第百三十六話 5月20日 シャッターを切る責任
五月二十日、水曜日。
放課後の教室に、ひなが少し浮かない顔で、机に頬杖をついていた。
いつもなら真っ先に、皆を笑わせる話題を探すひなが、今日は珍しく、口数が少ない。
「なんか、悩んでるの?」
さやかがそう声をかけると、ひなは小さく息をついた。
「写真部の部長のこと。……そろそろ、返事しなきゃいけなくて」
みおもまた、心配そうに、ひなの様子を見つめていた。
「まだ、迷ってるんだ」
みおがそう尋ねると、ひなは頷いた。
「うん。……昨日の夜も、ずっと考えてて」
ひながそう付け加えると、さやかは心配そうに、眉を寄せた。
「今まで、好きなように、撮ってただけだったけど。……部長になったら、そういうわけにもいかないよね」
ひながそう漏らすと、さやかとみおは、顔を見合わせた。
「そんなに、思い詰めなくてもいいと思うけど」
さやかがそう言いながら、優しくひなの肩に手を置いた。
「顧問の先生には、いつまでに返事すればいいの?」
さやかがそう尋ねると、ひなは少し力なく答えた。
「今週中に。……もう、あんまり時間残ってなくて」
「そっか」
さやかがそう相槌を打ちながら、隣の椅子をひなの方へ引き寄せた。
「具体的に、何が不安なの?」
さやかがそう尋ねると、ひなは指折り数えるように、話し始めた。
「後輩をまとめたり、コンクールの応募とか、部の予算のこととか。……今まで、考えたこともなかったことが山積みで」
「大変そうですね、それは」
みおがそう相槌を打つと、ひなはうんうんと頷いた。
「特に、後輩をまとめるの、自信ない。……うち、あんまりリーダーとか、向いてないタイプだと思うし」
ひながそう続けると、さやかは首をかしげた。
「そう? 結構、面倒見いいと思うけど」
「面倒見るのと、まとめるのって、また違う気がして」
ひながそう反論すると、みおが静かに口を挟んだ。
「不安に思うこと自体が、真剣に考えている証拠だと思います」
みおがそう言うと、ひなは少し虚を突かれたように、口をつぐんだ。
「そんな風に、考えたことなかったな」
ひながそう呟くと、さやかが優しく続けた。
「不安がないまま、何かを始める人の方が少ないと思うよ」
さやかがそう言うと、ひなはその言葉を、心の中で繰り返し噛みしめた。
「ありがと。……なんか、少し気が楽になった」
「でも、さ」
さやかが、ふと、そう切り出した。
「ひなって、後輩の面倒見るの、得意でしょ。前も、構図のアドバイス丁寧にしてたし」
「それは、まあ、好きでやってるだけだけど」
ひながそう答えると、みおが静かに口を開いた。
「好きでやっていることが、そのまま、部長としての強みになるんだと思います」
みおがそう言うと、ひなは瞬きを繰り返しながら、みおを見つめた。
「みお、いいこと言うね」
「本当のことです」
みおがそう言い切ると、ひなは小さく笑った。
「不安なことも、皆で分担すればいいと思う。……ひな一人で、全部背負う必要ないよ」
さやかがそう続けると、ひなはその言葉を、噛みしめるように目を伏せた。
「それに、ひななら、大丈夫だよ」
さやかがそう言葉を重ねると、ひなはしばらくの間、黙り込んだ。
「大丈夫、かな」
ひながぽつりと、そう呟いた。
「大丈夫。……うちらが、保証する」
さやかがそう言い切ると、みおも深く頷いた。
その二人の様子に、ひなの胸の奥で何かが、すとんと落ち着いた気がした。
「分かった。……引き受けてみる」
ひながそう決意を口にすると、さやかとみおは揃って拍手を送った。
「よし、決まりだね」
さやかがそう言うと、ひなは面映ゆさを感じながらも、確かな手応えを胸の内に感じていた。
その日の帰り際、教室に残っていた央と太秦にも、ひなは決意を報告した。
「二人とも、聞いて。……写真部の部長、正式に、引き受けることにした」
ひながそう切り出すと、央は静かに頷いた。
「おめでとうございます。……ひなさんなら、きっと、良い部長になると思います」
央がそう言うと、太秦も続けて口を開いた。
「まあ、俺もそう思う。頑張れよ」
太秦がそう言うと、ひなは鼻の頭を掻きながら、視線を逸らした。
