第百三十九話 6月9日 夏服と、最初の一枚
六月九日、火曜日。
夏服に衣替えしてから、まだ数日しか経っていない。
央は寝癖のついた前髪を軽く撫でつけながら、台所へと向かった。
「おはよう」
祖父が新聞を広げたまま、そう声をかけてくる。
「おはようございます」
央がそう返しながら、いつもの手順でコーヒーを淹れ始めた。
豆を挽く音が、静かな台所に規則正しく響く。
「もう衣替えか。……早いもんだな」
祖父がそう呟くと、央は頷いた。
「はい。……三年生になって、初めての衣替えです」
「進路の方は、どうなんだ」
祖父がそう尋ねると、央はコーヒーカップに口をつけながら、少し考え込んだ。
「まだ、はっきりとは。……今日、進路の調査票が配られるらしいので」
「焦らず、じっくり考えればいい。……お前は昔から、一度読み始めた本は、最後までちゃんと読み終える性分だ。進路も、同じでいいと思うぞ」
祖父がそう続けると、央は少し驚いたように、目を見開いた。
「そんな風に、見ていてくれたんですね」
「孫の様子くらい、見てるさ」
祖父がそう軽く笑うと、央も釣られて、口元を緩めた。
台所の隅に積まれた文庫本の山に、朝の光がうっすらと当たっている。
その中の一冊が、まだ読みかけのまま、栞を挟んだ状態で置かれていた。
窓の外、初夏の空はまだ薄曇りで、梅雨入りの気配が濃く漂っている。
教室に着くと、夏服姿の生徒たちが、あちこちで顔を見合わせていた。
「なんか、夏服になると、皆、雰囲気変わるよな」
太秦がそう言いながら、半袖のシャツの袖を軽くまくった。
「太秦くんは、去年とあんまり変わらない気がするけど」
さやかがそう茶化すと、太秦は口を尖らせた。
「そんなことないだろ。……あ、そういえば来週、例のスニーカーの新作、発売するらしいんだ」
「また、それ?」
さやかが呆れたように言うと、太秦は真剣な顔で頷いた。
「梅雨の時期は、防水タイプが欲しいんだよ。……分かってないな、さやかさんは」
その様子に、みおもくすりと笑った。
「太秦さんの熱意、相変わらずですね」
みおがそう言うと、太秦は誇らしげに胸を張った。
「これくらいの熱意がないと、良い一足には出会えないからな」
「うちなんて、夏服になったら、コーデ全部組み直すレベルなんだけど」
ひなが会話に割り込みながら、そう零した。
「ひなっちは、そればっかりだね」
さやかがそう茶化すと、ひなは頬を膨らませた。
「服装は、大事な自己表現なんですけど」
ひなが胸を張ってそう言い返すと、皆は揃って笑い声を上げた。
「にしても、三年生になって最初の衣替えって、なんか、実感湧くね」
さやかがそう言うと、みおは頷いた。
「そうですね。……最後の衣替え、なんですよね、これ」
みおがそう続けると、教室の空気が、ほんの少しだけ静かになった。
「気が早いよ、みお」
ひながそう笑いながら言うと、みおも小さく笑った。
「すみません。……つい」
「まあでも、分かる。……期末テストも、球技大会も、夏休みも。全部、最後がつく年って考えると、なんか変な感じだよね」
さやかがそう続けると、太秦も頷いた。
「言われてみれば、そうだよな。……最後の夏休み、か」
太秦がそう呟くと、皆はそれぞれ、少しの間、黙り込んだ。
夏服の袖から覗く腕に、初夏の風が、静かに触れていく。
ホームルームが始まると、担任の笠置先生が、一枚の用紙を配り始めた。
「はい、注目。今日配るのは、進路希望調査票、第一回です」
笠置先生がそう説明すると、教室内の空気が、少しだけ張り詰めた。
「まだ、細かいことまで書けなくても大丈夫。今、考えていることを、正直に書いてください。……夏休み前の三者面談の、材料にするので」
笠置先生がそう続けると、生徒たちは、それぞれの手元の用紙に目を落とした。
央も、配られた用紙を見つめながら、しばらく考え込んだ。
「志望する分野」という欄の空白が、いやに大きく見える。
太秦は、用紙の隅に「考え中」とだけ書いて、鉛筆を置いた。
「太秦くんは、決まってないの?」
さやかがそう尋ねると、太秦は頭の後ろを掻いた。
「んー……。うちの親父の店のこととか、色々あるんだよ。……ちゃんと考えてから、書く」
