第百四十一話 6月17日 まだ白い紙の上で
六月十七日、水曜日。
三年生の廊下には、いつもと違う緊張感が漂っていた。
梅雨入り前の湿った空気が、開け放たれた窓から、教室の中まで流れ込んでいる。
教室の隅に貼り出された面談スケジュール表の前で、生徒たちが自分の順番を確かめている。
「次、俺の番だわ」
太秦がそう呟きながら、スケジュール表を指でなぞった。
「太秦くん、緊張してる?」
さやかがそう尋ねると、太秦は頭の後ろを掻いた。
「まあ、少しは。……親父とちゃんと話したこと、うまく言えるかどうか」
太秦がそう答えると、さやかは軽く頷いた。
「大丈夫だよ。……太秦くんらしく話せば、それでいいと思う」
さやかがそう言うと、太秦は少し肩の力を抜いたように、笑った。
「さやかさんは、もう終わったんだっけ」
太秦がそう尋ねると、さやかは頷いた。
「うん、さっき。……教育のこと、ちょっとだけ話した」
「ちょっとだけ?」
太秦がそう聞き返すと、さやかは苦笑した。
「まだ、教育学部って、はっきり言えるほどじゃなくて。……弟に勉強教えるの好きかも、くらいしか」
さやかがそう答えると、太秦は頷いた。
「それだけでも、十分な気がするけどな」
「うちは、まだこれからだけど」
ひなが会話に割り込みながら、そう零した。
「ひなは、写真部の顧問の先生にも、相談してみたら?」
さやかがそう提案すると、ひなは頷いた。
「それ、いいかも。……今度、聞いてみる」
面談会場の応接室には、笠置先生が一人分の椅子を並べ直していた。
「勢多くん、どうぞ。……お母さんも、ありがとうございます」
笠置先生がそう声をかけると、央は母と並んで、椅子に腰を下ろした。
「いつもお世話になっております」
母がそう頭を下げると、笠置先生は明るく手を振った。
「いえいえ、こちらこそです! 央くん、クラスでもしっかり者で助かってます」
笠置先生の早口な物言いに、央は少し面食らったように、姿勢を正した。
「早速ですけど、調査票、拝見しました。……現代文と歴史が、得意なんですね」
笠置先生がそう切り出すと、央は頷いた。
「はい。……小さい頃から、本を読むのが好きで」
「進路の方向性、少し具体的になってきましたか」
笠置先生がそう尋ねると、央は一度、言葉を探すように黙った。
「まだ、はっきりとは決めていませんが。……本に関わる仕事に就きたいと、思っています」
央がそう答えると、笠置先生は感嘆の声を上げた。
「本に関わる仕事、ですか。……それは、具体的には」
「編集とか、出版とか。……そのあたりに、興味があります。まだ漠然としていますが」
央がそう続けると、笠置先生は感心したように、何度も頷いた。
「いいと思います。文系の中でも、方向性が見えてるのは強みです。……国語の成績も安定してますし、狙える学部、色々あると思いますよ」
笠置先生がそう言うと、隣の母も、安心したように微笑んだ。
「この子が、そんな風にはっきり言うの、珍しいです」
母がそう零すと、央は少し照れくさそうに、視線を落とした。
「家でも、あんまり話さないので。……本当に、決めたんだなって、今、実感しました」
母がそう続けると、笠置先生は嬉しそうに、目を細めた。
「お母さんの前だと、緊張しますよね。……でも、今の言葉、私、しっかり聞きました」
笠置先生がそう言いながら、手元の調査票に、小さく丸をつけた。
「三者面談は、今日で終わりじゃないですから。……夏休み中も、進路のことで悩んだら、いつでも相談に来てくださいね」
笠置先生がそう締めくくると、央は頷いた。
「ありがとうございます」
央がそう言って立ち上がると、母も一緒に頭を下げた。
面談を終えて廊下に出ると、次の順番を待っていたみおと目が合った。
「お疲れ様です、央さん」
みおがそう声をかけると、央は頷いた。
「みおも、頑張ってください」
央がそう返すと、笠置先生が扉の隙間から顔を出した。
「葛城さん、お待たせしました。……あら、勢多くんと、廊下で鉢合わせ?」
笠置先生がそう言いながら、二人を交互に見た。
「本当に、いつも一緒ですね。……勢多くんと葛城さん、進む方向、違うかもしれないね」
笠置先生がさらりとそう零すと、央とみおは同時に、動きを止めた。
二人の反応を見て、笠置先生は内心、少しだけ愉快そうにしていた。
