第十三話 6月3日 十六番目の朝
六月三日の朝は、曇っていた。
梅雨の前の曇りではなく、もう少し柔らかい、薄い曇り方だった。
雨になるかどうか、まだ決まっていないような空だった。
葛城みおはカーテンを少しだけ開けて、その空を見た。
(今日か)
自分の誕生日だ、とは、あまり思わなかった。
思わないようにしている、とも、少し違う。
ただ、今日もいつも通りに始まるのだと思っていた。
スマホを開いた。
通知が来ていた。
さやかから、だった。
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さやか:おはよう!誕生日おめでとう
さやか:今日お昼どうする?一緒に食べたい
さやか:というかもう食べる気満々なんだけど
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みおは少し笑った。
予想通りだった。
もう一件来ていた。
兄からだった。
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蒼介:おはよ 誕生日おめでとう
蒼介:今日バイトだから電話は夜な
蒼介:何か食べたいもの言っといて
蒼介:ケーキは俺の方で調べとく
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みおは画面を見て、少しの間、何も押せなかった。
(お兄ちゃんは、毎年こういうことを言う)
恥ずかしい、という気持ちと、そうでない気持ちが混ざった。
21歳になっても、こういうところが変わらない。
ゆっくりと返した。
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みお:おはようございます。ありがとう
みお:ケーキはなんでもいいよ
みお:あ、甘めのやつがいい
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送ってから、すぐ既読がついた。
兄がもう起きていたらしい。
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蒼介:了解 甘めな
蒼介:みお最近どう
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「最近どう」というのも、毎回来る質問だった。
「どう」が何を聞いているのかは、よく分からない。
学校のことか、体調のことか、それとも何か別のことか。
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みお:普通だよ
蒼介:普通かー まあいっか
蒼介:夜電話するな
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みおはスマホを置いた。
普通だ、と思った。
今日も普通に学校に行く。
誕生日だからといって、特別なことはない。
そういうのが、一番楽だった。
着替えながら、少しだけ考えた。
(去年の誕生日も、こんな感じだったな)
さやかとひなからお祝いされて、それはうれしかった。
でも、人の多いところでどら焼きのケーキを持ってこられたときは、周りの目が気になった。
「目立たなくていい」と毎年言っているのに、毎年忘れられる。
まあ、忘れてくれる人たちだから友達でいられるのかもしれなかった。
みおは鞄を持ち直して、玄関に向かった。
一時間目が始まる前、みおがいつもの席に着くと、さやかがすでに来ていた。
さやかは自分の席に座って、みおの方を向いていた。
待ち構えていた、という顔だった。
「みお」
声が小さかった。
さやかにしては、珍しい音量だった。
「誕生日おめでとう」
ちゃんと言った。
廊下の喧騒の中で、みおだけに届く声で。
「……ありがとう」
みおが答えると、さやかが「今日の昼、場所確保するから」と言った。
「ひなっちも来るって」
「……うん」
みおは頷いた。
(どこまで派手にするつもりかな)
少し心配したが、さやかの顔を見ていたら、そこまで騒ぎにはしないだろうと思った。
さやかは、みおが目立つことを嫌がるのを知っている。
たぶん。
「あと」とさやかが続けた。「さっき太秦くんから聞いたんだけど、今日図書委員の当番ってみおと勢多くんじゃなかった?」
