第百四十話 6月13日 隣を歩く速さ
六月十三日、土曜日。
梅雨の晴れ間らしい、澄んだ青空が広がっていた。
乙訓ほのかは、自室の姿見の前で、選んだばかりの服を何度も確かめていた。
「これで、変じゃないよね……」
誰に聞かせるでもない呟きが、朝の部屋に落ちる。
「まだ支度してるの、ほのか」
母がそう声をかけながら、部屋を覗き込んだ。
「もう出るところ。……なんか、変じゃないか、確認してただけ」
ほのかがそう答えると、母はくすりと笑った。
「幼馴染の慧くん相手に、そんなに気合入れなくても」
「彼氏、なんだけどね、一応」
ほのかがそう言い返すと、母は驚いたように、目を丸くした。
「あら、そうだったわね。……いってらっしゃい、楽しんでおいで」
母がそう送り出してくれると、ほのかは鞄を手に、玄関を出た。
小学校からの付き合いで、慧と出かけること自体は、数え切れないほどあった。
けれど「彼氏彼女」になってから、二人だけで休日に出かけるのは、これが初めてだった。
待ち合わせの駅前に着くと、慧が先に来て、手を振っていた。
「おはよう、ほのか」
「お、おはよう」
いつも通りのはずの挨拶に、今日はやけに、間が空いてしまう。
「なんか、今日、変な感じだな」
慧がそう言いながら、頭を掻いた。
「あたしも、そう思ってた」
ほのかがそう答えると、二人は顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。
目的地に選んだのは、隣町に新しくできた、大きな水族館だった。
「ここ、前から気になってたんだ」
慧がそう言いながら、入り口のポスターを指差した。
「あたしも。……前に、雑誌で見て、行きたいなって思ってたとこ」
ほのかがそう答えると、慧は嬉しそうに、頬を緩めた。
「じゃあ、決まりだな」
館内に入ると、青白い光が、通路全体を静かに照らしていた。
大きな水槽の前で、二人は自然と、並んで立ち止まった。
「うわ、でかい」
慧がそう声を上げると、ほのかも水槽に顔を近づけた。
「本当だ。……なんか、見てるだけで、落ち着くね」
ほのかがそう言うと、慧は頷いた。
「分かる。……こういう静かな場所、俺、意外と好きなんだよな」
「意外、でもないと思うけど。本、好きだもんね」
ほのかがそう指摘すると、慧は少し照れくさそうに、頬を掻いた。
「まあ、な」
順路の奥、クラゲの水槽の前で、二人は再び足を止めた。
淡い照明の中、無数のクラゲが、ゆっくりと明滅しながら漂っている。
「これ、ずっと見てられる」
ほのかがそう呟くと、慧も頷いた。
「分かる。……なんか、考え事してる時に、こういうの見ると、頭が整理される気がする」
「けいくんも、考え事、するんだ」
ほのかがそう茶化すと、慧は口を尖らせた。
「するに決まってるだろ。……最近は、進路のこととか」
「あ、そうか。……三年生の先輩たちも、この前、進路の調査票配られたって、みお先輩が言ってた」
ほのかがそう続けると、慧は水槽を見つめたまま、少し考え込んだ。
「俺らも、来年には、そうなるんだよな」
「気が早いよ、けいくん」
ほのかがそう笑うと、慧も釣られて、小さく笑った。
順路を進んでいく途中、慧が急に、ほのかの鞄に手を伸ばした。
「それ、持つよ」
「え、いいよ、自分で持てるし」
ほのかがそう言うと、慧は構わず、半ば強引に鞄を受け取った。
「彼氏なんだから、これくらい、させてくれよ」
慧がそう言い切ると、ほのかは戸惑ったように、その顔を見つめた。
「そ、そう。……ありがとう」
礼を言いながらも、ほのかはどこか落ち着かない様子で、視線を泳がせた。
肩に掛けていた鞄の重みが消えただけで、いつもの自分の輪郭が、少しだけ崩れた気がした。
しばらく歩くうちに、慧は今度は、ほのかの歩幅に合わせようと、やけにゆっくりとした足取りになった。
「けいくん、なんか、歩き方おかしいよ」
ほのかがそう指摘すると、慧は焦ったように、足の運びを乱した。
「い、いや、歩調、合わせようとしてただけで」
「そんなの、気にしなくていいのに」
ほのかがそう言うと、慧は困ったように、眉を寄せた。
「気にしなくていいって言われると、逆に、どうすればいいか分かんなくなるんだけど」
慧がそう零すと、ほのかは思わず、噴き出した。
