりはまだそこにあった。


(気になる、ということに気づいている)


 思った瞬間、少しだけ背筋が止まった。


 気になる。

 それは分かった。

 でも、気になること自体に気づいているというのは。


(……おかしいな)


 朔が遠くで本棚を整理している音がした。

 みおが棚の前で作業している気配がした。


 笹が、また少し揺れた。


 央は棚に向かったまま、もう一度、自分に問いかけた。


(なぜ、みおの短冊だけ気になるんだ)


 答えは、出なかった。


 出なかったまま、棚の整理を続けた。


 七夕の笹が、図書室の窓の光の中で、静かに揺れていた。



 帰り道。


 太秦(うずまさ)が昇降口で待っていた。


「図書委員、遅かったな」


「少し作業があって」と央が言った。


「七夕の笹があったんだろ、図書室に。さやかさんから聞いた」


「……あった」


「短冊、書いた?」


「書いた」


「何書いたの」


「読みかけの本を全部読み終えること」


 太秦が少し止まった。

 それから、頭の後ろを掻いた。


「……おうくんらしいな」


「そうか」


「現実的すぎんだよ、願い事なのに」


「そういうものじゃないのか」


「もっとこう、夢とか希望とかあるだろ」


 央が少し考えた。


「それはあれだ、目標と願い事の区別がついていない」


「おうくんが言う?」


「…………」


 太秦が笑った。

 央は何も言わなかった。


 しばらく並んで歩いた。


「なんか最近、考えごと多くない?」


 太秦が、ふっと言った。


 声のトーンが、さっきより少し落ちていた。


 央は一歩歩いてから、答えた。


「別に」


「……そっか」


 太秦はそれだけ言って、深追いしなかった。

 また前を向いて歩いた。


 それが太秦だ、と央は思った。

 聞いて、答えを受け取って、そこで止まる。

 それ以上は来ない。


 来ないことが、今は少し助かった。


(考えごとが多いか)


 多いかもしれなかった。

 何を考えているかを聞かれたら、答えられなかった。


 名前のつかないものが、まだそこにある。


 六月二十五日から。

 今日の図書室からも、また少し。



 みおは帰りの電車の中で、窓を見ていた。


 空はまだ明るかった。

 七月の夕方は長い。


(短冊、書けた)


 思った。

 書けた、と思う。

 書いてしまった、とも思う。


 あの青い短冊に書いたことを、誰にも見られていないと思う。

 葉の奥に結んだから。


 でも、書いた。

 書いたことを、消すことはできない。


 書けないことは書かなくていい、と央に言った。

 でも、書いてしまった。


(……書けた、ということかな)


 みおは少し息を吐いた。


 電車が、駅に向かって走っていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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