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第十四話 6月14日 白い袖と、知らない人


 六月十四日。


 梅雨入り宣言が出たのは、その三日前だった。


 勢多央(せた おう)は朝のいつもの時間に目を覚まして、珈琲を淹れた。

 豆を挽く。

 ドリッパーを温める。

 ゆっくりとお湯を注ぐ。


 窓の外は、雨ではなかった。

 ただ、空が白かった。

 雨になる前の、白くて重い空だった。


 今日が衣替えの日だった。

 厳密には先週から始まってはいたが、このあたりで夏服に切り替えた生徒がほぼ揃う。

 冬服を着てくる者は、もうほとんどいないだろう。


 央は珈琲を一口飲んだ。


(夏服か)


 特に何かを考えたわけではなかった。

 ただ、季節が変わるのだと思った。



 学校に着くと、教室の空気が少し変わっていた。


 白い。

 それだけだった。


 冬服の濃い色が消えて、長袖や半袖の白いシャツや薄い色のブラウスが増えていた。

 廊下も教室も、全体の色が一段明るくなっていた。


 央は自分の席に荷物を置いた。


 隣の席は、まだ空だった。


 冬服の央も夏服に変えていた。

 白いシャツ、グレーのスラックス。

 それだけだった。

 着心地の方が大事なので、あまり考えていなかった。


「おうくん、夏服じゃん」


 太秦(うずまさ)が隣の列から声をかけてきた。

 薄い色のポロシャツで、ソフトモヒカンが今日もよく整っていた。


「お前もだろ」


「俺はもう先週から切り替えてたんだよ。衣替えって言われると急に夏感が増すよな」


 太秦が言った。


「……そうか」


「制服のシャツって白いと眩しいよな。清潔感あってよいんだけど」


 太秦が続けた。

 何かを言おうとしているのかいないのか、よく分からない話し方だった。


 央は前を向いた。


 隣の席は、まだ空だった。



 みおが来たのは、チャイムの少し前だった。


 引き戸が開いて、入ってきた。


 白いブラウスだった。


 冬服のときと、シルエットはそれほど変わらない。

 ゆったりとした、落ち着いた形だった。

 袖は七分丈で、首元は詰まっていた。

 露出が増えたとか、そういう感じはなかった。

 ただ、白い。


 白い袖が、みおの長い腕をきれいに見せていた。

 背が高いから、袖の長さが普通の人より多く見える。


(似合っている)


 思った瞬間、央は前を向いた。


 みおが席に着いた。

 荷物を机の横にかけた。


「……おはようございます」


 みおが言った。


「おはようございます」


 央が答えた。


 それだけだった。

 普通のやりとりだった。



 休み時間に、ひながC組から来た。


 小走りで入ってきて、みおの机に手をついた。


「みお見て、うちのブラウス」


「……見てる」


「かわいくない?」


「かわいいと思う」


 みおが答えた。

 ひなのブラウスには細かい刺繍が入っていた。

 校則の範囲内ではあるが、なかなかきわどいところをついていた。


「ひなってどこで買うの毎回」とさやかが横から言った。「プチプラだよな絶対」


「うち情報早いから。もう先週から夏服にしてたし」


「先週まだ冬服の人もいたよ」


「センスの話」とひなが言った。


 さやかが苦笑した。


 みおはひなとさやかのやりとりを聞きながら、窓の外を見た。


 空が、白かった。


 雨にはなっていなかった。

 でも、なりそうな気配があった。


(雨だといい)


 思った。

 雨の日は、学校の廊下が静かになる。

 みんな傘を気にして、外に出たがらない。

 視線が減る。


 みおにとって、雨の日は少し息がしやすかった。


「みおって雨の日が好きだよね」


 ひなが唐突に言った。


「……なんで分かるの」


「なんか、雨の日のみおって雰囲気が違うから」


 ひなが言った。

 正確すぎて、みおは少し黙った。


「違う、かな」


「違う違う。ちょっと柔らかくなる感じ? うちよく見てるから分かる」


「ひなっちって地味に観察眼あるよね」とさやかが言った。


「地味に、は余計」


 ひなが膨れた。


 みおは窓の外をもう一度見た。


(雨、来るといい)