「ふふ、なにそれ」
「笑うなよ」
慧がそう言い返しながらも、その声には、隠しきれない照れが滲んでいた。
大水槽の前のベンチに、二人は並んで腰を下ろした。
目の前を、大きな魚影が、ゆったりと横切っていく。
「なんか、今日の慧くん、変だよ」
ほのかがそう言うと、慧は観念したように、息を吐いた。
「変って、分かってるよ、自分でも。……彼氏らしいことしなきゃって、朝からずっと、考えすぎてたんだと思う」
慧がそう打ち明けると、ほのかは意外そうに、瞬きをした。
「けいくんが、そんな風に考えてたなんて、知らなかった」
「幼馴染の距離感のまま、彼女ができたわけだから。……正直、どうすればいいか、よく分かんないんだよ」
慧がそう続けると、ほのかは水槽の光を見つめながら、しばらく黙っていた。
「今までと同じでいいよ、けいくん」
ほのかがそう言うと、慧は驚いたように、その横顔を見た。
「今まで通りのけいくんが、あたしは、好きになったんだから」
ほのかがそう続けると、慧は肩の力が抜けたように、大きく息をついた。
「……そっか。なんか、悪いな、変に気負っちゃって」
「ほんとだよ。……あたしまで、緊張しちゃったじゃん」
ほのかがそう言いながら、慧の肩に軽く体を寄せた。
その些細な仕草に、慧は一瞬、固まった。
「な、なんだよ、急に」
「別に。……今まで通りにしていいなら、これくらい、普通でしょ」
ほのかがそう言い返すと、慧は納得したように頷きながらも、耳だけを赤くしていた。
水族館の展示を一通り見終えた後、二人は入り口近くの併設カフェに立ち寄った。
窓際の席から、水族館の外観がよく見える。
「なあ、俺の家、本だらけなの、知ってるだろ」
慧がそう切り出すと、ほのかは頷いた。
「知ってる。……初めて遊びに行った時、びっくりしたもん、あの本棚の量」
「親父が教師やってるせいで、家中、本が積まれてるんだよ。……物心ついた頃には、もう、それが当たり前だった」
慧がそう続けると、ほのかは興味深そうに、身を乗り出した。
「それで、本、好きになったんだ」
「たぶんな。……好きなジャンルは、親父とはだいぶ違うけど」
慧がそう言うと、ほのかはくすりと笑った。
「冒険小説ばっかり読んでるもんね、けいくん」
「悪いかよ」
慧がそう言い返すと、ほのかは首を振った。
「悪くない。……あたしも、恋愛小説ばっかりだし、お互い様」
ほのかがそう言いながら、鞄からいつものメモ帳を取り出した。
「それ、いつも持ち歩いてるやつ?」
慧がそう尋ねると、ほのかは頷いた。
「うん。……本読み終えた時とか、印象に残ったことがあった日とか、一行だけ書くようにしてるの」
ほのかがそう言いながら、ページの隅に、小さく何かを書き込んだ。
「今日のことも、書くのか」
慧がそう尋ねると、ほのかはそっぽを向きながら、メモ帳を胸に抱えた。
「秘密」
「気になるんだけど」
慧がそう食い下がると、ほのかは悪戯っぽく、片目をつむった。
「そのうち、教えてあげる」
カフェを出た後、二人は土産物店に立ち寄り、ペア柄の小さなキーホルダーを見つけた。
「これ、いいんじゃない」
ほのかがそう言うと、慧は頷いた。
「じゃあ、俺がつけてやるよ」
慧がそう言いながら、ほのかの鞄にキーホルダーを取り付けようとしたが、金具がうまく開かず、指先が滑った。
「あ、痛っ」
「大丈夫?」
ほのかがそう尋ねると、慧は指先をさすりながら、苦笑した。
「細かい作業、昔から苦手なんだよ、俺」
「知ってる。……昔、工作の時間、いつも助けてって言ってきたもんね」
ほのかがそう懐かしそうに言うと、慧は気まずそうに、咳払いをした。
「それは、もう時効にしてくれ」
結局、ほのかが金具を開けて、自分でキーホルダーを取り付けた。
「これでよし」
ほのかがそう言うと、慧はふてくされたように、肩を落とした。
「なんか、格好つかなかったな、俺」
「そういうとこも含めて、いいと思うけどな」
ほのかがそう言うと、慧は鼻の頭を掻いた。
土産物店を出ると、外はすっかり夕方の色に変わっていた。
海辺を模した水族館の建物が、オレンジ色の光を浴びて、輪郭を柔らかく滲ませている。
「今日、来てよかったな」
慧がそう言うと、ほのかも頷いた。
「うん。……次は、どこ行こうか」