「……そうだと思います」
「そっか」
それだけ言って、さやかは前を向いた。
何か考えている顔だったが、続きは言わなかった。
みおは鞄を机の横にかけた。
隣の席は、まだ空だった。
一時間目のチャイムが鳴る少し前に、央が来た。
いつも通りの時間だった。
席に着いて、鞄から教材を出した。
みおは前を向いていた。
視線を横に動かしたくなかった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
「……おはようございます」
声がした。
みおが顔を向けると、央がこちらを見ていた。
「おはようございます」
みおが答えた。
それだけだった。
普通のやりとりだった。
(今日が誕生日だと、知っているのかな)
連休に出かけた日、ひなが帰り道で言っていた。
央が聞いていたかどうか、みおには確認する手段がなかった。
知っていたとしても、何もしないのが普通だ。
クラスメイトの誕生日に何かする人は、そう多くない。
(それでいい)
みおはそう思って、教科書を開いた。
昼休みになると、ひながCクラスから来た。
走ってきたのか、少し息が切れていた。
「みお!!」
こちらも音量に気を配っていたが、それでも近くの席の数人が振り向いた。
みおは少し肩を縮めた。
「……ひな、声」
「あごめん」
ひなが口を手で押さえた。
悪いとは思っていない顔だった。
「おめでとう」
今度は小声で言った。
「ありがとう」
「今年はこれ」とひなが小さい紙袋を出した。「コスメだけど、みおが使えるやつ選んだから」
「……気を遣ってくれたの」
「うちにしては珍しく実用的でしょ」とひなが言った。「さやかにも確認してもらったし」
さやかが「品質保証済みです」と横から言った。
みおは紙袋を受け取った。
重くはなかった。
でも、丁寧に包んであった。
「……ありがとう。ふたりとも」
「よし食べよ」とひなが言った。「今日はみおの好きなもので決めたい」
「わたしはなんでも」
「なんでもじゃなくて、ちゃんと言って」
ひなが少し膨れた。
「……じゃあ、どこかで和菓子を最後に食べたい」
「和菓子!」と言いながら、ひなが「購買にあったっけ」と考えた。
「たぶんないけど」とさやかが言った。「あそこ食べ物少ないし。放課後ならどっかで買って帰ろう」
「それでいい」とみおが言った。
三人で廊下に出た。
廊下の向こうから、太秦が来た。
「あ、葛城さん」と太秦が言った。「誕生日おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
太秦が「さやかさんたちと行くんですか」と聞いた。
「おうくんは図書委員の当番だから、午後ちょっと遅れると思って声かけてないんですけど」と付け加えた。
午後、という言葉がひっかかった。
図書委員の当番は、みおも同じ日だ。
(央さんも来る)
みおは特に何も言わなかった。
さやかが太秦に「一緒に食べます?」と聞いた。
太秦が「いや俺はいいです、お邪魔かなと思って」と言った。
みおには、その断り方が少し気になった。
でも、追いかけなかった。
午後の授業が終わった。
六時間目のチャイムが鳴ったとき、みおは鞄を持って廊下に出た。
図書委員の当番は放課後だった。
図書室に向かう。
廊下を歩きながら、今日の授業のことを少し整理した。
英語の長文は読めた。
数学は問題なかった。
それだけを考えていた。
図書室の前に着いた。
引き戸を開けると、宇陀さんがカウンター奥で何かを確認していた。
日当たりのよい夕方前の静かな部屋だった。
「葛城さん、来たね」
宇陀さんが顔を上げた。
三十代くらいの、落ち着いた印象の司書だった。
「勢多くんは今来るって連絡あったから、先に返却棚の整理お願いできる?」
「はい」
みおは返却棚に向かった。
並んでいる本を順番に確認した。
ラベルと棚番号を照合しながら、一冊ずつ戻していく。
静かだった。
図書室は、みおにとって、学校の中で一番息のできる場所だった。
背が高いことで誰かに視線を向けられることが少ない。
みんな本を見ている。
その静けさが好きだった。
引き戸が開いた。
振り返らなかったが、足音で分かった。
「……来ました」
央の声だった。
「勢多くん、今日もよろしく」と宇陀さんが言った。「葛城さんが返却棚やってくれてるから、貸出記録の確認お願いできる?」