一年生の頃から、二人が隣同士で何かを話している様子には、何度も気づいていた。
「ああ、やっぱりな」と思うことも、一度や二度ではない。
けれど、それを口に出すつもりは、今のところなかった。
「……失礼しました。独り言です。さあ、葛城さん、入ってください」
笠置先生がそう取り繕いながら、みおを応接室へと促した。
央は、その背中を見送りながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
応接室では、みおが母と並んで、笠置先生と向き合っていた。
「葛城さんは、数学と理科が、飛び抜けて良いですね」
笠置先生がそう言うと、みおは小さく頷いた。
「ありがとうございます。……でも、まだ、はっきりとは」
「理系に進むイメージ、ありますか」
笠置先生がそう尋ねると、みおは少し間を置いた。
「数学は、好きです。……得意でもあると、思います。ただ、それを仕事にできるのか、正直、まだ分からなくて」
みおがそう答えると、笠置先生は頷いた。
「今の時点で、そこまで見えてる子、実は少ないですよ。……焦らなくて大丈夫です」
笠置先生がそう続けると、隣の母が、優しく笑った。
「この子、昔から、レシピを一度見ただけで覚えちゃうくらい、数字とか手順とか、頭に入るタイプなんです」
母がそう補足すると、みおは恥ずかしそうに、俯いた。
「お母さん、それは、進路と関係ないと思う」
「あら、そう? 得意なことは、得意なことでしょう」
母がそう返すと、笠置先生は笑いを堪えるように、口元を押さえた。
「お母さんの言う通りです。……得意なこと、好きなこと、その両方から、じっくり考えていきましょう」
笠置先生がそう締めくくると、みおは頷いた。
「あと、これは余談ですけど」
笠置先生がそう続けながら、少し声を落とした。
「葛城さん、体育のたびに、目立つのが苦手そうにしてますよね。……進路も、目立たない道を選ぼうとして、視野を狭めてないか、それだけ、気になって」
笠置先生がそう指摘すると、みおは虚を突かれたように、瞬きをした。
「……当たってます、たぶん」
みおがそう認めると、笠置先生は柔らかく笑った。
「進路くらいは、目立つの気にせず、自分の得意を、堂々と選んでいいと思いますよ」
笠置先生がそう言うと、みおは静かに頷いた。
「考えて、みます」
面談を終えて廊下に出ると、母がふと、思い出したように言った。
「お兄ちゃんに、今日のこと話したら、また色々口出ししてきそうね」
母がそう零すと、みおは苦笑した。
「お兄ちゃんには、まだ、黙っておいてほしいかも」
「無理じゃない? あの子、みおのことになると、地獄耳だから」
母がそう言うと、みおは小さくため息をついた。
その後、応接室では、太秦が父と並んで、笠置先生と向き合っていた。
「調査票には、考え中と書いてありましたね。……今日は、もう少し、詳しく聞かせてもらえますか」
笠置先生がそう水を向けると、太秦は少し間を置いた。
「専門学校に行って、整備士の資格取って、それから、親父の店を継ぐっていうのも……ありかなって、思ってます」
太秦がそう答えると、隣の父も、静かに頷いた。
「本人が、そこまで考えてるとは、正直、思ってませんでした」
父がそう漏らすと、太秦は少し気まずそうに、視線を逸らした。
「この前、話しただろ」
「話したのと、こうやって、先生の前で、はっきり言うのとは、また別だからな」
父がそう返すと、太秦は口を尖らせながらも、まんざらでもなさそうに、頬を緩めた。
「まだ、完全に決めたわけじゃないんですけど」
太秦がそう付け加えると、笠置先生は頷いた。
「今日、そこまで言葉にできただけでも、十分だと思いますよ。……次の面談までに、もう少し、固まってるといいですね」
笠置先生がそう締めくくった。
放課後、廊下の端で、太秦がさやかとひなに囲まれていた。
「太秦くん、面談どうだった?」
さやかがそう尋ねると、太秦は頭を掻きながら、答えた。
「専門学校のこと、笠置先生に話した。……親父の店、継ぐつもりだって」
「へえ、ちゃんと言えたんだ」
ひながそう言うと、太秦はきまり悪そうに、顔を背けた。
「まあな。……この前、親父とも話したし。前より、少し、言葉にしやすくなった気がする」
太秦がそう続けると、さやかは頷いた。
「じゃあ、うちも、ちゃんと考えないとな」
