表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~一年生~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/66

第十五話 6月25日 傘、ひとつ分の距離


 図書室の施錠を終えたのは、放課後の四時少し前だった。


 宇陀(うだ)さんが「今日もありがとうね、二人とも」と言って、先に奥の蔵書管理室へ引っ込んだ。


 みおは返却棚の最後の一冊を手に持っていた。

 背表紙を確認して、一番上の段に戻す。

 背が届く段なので、何も考えずに手が伸びる。

 一番上の段だからといって、みおにとっては普通のことだった。


(今日はよく動いた)


 そう思いながら鍵を手に取った。


「……鍵、返してきます」


「はい」


 (おう)が棚から顔を上げて、短く答えた。


 返却ボックスに鍵を収めて廊下に戻ると、窓の外の色が変わっていた。


 三十分前まではまだ白かった空が、今は濃い灰色に沈んでいた。

 窓の下、駐輪場のアスファルトが黒く濡れている。


「……降ってますね」


 少し後ろから、央の声がした。


「本降りみたいです」


 みおが答えた。


 廊下の端から覗くと、傘を差した生徒が数人、急ぎ足で昇降口へ向かっていた。

 梅雨の雨だ。

 短く終わる気配がない。



 昇降口まで降りると、外はもう本格的だった。


 先に出ていた生徒たちがそれぞれの傘を開いて、雨の中へ消えていく。

 傘のない者は来た方向へ引き返していた。


 みおは昇降口の先に出て、軒下に立った。


 六月の終わりの雨は、勢いがある。

 屋根の端から流れ落ちる水が、細く白い筋になって石畳を叩いていた。

 雨音が重なり合い、校舎の喧騒をすっかり覆い隠している。


 雨が降ると、校門から昇降口までの石畳は少し青みがかる。

 乾いているときにはない色だった。

 みおにはそれが好きだった。


(来た)


 梅雨の雨だ、と思った。

 ただ降っているというより、ちゃんと来た、という感じがした。


「あの」


 央が、みおの少し後ろから声をかけてきた。


 振り返ると、央が鞄の外ポケットから折りたたみ傘を取り出していた。

 まだ広げていない。


「しばらく軒下で待ちませんか。少し小降りになるかもしれないので」


 みおは傘を見た。

 それから央を見た。


「……いいんですか」


「どちらかが濡れて帰るよりは」


 央の言い方は、感情の色がなかった。

 ただ実用的だった。

 でも、提案したのは央だった。


「……はい、お願いします」


 みおが答えると、央は特に何も言わずに軒下の端へ移動した。



 二人で並んで軒下に入った。


 屋根の出幅はそれほどない。

 左右に少し空きがあったが、雨が横から来ていたので、自然に中寄りになった。


 みおは横目で確認した。

 央の肩が、みおの視界に入る高さ。

 みおの肩より、はっきりと低い。

 おそらく二十五センチほどの差だった。

 普段の教室では隣に座っているから、横に並ぶと少し違って見える。


 央は雨を見ていた。

 みおも雨を見た。


 どちらも何も言わなかった。


 沈黙になっても、最近は苦ではない。

 図書委員の当番を何度か重ねているうちに、いつの間にかそうなっていた。

 本の感想を話したり、返却棚を一緒に整理したり、そういうことが積み重なっていた。


 雨が石畳を叩く音だけが、ひたすら続く。

 屋根の端から落ちた水が白く散って、また石畳に吸い込まれていく。

 部活の声も、廊下の足音も、今日はよく聞こえなかった。

 雨がすべてを覆っていた。


 みおはぼんやりと、校門の方を見た。

 下校する生徒がまだ数人、傘を差して門をくぐっていた。

 傘の色がそれぞれ違う。

 黒、紺、透明、赤。

 雨の中だと、色だけが鮮やかに見えた。


(梅雨、か)