太秦がそう答えながら、教室の窓の外に視線を向けた。
自転車の修理を手伝うたび、父の手つきを、いつも横で見てきた。
その景色が当たり前すぎて、まだうまく言葉にできずにいる。
「そういうことなら、焦らなくていいと思う」
さやかがそう言いながら、自分の用紙にも目を落とした。
教育、という文字が頭の片隅を掠める。
弟の勉強を見ているうちに芽生えた気持ちが、まだ言葉になりきらないまま、胸の内にとどまっていた。
「さやかさんは、なんか、書けそうな感じ?」
太秦がそう尋ねると、さやかは首を横に振った。
「ううん。……なんとなく、頭にはあるんだけど。まだ、うまく言葉にできない」
さやかがそう答えると、太秦は頷いた。
「まあ、皆、そんなもんだよな、まだ」
昼休み、購買でパンを買った太秦が、央の席に戻ってきた。
「おうくんは、なんとなく、方向性あるんだろ」
太秦がそう尋ねると、央は少し考えるように、間を置いた。
「本に関わることが好きなので。……そのあたりを、軸に考えてます。まだ、具体的な形にはなってませんけど」
央がそう答えると、太秦は片方の眉を上げた。
「へえ。……早いな、それだけでも。俺なんて正直、家継ぐのか別の事やるのか」
太秦がそう零すと、央は静かに首を振った。
「太秦にとって、身近すぎることは、案外言葉にしにくいものだと思います」
央がそう言うと、太秦は虚を突かれたように、言葉を失った。
「……なんか、その言い方、妙に刺さるな」
太秦がそう呟くと、央は小さく笑った。
放課後、教室に残っていたのは、央とみおの二人だけだった。
「まだ何も、書けそうにありません」
央がそう零すと、みおも頷いた。
「わたしも、迷ってます」
みおがそう続けると、央は用紙を見つめたまま、小さく息をついた。
「みおは、数学が得意ですし。……なんとなく、理系に進むイメージがあります」
央がそう言うと、みおは首をかしげた。
「そう言っていただけるのは、嬉しいですけど。……まだ、はっきりとは決められなくて」
「無理に、今、決める必要はないと思います」
央がそう言うと、みおは頷いた。
「はい。……央さんは、どうですか」
みおがそう尋ねると、央は少し考えるように、視線を落とした。
「現代文とか、歴史とか。……そのあたりを、軸に考えてます」
央がそう答えると、みおは目を細めた。
「央さんらしい、選び方ですね」
「まだ、漠然としてますけど」
央がそう付け加えると、みおは小さく笑った。
「わたしも、そうです。……お互い、ゆっくり考えていきましょう」
みおがそう言うと、央は頷いた。
「ええ」
二人はしばらくの間、それぞれの白紙の欄を見つめながら、黙って机に向かっていた。
窓の外では、梅雨入り前の曇り空が、いつまでも同じ色をしている。
「そういえば、ことね先輩たちも、去年の今頃、こうやって調査票を書いてたんでしょうか」
みおがふとそう言うと、央は頷いた。
「たぶん。……今度、聞いてみましょうか」
「それ、いいですね。……先輩たちの話、参考にしたいです」
みおがそう言うと、央は用紙を鞄にしまいながら、頷いた。
鞄をまとめて教室を出ると、みおは廊下を歩きながら、小さく呟いた。
「……頑張らないと」
誰に聞かせるでもない、独り言だった。
放課後の写真部の部室では、ひなが後輩の生徒と、パソコンの画面を覗き込んでいた。
「先輩、この構図、めっちゃいいと思います」
後輩がそう言うと、ひなは画面を見つめながら頷いた。
「うん、悪くないね。……でも、光の当たり方、もうちょっと工夫できるかも」
ひなが具体的な直しどころを指摘すると、後輩は感心したように、目を丸くした。
「先輩の写真、部長っぽくなってきましたね」
後輩がそう言うと、ひなは一瞬、きょとんとした。
「え、なにそれ。……前から、部長だけど」
ひなが首をかしげると、後輩は笑いながら答えた。
「なんていうか、前より、教え方が丁寧になったっていうか。……頼りになる感じ、するんですよね」
その言葉に、ひなは何と返せばいいか分からず、少しの間黙り込んだ。
部長になってから、まだ二ヶ月ほどしか経っていない。
自分では、大して変わったつもりもなかった。