ほのかがそう尋ねると、慧は少し考えるように、顎に手を当てた。
「今度は、俺が探しとく。……ちゃんと、彼氏らしく」
「さっきのでもう十分、彼氏らしかったと思うけど」
ほのかがそう笑うと、慧はばつが悪そうに、視線を逸らした。
夕方、駅までの帰り道、二人は自然と手をつないでいた。
どちらから手を伸ばしたのか、二人ともよく覚えていない。
ただ、繋いだ手の温かさが、今日一日の緊張を、少しずつ溶かしていくようだった。
「今日、なんか、変な感じから始まったけど」
慧がそう切り出すと、ほのかは頷いた。
「うん」
「結局、いつも通りの俺たちで、良かったんだと思う」
慧がそう言うと、ほのかは口元を緩めた。
「そうだね。……幼馴染の頃から、ずっと隣にいたけいくんが、今は彼氏なんだって思うと、なんか、不思議な気分」
「俺も、同じ気分だよ」
慧がそう答えると、ほのかは繋いだ手に、少しだけ力を込めた。
「これからも、こうやって、隣を歩いてね」
「ああ。……速さも、ちゃんと合わせるように、練習しとく」
慧がそう冗談めかして言うと、ほのかはくすりと笑った。
「今日みたいに、変に気負わなくていいから」
「分かってるって」
二人は、駅までの道をゆっくりと歩いた。
「そういえば、央先輩たちって、いつも自然体だよな」
慧がそうふと漏らすと、ほのかも頷いた。
「うん。……みお先輩と央先輩、見てて、あんまり無理してる感じ、しないもんね」
「俺らも、いつか、あんな風になれるかな」
慧がそう言うと、ほのかは少し考えるように、視線を上げた。
「もう、なってるんじゃない? 今日みたいに、隠さなくていい相手が隣にいるだけで、十分だと思うけど」
ほのかがそう言うと、慧は俯きながら、頬をわずかに染めた。
「……そういうこと、さらっと言うなよ」
「事実だから、仕方ないでしょ」
ほのかがそう言い返すと、慧は諦めたように、肩をすくめた。
駅のホームで電車を待つ間、ほのかのスマホが小さく震えた。
───────────────────────
太秦 :おーい、今日デートなんだろ?
太秦 :写真、送れよ
ひな :うちも見たい!
さやか:楽しんできてね
央 :良い一日を
みお :楽しみにしてます
───────────────────────
「先輩たちから、催促来た」
ほのかがそう言いながら、画面をこちらに向けると、慧は笑った。
「じゃあ、一枚、送っとくか」
慧がそう言いながら、水族館前で撮った、二人の写真を選び出す。
───────────────────────
ほのか:水族館、行ってきました!
太秦 :おお、いい笑顔じゃん
ひな :えー、めっちゃ良い感じじゃん
さやか:良かったね、二人とも
みお :素敵な一日でしたね
───────────────────────
既読の数字が、次々と増えていくのを見ながら、ほのかは小さく笑った。
「なんか、皆に見守られてるって感じ、悪くないね」
ほのかがそう言うと、慧も頷いた。
「ああ。……ありがたいと思うよ、正直」
電車が滑り込んでくる音が、ホームに響いた。
初夏の夕暮れが、二人の影を、長く伸ばしていく。
繋いだままの手を、どちらからともなく離し、二人は電車に乗り込んだ。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、ほのかは今日一日の記憶を、そっと胸にしまい込んだ。
水槽の青い光も、慧の不器用な優しさも、メモ帳に綴った一行も、今日という日だけの、確かな手触りだった。
「今日、ほのかのメモ帳に、何て書いたんだよ、結局」
慧がそう蒸し返すと、ほのかは悪戯っぽく笑った。
「言ったでしょ、秘密。……いつか、見せてあげる」
「気になって、しばらく眠れなさそうなんだけど」
慧がそう零すと、ほのかはくすりと笑いながら、窓の外に視線を戻した。
幼馴染として重ねてきた時間の上に、今日という一日が、また新しく積み重なっていく。
その積み重ねの分だけ、隣を歩く二人の距離も、これから先、少しずつ形を変えていくのだろう。
電車の揺れに身を任せながら、ほのかは繋いでいた手のぬくもりを、まだどこかに感じていた。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