「なんか、二人とも、あっさりだね」
ひながそう言うと、央は少し首をかしげた。
「あっさりというより……ひなさんなら、当然だと思っていたので」
「え、そんな風に、思われてたの?」
ひなが驚いたように、声を上げると、太秦は笑いながら頷いた。
「まあ、俺らの中では、割とそういう認識だったよ」
「知らなかった……」
ひながそう呟きながら、少しくすぐったそうに、頬を緩めた。
「あっさりって、応援してるんだって」
太秦がそう言い返すと、皆は揃って笑い合った。
「何かあったら、いつでも、相談してね」
みおがそう付け加えると、ひなは深く頷いた。
「うん。……その時は、遠慮なく、頼らせてもらう」
ひながそう答えると、さやかが明るく笑った。
「それでこそ、うちらの部長だね」
さやかがそう言うと、教室に、また皆の笑い声が広がった。
放課後、写真部の部室で、ひなは顧問の先生に、正式に部長を引き受ける意思を伝えた。
「先生、少し、お時間いいですか」
ひながそう切り出すと、顧問の先生は手を止めて、向き直った。
「写真部の部長のこと、正式に、引き受けようと思います」
ひながそう告げると、顧問の先生は口元に、柔らかな笑みを浮かべた。
「引き受けてくれて、嬉しいわ。御所さんなら、きっと良い部長になれると思う」
顧問の先生がそう言うと、ひなはまだ実感の湧かない面持ちで、頭を下げた。
「正直、まだ自分に務まるか、不安なんですけど」
ひながそう本音を漏らすと、顧問の先生は穏やかに微笑んだ。
「最初から、完璧にできる人なんて、いないわよ。少しずつ、覚えていけばいいの」
「至らないところも、多いと思いますが。……頑張ります」
ひながそう挨拶を返した。
「困ったことがあれば、いつでも、相談してね。一人で抱え込まなくていいから」
顧問の先生がそう付け加えると、ひなはその言葉に、静かに胸を撫で下ろした。
「あと、御所さん。……前に、将来、写真を仕事にできたらって、言ってたわよね」
顧問の先生がふと、そう切り出すと、ひなは少し気恥ずかしそうに頷いた。
「はい。……まだ、漠然とした夢ですけど」
「部長としての経験は、そういう夢にも、きっと繋がっていくと思うわ。人をまとめる力も、責任感も、この先どんな形で写真に関わるにしても、必要になるものだから」
顧問の先生がそう言うと、ひなはその言葉を、じっくりと噛みしめるように目を閉じた。
「はい。……この経験、大切にします」
ひながそう改めて、決意を口にした。
部室を出る足取りは、来た時よりも、いくらか、軽くなっていた。
数日後、部室では、一年生の部員たちに、ひなが構図の指導をしている場面があった。
「ここ、もう少し、被写体を左に寄せてみようか。空の余白が、もっと活きると思うよ」
ひながそう助言すると、後輩は素直に、カメラの角度を調整した。
「部長、そういうの、すぐ分かるんですね」
「経験だよ、経験」
ひながそう答えながら、後輩の写真を、確認していく。
「うちも最初は、全然分かんなかったし。撮って撮って、少しずつ感覚掴んでいく感じかな」
ひながそう付け加えると、後輩は真剣な表情で、頷いた。
「あと、この写真、光の当たり方がすごく綺麗。ここ、もう少し早い時間に撮ったの?」
ひながそう尋ねると、後輩は嬉しそうに、頷いた。
「朝、部活行く前に、ちょっと寄り道して」
「その工夫、いいね。今度、皆にも共有しよう」
ひながそう提案すると、後輩は照れくさそうに頬を掻いた。
「部長になって、変わったことってありますか」
別の後輩がそう尋ねてくると、ひなは少し考えてから、答えた。
「うーん……前より、後輩の写真、よく見るようになったかな。責任感、ってやつなのかも」
ひながそう答えながら、小さく笑った。
「それ、部長っぽいです」
後輩がそう茶々を入れると、ひなは苦笑いを浮かべた。
「かもね」
ひながそう短く答えながら、次の写真の確認へと意識を移した。
その様子を部室の入り口から、太秦が覗き込んでいた。
「おお、様になってるじゃん」
太秦がそう茶化すと、ひなは振り返って、口を尖らせた。
「からかいに来たの?」
「いや、素直に、感心してるんだって」
太秦がそう言い返すと、ひなは口元を緩めながらも、満更でもない様子で笑った。