さやかがそう呟くと、ひなも同意するように頷いた。
「うちも。……写真のこと、まだ、ふわっとしか言えなかったけど」
ひながそう言うと、太秦は肩をすくめた。
「皆、似たようなもんだって。まだ六月だし」
「太秦くんは、専門学校って、もう学校名まで考えてるの?」
さやかがそう尋ねると、太秦は首を横に振った。
「いや、まだ。……夏休みにでも、オープンキャンパス、行ってみようかなとは思ってる」
「それ、うちも一緒に行っていい?」
ひながそう食いつくと、太秦は目を丸くした。
「ひなが? 写真と自転車整備、全然関係ないだろ」
「関係なくても、雰囲気とか、見てみたいじゃん。専門学校って、どんな感じか」
ひながそう言い返すと、さやかも頷いた。
「それ、いいね。うちも便乗しようかな」
「皆で行くなら、俺も心強いけどな」
太秦がそう言いながら、照れ隠しのように、鼻を鳴らした。
三人の会話は、いつの間にか、進路の話から、夏休みの予定へと移り変わっていった。
夕方の教室に、央とみおの二人だけが残っていた。
「さっきの、笠置先生の言葉」
みおがそう切り出すと、央は頷いた。
「聞こえてました」
「進む方向、違うかもしれない、って」
みおがそう繰り返すと、央はしばらく黙り込んだ。
「実際、そうかもしれません。……本に関わる分野と、理系の学部では、進む先も、たぶん、大きく変わります」
央がそう言うと、みおは窓の外に視線を向けた。
「別々の大学に行くことに、なるかもしれないんですね」
みおがそう零すと、央は静かに頷いた。
「かもしれません」
教室に、しばらくの沈黙が落ちた。
窓の外では、梅雨の合間の夕日が、机の並びを長く照らしている。
「でも」
央がそう切り出すと、みおは顔を上げた。
「まだ、決まったわけじゃないと思います。……調査票も、今日の面談も、あくまで、今の段階の話ですから」
央がそう続けると、みおは小さく頷いた。
「そうですね。……気が早い話でした」
「気が早いのは、悪いことじゃないと思います。……ただ、今、結論を出す必要は、ないと思うだけです」
央がそう言うと、みおは口元を緩めた。
「央さんらしい、考え方ですね」
「みおらしい、心配の仕方だと思いますけど」
央がそう言い返すと、みおは驚いたように、目を見開いた。
「そんな風に、言い返されるとは、思いませんでした」
みおがそう言うと、央は小さく笑った。
「たまには」
二人は、それ以上、進路の話を続けなかった。
鞄を手に、並んで教室を出る。
まだ結論の出ない問いを、二人はそれぞれ、静かに抱えたまま。
梅雨入り前の夕暮れの中、いつも通りの帰り道を、いつも通りの速さで歩いていった。
その夜、央が帰宅すると、祖父が居間で新聞を畳んでいるところだった。
「面談、どうだった」
祖父がそう尋ねると、央は鞄を置きながら、頷いた。
「本に関わる仕事に興味があるって、初めて、先生に言えました」
「そうか」
祖父がそう相槌を打つと、央はソファに腰を下ろした。
「でも、みおとは、別々の大学に進むかもしれないって、先生に言われました」
央がそう続けると、祖父はしばらく黙って、央の顔を見つめた。
「別々の場所に進んだからって、離れるとは限らんだろう」
祖父がそう言うと、央は意外そうに、顔を上げた。
「……そうですね」
央がそう答えると、祖父はふっと相好を崩した。
「まあ、まだ先の話だ。今日のところは、よく頑張ったな」
祖父がそう言うと、央は小さく笑いながら、頷いた。
台所からは、母が夕食を支度する、包丁の音が規則正しく聞こえてくる。
いつもと変わらない、その音の中で、央は今日一日の出来事を、静かに反芻していた。
同じ頃、みおも自室で、日記帳代わりのノートを開いていた。
「別々の大学」という言葉を、ページの隅に、小さく書き付けてみる。
書いてみたところで、答えが出るわけではない。
それでも、頭の中だけで抱えているより、少しだけ、心が軽くなる気がした。
窓の外では、梅雨の湿った風が、カーテンを静かに揺らしている。
明日も、いつも通り、央の隣の席に座る。
それだけは、今、確かなことだった。
同じ教室で、同じ黒板を見上げて、同じ時間を過ごしてきた積み重ねは、進路がどう分かれようと、簡単には消えないはずだった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