 先週の月曜から、ずっとこんな空が続いている。

 嫌いではなかった。


「……止みそうにないですね」


 しばらくして、央が言った。


「梅雨なので」


「そうですね」


 それだけのやりとりをして、また静かになった。


 隣で央が、静かに息をついた。

 困ったわけでも、焦っているわけでもない。

 ただ、今の状況を確かめているような、静かな吐息だった。


 二人は並んで、雨を見ていた。


 十分ほどして、雨がわずかに弱まった。


「少し小降りになったので」


 央が言って、折りたたみ傘を広げた。


 傘が開いた。

 直径は、市販の傘より一回り小さかった。

 男性の携帯用として普通の大きさだったが、みおの隣に並ぶには、これは難しい。


 央がみおの方に傘を傾けた。

 柄を握った央の手の位置は、みおの胸のあたりだった。

 央が持てば傘の位置がみおには低すぎて、頭が傘の外に出てしまう。

 みおが持てば今度は央には高すぎて、雨を避けるには大きく傾けるしかない。

 どちらが持っても、うまくはいかなかった。

 みおはそれを一瞬計算して、しかし解法を得られなかった。


「……わたしが持ちましょうか」


 みおが言うと、央がわずかに目を上げた。


「いえ、大丈夫です」


「でも、そちらが雨に当たってしまう」


「傾けています。これで大丈夫なので」


 央が言って、傘の角度をみおの方に向けた。

 言葉通り、みおの方にしっかりと向いていた。

 その分、央の左肩の方が露出した。

 雨粒が、数秒おきに央の肩に当たっていた。

 それでも央は何も言わなかった。


 みおはそれを見て、何も言えなかった。


 二人で歩き始めた。


 石畳の路面を歩く。

 傘の端から落ちた雨粒が、石畳で跳ねる。


 傘の下の空間は小さかった。

 距離が縮まった。

 みおは少し背を丸めたい気持ちになった。

 でも、そうしなかった。


(ここは、こうやって歩くしかない)


 自分の背丈のことは、みおにとってずっとそういうことだった。

 直せないから、受け入れる。

 受け入れて、慣れる。

 そうやって十六年、やってきた。


 ただ今日だけは少しだけ、その事実が別の感触を持って届いていた。

 央の肩に、雨粒が当たるたびに。



 しばらく歩いたとき、みおは口を開いていた。


「……雨、好きなんです」


 声に出すつもりはなかった。

 でも、出てしまった。


 央の足が、ほんの少しだけ止まった。


「……好き、ですか」


「はい。全部静かになる感じがして」


 音が丸くなること。

 視線が減ること。

 世界が少しだけ、自分のサイズに縮まる感じがすること。

 そういうことを、みおはうまく言葉にできない。

 だから「静かになる感じ」とだけ言った。


「……そうですか」


 央が言った。

 低くて静かな声だった。

 驚いている、というより、何かを確かめているような響きだった。


 みおはもう少し続けようとして、やめた。

 うまく言えないからだ。


 ただ、言ってしまった言葉は、もう戻らない。

 傘の下で、雨音の中で、声に出てしまった。


 少し間があった。


「……雨が好きな人は、あまり多くないですよね」


 央が続けた。


「そうかもしれないです」


「珍しいと思って」


 批判ではなかった。

 否定でもなかった。

 ただ、そういうことを観察していた、という言い方だった。


(ひなが言っていた言葉を、覚えていたんだ)


 みおはそう思った。

 あの日の休み時間、ひなが「雨の日のみおって雰囲気が違う」と言っていた。

 央はそれを聞いていて、今日のみおの言葉と静かに照合した。


 それだけのことだった。

 それだけのことが、少し、胸に積もった。


 みおは少し前を向いたまま、また歩き続けた。

 こういうことを人に話すのは、あまりない。

 ひなには話したことがあったけれど、それとは少し違う感じがした。

 うまく言えないが、央に話してしまったことが、妙に落ち着いた。


 傘の下で、二人は並んで歩き続けた。


 しばらくして、みおが少しだけ口を開いた。


「……傘、差してると。雨の音がもっとよく聞こえる気がします」


 言いながら、自分でも少し驚いた。

 こういうことを人に話すのは、あまりない。


「……確かに」


 央が答えた。


「音が近くなるんでしょうか、たぶん」


「傘が音を集めるんだと思います。上から落ちる雨と、跳ね返る音と」


 みおが少し考えた。


「……それは気づかなかったです」


「俺もさっき気づきました」


 央が静かに言った。


 みおはその答えを聞いて、少し笑った。

 小さく、自分でも気づかないくらいの笑い方だった。


 雨は弱まったままだった。

 石畳が、ゆっくりと雨に叩かれていた。



 しばらくして、央が口を開いた。


「……一つ、聞いてもいいですか」


「何ですか」


「少し前のことです。校門の外で、一緒にいた人は」


 みおは一歩歩いてから、誰のことか気づいた。


 六月十四日のことだ。

 突然来た蒼介と、校門の外で合流した日。


(見ていたんだ)