「……そう、かな」
ひながそう呟くと、後輩は大きく頷いた。
「はい、絶対そうです」
部室の窓から差し込む夕方の光が、二人の間を静かに照らしていた。
ひなは、机の上に置かれたままの進路希望調査票に、ちらりと視線を落とした。
「写真、映像」という欄に、まだ何も書けていない。
けれど今の一言が、その空白を埋める、小さな手がかりになる気がした。
「うちも、まだまだだけどね」
ひながそう呟くと、後輩は首を振った。
「そんなことないですよ。……先輩がいるから、うちら、安心して撮れてます」
その言葉に、ひなは少しの間、窓の外を見つめた。
小柄な自分を、誰かに軽んじられることが、昔からずっと苦手だった。
けれど今、後輩が見ているのは、身長でも、見た目でもない。
入部したての頃、自分もこんな風に、誰かに頼っていたはずだった。
いつの間にか、その立場が、静かに入れ替わっている。
下校の道すがら、太秦は自宅の自転車修理店の前で、足を止めた。
開けっぱなしのシャッターの奥、父が黙々と、客の自転車のチェーンを直している。
その手つきを、太秦は物心ついた頃から、数え切れないほど眺めてきた。
「おかえり」
父がそう声をかけると、太秦は頷きながら、店の中に足を踏み入れた。
「なあ、親父。……この店って、俺が継ぐって、どう思う?」
太秦がそう切り出すと、父は手を止めずに、少し間を置いた。
「またその話か。お前が決めることだ。……無理に継がせるつもりは、ないぞ」
父がそう答えると、太秦は少し拍子抜けしたように、肩の力を抜いた。
「そっか。……いや、まだ、決めたわけじゃないんだけどさ」
太秦がそう続けると、父は工具を置いて、初めて顔を上げた。
「今日、進路の調査票が配られたのか」
「うん。……まだ、考え中って書いてきた」
太秦がそう答えると、父はふっと目を細めた。
「ゆっくり考えればいい。……お前が決めたことなら、俺は、応援するだけだからな」
父がそう言うと、太秦は小さく頷いて、油の匂いが染みついた店の奥へと、鞄を置きに向かった。
その夜、さやかの家では、弟の海斗が、食卓で問題集を広げていた。
「姉ちゃん、この問題、分かんない」
海斗がそう声をかけると、さやかは覗き込みながら、鉛筆の先で式を示した。
「ここ、こう考えるんだよ」
さやかがそう説明すると、海斗は頷きながら、ノートに書き込んでいく。
その様子を見つめながら、さやかはふと、今日配られた進路希望調査票のことを思い出した。
誰かに教える、この時間が、案外、嫌いじゃない。
まだ言葉にはならないその実感を、さやかは静かに、胸の中で温め直していた。
同じ頃、みおも自室の机で、進路希望調査票を前にしていた。
空欄のままの用紙の隣に、数学の参考書を一冊、広げてみる。
得意なはずの数字の並びが、今日はいつもより、頼りなく見えた。
「まだ、決めないでもいいのかな……」
小さな独り言が、部屋の静けさに、そっと溶けていく。
窓の外では、梅雨入り前の夜空に、雲が低く垂れ込めていた。
央も自室の机で、読みかけの文庫本のページを、静かにめくっていた。
登場人物の進路を巡る一節に、いつもより長く目を留めている自分に気づき、央は小さく苦笑した。
本の世界のことなのに、今日ばかりは、他人事に思えない。
祖父の言葉を、頭の中で、もう一度、そっと反芻する。
――焦らず、じっくり考えればいい。
その言葉の分だけ、白紙の欄への向き合い方も、少しだけ軽くなっていた。
初夏の夕暮れが、校舎の窓を、淡いオレンジ色に染めていく。
衣替えを終えたばかりの制服も、配られたばかりの進路希望調査票も、まだ、これから先の形を持たない。
それでも、三年生になった五人は、それぞれの場所で、少しずつ、白紙に向き合い始めていた。
自転車店の油の匂いも、弟の問題集も、後輩の写真も、数学の参考書も、読みかけの文庫本も。
それぞれの日常の欠片が、これから先の一年を形づくっていく、最初の一枚になろうとしている。
梅雨入りを間近に控えた曇り空の下、新しい季節の入り口が、静かに開こうとしていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