「分かりました」
央が宇陀さんの方に向かった。
みおは棚に向かったまま、作業を続けた。
(普通に働こう)
誕生日だからといって、図書室の空気は変わらない。
本はいつも通り並んでいる。
それでいい。
しばらく経って、央が隣の棚に来た。
貸出記録と照合する作業らしかった。
二人で並んで、黙って作業した。
宇陀さんが「ちょっと蔵書管理室確認してきますね」と言って、奥に引っ込んだ。
図書室に、二人だけになった。
みおは棚に手を伸ばした。
背の高い段が、みおには普通に届く。
一番上の段を整理した。
静かだった。
「……あの」
央が言った。
みおが手を止めた。
「葛城さ、……みお」
少し間があった。
みおが振り返った。
央が棚の前に立っていた。
手に、小さな紙袋を持っていた。
それと。
もう一冊、本があった。
「……今日、誕生日だと聞いていたので」
央が静かに言った。
みおは、その言葉を聞いた瞬間、何も言えなかった。
央が紙袋を差し出した。
「……たいしたものじゃないんですが。図書委員として、ということで」
言い方はおだやかだった。
押しつけがましさがなかった。
ただ、差し出された手が、少しだけ固かった。
みおは受け取った。
紙袋の中をそっと確認した。
どら焼きが、三つ入っていた。
個包装になっていた。
皮の厚い、焼き目のしっかりしたどら焼きだった。
それから、本が一冊。
国内作家のミステリー短編集だった。
まだ読んでいなかった。
みおは、しばらく動けなかった。
(なんで、これが)
頭の中で、言葉がうまく繋がらなかった。
「……なんで、これが好きって知ってたんですか」
口から出たのは、それだった。
どら焼きのことだった。
ただのどら焼きではなく、皮が厚いものが好きだということ。
みおは、そんな話を央にしただろうか。
央が少し考えた。
「……GWのときに話していたので」
静かに言った。
GW。
五月四日。
梅晴堂の前で。
(あの日)
みおは、思い出した。
和菓子屋の店先で、どら焼きの皮の厚さについて話した。
誰かに向けて話したわけではなかった。
ただ、声に出た。
央が聞いていた。
そして、今日まで覚えていた。
(覚えていたんだ)
その言葉が、静かに落ちた。
央は、みおのことを見ていた。
GWのときとは、少し違う目の向け方だった気がした。
みおには、それがはっきりとは分からなかった。
ただ、何かが変わっている気がした。
前は、みおが何かを言ったとき、央はそれを受け取るだけだった。
今は、受け取ったものをずっと持っていた、という感触があった。
(普通、そういうことは覚えない)
みおは思った。
自分が誰かに何かを話したことを、相手がそこまで記憶しているとは思わない。
ましてや、誕生日プレゼントの選択肢として残しておくほどには。
それが、何を意味するのか。
みおの中には、まだ名前がなかった。
ただ、胸の奥に何かが積もった気がした。
「……ありがとうございます」
みおが言った。
声が、少し低くなっていた。
「いえ」と央が言った。「読んでいたら、別の話をします」
本のことを指していた。
みおは表紙を見た。
「……読んでいないです。楽しみにします」
「……よかった」
央がそれだけ言った。
余分なことを言わなかった。
宇陀さんが蔵書管理室から戻ってきた。
「はい終わった。二人ともありがとうね」
作業の続きが始まった。
みおは棚に向かった。
手の中に、紙袋があった。
あたたかくはなかった。
でも、持っている感触がはっきりしていた。
央は貸出記録に戻った。
何事もなかったように、静かに手を動かしていた。
その横顔を、みおは一度だけ見た。
(覚えていてくれていた)
それだけのことだった。
それだけのことなのに、どこかに刺さったままだった。
みおは前を向いた。
窓の外は、薄い曇りのままだった。
梅雨になるのかならないのか、まだ決まっていない空だった。
当番が終わった後、みおは廊下でさやかと合流した。
さやかがひなと並んでいた。
ひなは放課後にC組から来ていたらしく、少し上機嫌だった。
「みお、遅かった」
「ごめん、当番で」
「知ってる」
さやかがみおの紙袋に気づいた。
「それ……」
「……央さんから、もらいました」
みおが静かに言った。
さやかが一瞬、目を細めた。