 みおは少し驚いた。

 央がそこにいたとは、思っていなかった。


「……お兄ちゃんです」


 みおが言った。


「お兄さん」


「はい。大学二年で」


 みおは少し間を置いた。


「……バイトが早く終わったからって、突然来たんです」


 少し苦笑した。

 よくある話だったから、そう言えた。


「……そうですか」


 央がそれだけ言った。

 それ以上は何も聞かなかった。


 みおはちらりと横を見た。


 央は前を向いていた。

 表情は、いつも通りに見えた。


(何か、変わったかな)


 みおには分からなかった。

 ただ、傘を持つ央の手に、わずかに力が入った気がした。

 気のせいかもしれなかった。



 央は正面を向いたまま、歩き続けた。


(お兄さん)


 その言葉が、静かに頭の中に着地した。


 校門の外で見た、みおより少し低い背丈の男性。

 みおと同じ輪郭。

 みおに向けた、優しい眼。

 みおが「突然来た」と言いながらも苦笑している、その軽さ。


(兄だったのか)


 そう思った瞬間に、央は気づいた。


 胸の中の重みが、一段下がった。


 あの日からずっとそこにあった、名前のつかない引っかかりが。


(……何だ、それは)


 重みが下がったことに、気づいてしまった。

 気づいてしまったということは、つまり、下がる前の状態が「普通ではなかった」ということだ。


(おかしい)


 言語化しようとして、できなかった。

 何がおかしいのかが、分からなかった。


 ただ、今まで安定していた何かが、少しずれている。

 そのずれの感触だけが、はっきりとあった。


 みおは隣で、前を向いて歩いている。

 傘の下、みおの肩はやはり央より高い。

 それはいつもと変わらない事実なのに、今日は少しだけ、別の何かとして目に映った。


 さっきまで雨音の話をしていた。

 雨が好きだと言っていた。

 傘が音を集める、と言ったら、少し笑っていた。


 それが今、別の重さを持って浮かんでくる。


 雨が好きだということ。

 声に出すつもりがなかったように見えたこと。

 それでも出てしまった言葉が、どこか柔らかかったこと。


(何が別なんだ)


 分からなかった。


 央は鞄の肩紐を、一度だけ握り直した。

 それだけだった。


 みおは隣を歩いている。

 傘の下でわずかに縮まった距離で、前を向いて歩いている。

 話しかけるつもりもなく、距離を気にするそぶりもなく、ただそこにいる。


 それが、ただそれだけが、なぜか今日は、少し違う。


(ずれたものは、まだ戻せる)


 そう思うことにした。

 今はまだ。



 駅の近くまで来たところで、二人は分かれる方向になった。


「……ここで大丈夫です」


 みおが立ち止まった。

 バッグに手を入れて、折りたたみ傘を取り出した。


 央が、少し間を置いた。


「葛城さ……みお、傘あったんですか」


「はい」


 みおは少し間を置いた。


「……すみません。一緒に入っておいて」


「いえ」


 央が短く答えた。


 少し間があった。


「また明日」


「はい、また明日」


 みおが傘を開いた。

 央の折りたたみ傘より、一回り大きかった。

 みおには、それでも少し小さかった。


 二人は別々の方向に歩き始めた。


 雨は、まだ降っていた。

 弱まったままで、止む気配もなかった。


 みおは歩きながら、少しだけ前のことを思った。


(言い出せなかった)


 なぜ言えなかったのか、自分でもよく分からなかった。

 ただ、言えなかった。


 それだけのことだった。

 それだけのことなのに、少し、胸の奥が動いていた。



 帰り道。


 比叡朔(ひえい さく)は参考書の入ったバッグを抱えながら、校門近くの交差点を渡っていた。


 塾の授業で使う問題集を、教室に置き忘れていた。

 取りに戻る途中だった。


 向こうから傘を差して歩いてくる二人組に、最初は気づかなかった。


 気づいたのは、二人とも背丈が目立っていたからだ。


(あれ)


 朔は足を少し止めた。


 小さな折りたたみ傘を、背の低い方が相手の方に傾けて差している。

 二人の距離が、近い。


(……なるほど)


 朔はそう思った。

 悪い意味ではなかった。

 最近の図書室での二人の様子と、この光景を照合する。

 これはかなり「次の段階」に見えた。


 朔は視線をそらした。


(ことねさんに言うか)


 一拍の間があった。


 言ったら、ことねはどうするだろう。

 笑うか。

 何かしら動くか。

 あの人のことだから、たぶん何かする。


 でも。


(……まだいいか)


 朔は歩き始めた。


 自分が何を「まだいい」と思ったのか、深く考えないことにした。

 今日のところは。


 問題集の背表紙が、バッグの中で揺れていた。

 雨が、傘を叩き続けていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