 また思った。

 雨が来れば、もう少し静かになる。



 その日の放課後。


 図書委員の当番があった。


 みおが図書室に向かうと、央がすでに来ていた。

 カウンターの前で、宇陀(うだ)さんと何か話していた。


葛城(かつらぎ)さん、今日はいつもより貸出が多いかもしれないから手伝ってもらえる?」


 宇陀さんが言った。


「はい」


「よろしくね。今日は窓側の棚も整理してほしいんだけど、届かなかったら勢多くんに」


「……届きます」


「そっか」と宇陀さんが笑った。「そうだった、葛城さんは届くね」


 みおは少しだけ居心地が悪かったが、何も言わなかった。

 届くのは事実だから、仕方がない。


 央がカウンターの内側に入って、貸出の処理をし始めた。

 みおは棚の整理に向かった。


 しばらく、二人で黙って作業した。


 図書室は静かだった。

 外の空が白いせいか、室内の光も落ち着いていた。


「……あの」


 みおが棚を整理しながら、口を開いた。


 央が少し顔を上げた。


「本、読み終わりました」


 短く言った。


 央が少し間を置いた。


「……あの本を?」


「はい」


「早かったですね」


「……三日くらいで」


 みおが答えた。

 少し恥ずかしかった。

 夢中で読んでしまったのは本当だったが、それは央には関係ない話だ。


「面白かったですか」


 央が聞いた。


「……面白かったです」


 みおが言った。


「……一番好きだったのは、どれですか」


 続けて聞かれた。

 みおは少し考えた。


「三話目、だと思います。あのトリックの組み立て方が好きで」


「……俺も、三話目が一番好きです」


 央が言った。


 みおが手を止めた。


(そうなんだ)


 頭の中で、静かに何かが揃った。


 央が本を選んだとき、この話も読んでいたという。

 同じ話を、同じように好きだと思っていた。


(たぶん、そういうことではないけれど)


 みおは棚に手を戻した。


 でも、少しだけ、胸の奥があたたかかった。


「……最後の話も、読んでいて怖かったです」


 みおが続けた。


「どのあたりが?」


「語り手が、ずっと正直だと思っていたのに、最後で全部ひっくり返るところ。信頼して読んでいたのに」


「……叙述トリックのあの」


「そうです」


 央が少し頷いた。


「あれは気づかなかった人の方が、後から読み返すと怖いですよね」


「読み返しました」とみおが言った。「全部の伏線が、ちゃんとそこにあって」


「……俺も読み返しました」


 央が言った。


 少し間があった。


 みおが棚を整理しながら、少し笑った。

 小さく、自分でも気づかないくらいの笑い方だった。


(同じことしてたんだ)


 それだけだった。

 でも、どこか和らいだ。


 図書室の外で、風が少し吹いた。

 白かった空が、また少し暗くなっていた。



 当番が終わって、みおは廊下に出た。


 雨は降っていなかった。

 でも、そろそろだと思った。

 匂いが変わっていた。


 雨が来る前の、湿った植物の匂い。


 みおはそれが好きだった。

 雨が来る前の匂いも、雨が降っている間の静けさも。

 傘を差して歩く帰り道の、音の感じも。


(もう少し待てば降るかな)


 そう思いながら昇降口に向かった。


 下駄箱のところで靴を履き替えると、外はまだ白い曇りのままだった。


 校門に向かって歩いた。


 部活の声が、遠くで聞こえた。


 曇っているので、日差しがなかった。

 六月中旬の、少し蒸した空気だった。


 校門のそばまで来たとき。


 名前を、呼ばれた気がした。


「みお!」


 正確には、みおが呼ばれた。


 校門の外から、声が来た。


 みおが顔を上げた。


 校門の少し外に、人が立っていた。


 背が高かった。


 みおの身長には届かないが、それでも目立つ背丈だった。

 暗めのブラウンの髪。

 みおとよく似た輪郭の顔。


 葛城蒼介(かつらぎ そうすけ)だった。


「……お兄ちゃん」


 みおの声が、少し低くなった。


「来ちゃった」


 蒼介が言った。

 「今日仕事早く終わったから、寄ってみた」と言いながら頭を掻いた。

 よく見た仕草だ、とみおは思った。

 でも、口には出さなかった。


「突然来ないでよ」


「いや近くで用事があって。夕飯どうする、一緒に食べない?」


「……気が向いたら」


「否定しないじゃん、珍しい」


 蒼介が笑った。


 みおは少し眉を寄せた。


「別に、珍しくない」


「そう?」


 蒼介が並んで歩き始めた。


 みおもそちらに向かった。



 校門のあたりで、央は靴紐を結んでいた。


 当番が終わって、昇降口から出てきたところだった。

 靴紐が解けていることに気づいて、端の方で屈んだ。


 結びながら、顔を上げた。


 校門の外が見えた。


 みおが、いた。


(帰るところか)


 そう思った瞬間。

 みおの隣に、人がいることに気づいた。


 男性だった。


 背が高い。

 みおより低いが、それでもかなり高かった。

 みおと並んで歩いていた。


 顔が、みおと似ていた。

 目元の感じが特に。


(誰だ)


 靴紐を結び終えた。

 立ち上がった。


 二人はもう少し校門から離れたあたりを歩いていた。

 みおが何か言って、隣の人が笑った。


 仲がよさそうだった。


(知り合いか)


 それだけのことだった。

 央はそう思って、鞄を持ち直した。


 二人は並んで歩いていた。

 みおが少し頭を下げるような角度で話していた。

 普通に話していた。


 ただ。


 なぜか、足が少し止まっていた。


(何を見ているんだ)