何かを言おうとして、やめた。
「そっか」
それだけ言った。
ひなが「え、何が入ってるの?」と聞いた。
「和菓子と、本」とみおが答えた。
「え。趣味じゃん。完全に」
「……趣味って何が」
「みおの趣味にぴったりじゃん、ってこと」
ひなが当たり前のように言った。
みおは返す言葉を探したが、見つからなかった。
(そう、なのかな)
和菓子とミステリーが好きなのは、確かだ。
それを央が知っていて、選んだ。
それが、ただの偶然ではない気がした。
でも、どういうことかは、まだうまく考えられなかった。
「行こう」とさやかが言った。「和菓子、買いに行くんでしょ」
三人で歩き始めた。
廊下の窓から、校庭が見えた。
野球部が練習していた。
みおは紙袋を持ったまま、さやかとひなの少し後ろを歩いた。
二人の笑い声が聞こえた。
ひなが「うちが去年の誕生日にもらったやつ、あの子コスメ何も知らないのに」と言っていた。
さやかが「あのときはひどかったね」と応じた。
みおはそれを聞きながら、さっきの図書室を少し反芻した。
(GWのときに話していたので)
覚えていた、という事実だけが、静かに残っていた。
みおは唇を軽く噛んだ。
何かを言おうとしているわけではなかった。
ただ、そういう癖が出るときは、たいてい頭の中が動いているときだった。
さやかが振り返った。
「みお、今日どうだった? 誕生日」
「……普通でした」
みおが言った。
さやかが少し笑った。
「普通じゃないと思うけどな、今年は」
どういう意味かは聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
三人で、校門の外に出た。
曇っていた空に、薄い夕方の光が差してきていた。
梅雨前の六月の空は、こういうことがある。
曇っていると思っていたのに、帰り際に少しだけ晴れる。
みおは上を見た。
十六番目の誕生日が、静かに終わりに向かっていた。
夜、みおは自分の部屋で紙袋をもう一度開けた。
どら焼きが三つ、本が一冊。
本の表紙を見た。
知らない作家ではなかった。
評判は聞いていた。
でも、まだ読んでいなかった。
(選んでくれた、ということは)
央が、みおの読書傾向を把握していたということだった。
図書委員の記録を見ればある程度は分かるかもしれない。
でも、どら焼きの皮の厚さは、記録には出てこない。
あの日に話したことを、覚えていた。
みおはどら焼きを一つ取り出した。
個包装を開けた。
焼き目のしっかりした、厚みのある皮だった。
好きなやつだ、と思った。
一口食べた。
あんこが多かった。
(なんで、こっちの方が好きって知ってたんだろう)
言葉にならなかった。
ただ、おいしかった。
スマホが鳴った。
兄からだった。
「もしもし」
「おう、誕生日おめでとう」
「ありがとう、さっきも言ってた」
「直接言いたかっただけ。今日どうだった」
また「どうだった」だった。
みおは少し考えた。
「……普通、だと思う」
「普通ね。ケーキはどっちにする、チョコかストロベリー」
「ストロベリー」
「じゃあそれ買っていく」
「ありがとう」
少し間があった。
「みお、なんか声が違うな」
兄が言った。
「……違わない」
「気のせいかな。まあいっか。俺来週末帰るから」
「うん」
「じゃあな、誕生日おめでとう」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
電話が切れた。
みおはスマホを置いた。
「声が違う」
自分でも分からなかった。
何かが変わっているとしたら、たぶん自分では気づいていない類いのことだ。
どら焼きをもう一口食べた。
部屋の窓の外で、雨がゆっくりと降り始めた。
梅雨が来た、と思った。
今日から、また少し季節が変わる。
みおは本を手に取った。
表紙を見た。
今日もらった本だ。
(読んでいたら、別の話をします)
央が言った言葉が、静かに戻ってきた。
別の話、というのは何だろう。
図書委員の話か。
それとも、ただ本の話か。
どちらでもいい気がした。
どちらでも、たぶん聞けるならいい。
みおは本を開いた。
一頁目。
雨の音が、窓の外でゆっくりと続いていた。
十六番目の夜が、静かに深まっていった。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