「まあ、ちょっとずつ、部長らしくなってきたかなって、自分でも思う」
ひながそう言うと、太秦は頷いた。
「様子見てて、安心したわ」
「安心って、うちのこと、心配してたの?」
ひながそう聞き返すと、太秦は少し慌てたように、手を振った。
「いや、そこまでは、言ってないけど……まあ、多少はな」
太秦がそう答えると、ひなは意外そうに、目を丸くした。
「珍しいじゃん、太秦がそういうこと言うの」
「うるさいな。素直に受け取れよ」
太秦がそう言い返すと、ひなはくすくすと笑った。
太秦がそう言いながら、部室を後にしようとすると、ひながその背中に声をかけた。
「太秦、進路のこと、先生に言ったんだって?」
「ああ、聞いたのか」
太秦がそう答えながら、少し照れくさそうに、頭を掻いた。
「みおから聞いたよ。……ちゃんと、自分の言葉で伝えられたんだね」
ひながそう言うと、太秦は照れ隠しのように、早口で答えた。
「まあ、姉貴のおかげ、みたいなとこもあるけどな」
「うちも、負けてられないなって思ったよ」
ひながそう言うと、太秦は軽く手を挙げて、応えた。
その夜、ひなは自分の部屋で、これまで撮り溜めた写真を、一枚ずつ見返していた。
入部したばかりの頃の、拙い一枚。
少しずつ、上達していった過程が見える、何枚もの試行錯誤。
そして最近撮った、桜の下での、慧とほのかの一枚。
(あの頃は、まさか部長になるなんて、思ってもみなかったな)
ひなは机の引き出しから、初めて手にした一眼レフのカメラを取り出した。
入学祝いに、両親から贈られた、思い出の一台。
シャッターボタンに触れると、あの日の高揚感が鮮明に蘇ってくる。
あの頃は、ただ目の前の景色を、綺麗だと思う気持ちだけで、シャッターを切っていた。
今は、その一枚一枚の裏に、後輩たちの成長や、部全体の在り方まで、考えるようになっている。
それは、写真そのものへの向き合い方が、少しずつ、変わってきた証なのかもしれない。
(うちも、いつか、写真を仕事にできたらいいな)
ひなはそう思いながら、スマホで部活のグループチャットを開いた。
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ひな :正式に部長、引き受けることにしました。至らないところも
多いと思うけど、みんなでいい部活にしていきましょう
後輩A:部長、よろしくお願いします!
後輩B:ひな先輩について行きます!
後輩C:楽しみです!
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その温かい返信の数々に、ひなは目頭が、じんわりと熱くなるのを感じた。
スマホを置いて、ひなはもう一度、部屋の壁に飾った、これまでの受賞歴や部活の集合写真を見渡した。
一年生の頃、右も左も分からないまま、シャッターを切っていた自分。
その延長線上に、今の自分がいる。
(うちなりのやり方で、やってみよう)
ひなはそう心の中で呟きながら、机の上のカメラを、そっと手に取った。
ファインダーを覗き込むと、そこにはいつもと変わらない、見慣れた自分の部屋の景色が広がっていた。
けれど、その景色を見る自分の心持ちは、今日を境に、確かに変わり始めている。
シャッターを切るという、これまで当たり前にしてきた行為に、今、初めて確かな責任の重みが、静かに加わっていた。
窓の外、夜空には、星がいくつも瞬いていた。
明日から、また、新しい部長としての一日が、始まる。
ひなはそう思いながら、カメラをそっと机の上に戻した。
それでも、今夜はもう少しだけ、この気持ちの余韻に浸っていたい気がした。
カメラのレンズ越しに見る世界が、明日から、どんな風に変わっていくのか。
その予感は、不安よりも、確かな期待の方が、少しだけ勝っていた。
ひなはそんな気持ちを胸に、静かに電気を消した。
明日から始まる新しい日々に、少しの緊張と、それ以上の楽しみを感じながら。
ご一読いただきありがとうございます。
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