 自分で思った。

 見ていることに、意味はない。

 みおが誰かと帰ることは、よくある話だ。

 さやかとひなと帰ることは、今まで何度も見ていた。


 でも。


 なぜか、今日のこれは、さやかやひなとは少し違った。


(何が違うんだ)


 分からなかった。

 男性だから、ということかもしれない。

 ただの知り合いかもしれない。

 別のクラスの友人かもしれない。


 何でもない。


(何でもない)


 央は鞄の紐を直した。

 腕時計に目を落とした。

 文字盤を、一度だけ指の腹で撫でた。


 みおたちの背中が、少し遠くなっていた。


 何かが胸に引っかかっていた。


 針が刺さったような感触ではなかった。

 押しても痛くない場所に、ぼんやりとした重みがある、という感じだった。


(なんだこれ)


 名前がつかなかった。

 名前をつけようとも、していなかった。


 央はそのまま歩き始めた。


 来た方向とは別の道を選んだわけではなかった。

 ただ、ふだんより少しだけ、歩くペースが落ちていた。


 空は白いままだった。

 雨はまだ降っていなかった。


 梅雨の気配だけが、空気の中に漂っていた。



 みおと蒼介は、三軒茶屋の方向に向かって歩いた。


「夏服になったんだ」


 蒼介が言った。


「……当たり前でしょ、六月中旬」


「なんか学校の制服って変わらないな。白いシャツ」


「変える意味がないから」


「そうだけど」


 蒼介がみおの方を見た。


「なんか今日、表情が普通だな」


「普通でしょ、いつも」


「いや、誕生日に電話したとき、声がいつもと違った気がして。気になってた」


「……だから突然来たわけ」


「まあ半分は」


 みおは前を向いた。


(お兄ちゃんは、毎回こういうことを言う)


「変なことは何もない」


「そっか」


 蒼介は深追いしなかった。

 それが、蒼介のいいところだとみおは思っていた。

 踏み込みそうで、最後には退く。


 雨がぽつりと来た。


 一粒だった。

 でも、もう来そうだった。


「雨だ」と蒼介が言った。


「……うん」


 みおは手を上に向けた。

 もう一粒、手のひらに当たった。


(来た)


 雨が来た。


 梅雨が、ちゃんとここにある。


 みおは少しだけ、息をついた。

 嫌なわけではなかった。

 雨になれば、少しだけ落ち着く。


「傘ある?」と蒼介が聞いた。


「ある」


「じゃあいっか。どこかで夕飯食べて帰ろう」


「……うん、そうだね」


 二人は並んで歩いた。


 雨が少しずつ強くなってきた。

 みおはバッグから傘を出した。

 蒼介が手を伸ばした。


「一本しかない」


「じゃあ俺が差す」


「わたしが差す」


「でも足りなくない?」


 蒼介がみおを見上げた。


 みおは少し眉を寄せた。


「……相合傘なんてするわけない」


「え、なんでそんな固いの」


「……変でしょ」


「兄妹でしょ」


 みおは傘を開いた。

 自分一人分の傘だった。

 二人分には、少し足りない。


「一軒目に入っちゃおう、急いで」と蒼介が言った。


「……分かった」


 雨が本格的になってきた。


 みおは傘を傾けた。

 歩きながら、少しだけ空を見た。


 白かった空が、今は灰色になっていた。

 でも、嫌いではなかった。


 雨の中を歩くのは、静かで好きだった。



 その夜、央は自室で文庫本を開いた。


 いつもの読書の時間だった。


 でも、なかなか内容が頭に入らなかった。


(名前がつかないな)


 思った。

 今日の夕方、校門のそばで感じた、あの引っかかり。


 みおが誰かと歩いていた。

 それだけのことだった。


(それだけのことだ)


 央は文庫本の頁をめくった。


 男性だった、ということが、なぜか少し頭に残っていた。

 みおが笑っていた、ということも。


 何でもいい、とは思う。

 みおにどんな知り合いがいるか、央には関係ない。


 でも。


(なんで気になっているんだ)


 分からなかった。

 気になる理由が、見つからなかった。


 見つからないまま、頁をめくった。


 外では雨が降っていた。


 梅雨の雨は、静かで長い。

 夜になってから降り続けている。


 窓を少し開けると、雨の匂いが入ってきた。

 植物と土と、水の混ざった匂い。


 悪くない、と思った。


 文庫本を一頁読んだ。


 また、さっきの引っかかりが戻ってきた。


(みおは、雨の日が好きだと言っていた)


 そうだ、と思った。

 ひなが言っていた。

 雨の日のみおは、雰囲気が違うと。


(今日の雨は、みおにとっては好きな天気か)


 なんとなく、思った。


 思ってから、少しだけ止まった。


(なぜそっちが気になる)


 分からなかった。

 ただ、雨音が続いていた。

 窓の外で、静かに。


 央は文庫本を読み続けた。


 名前のつかない何かを抱えたまま、梅雨の夜が深まっていった。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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