第百三十一話 4月23日 220という数字
四月二十三日、木曜日。
三年生になって初めての、身体測定の日だった。
朝のホームルームで、担任の笠置先生が、測定の順番を告げた。
「今日は、二時間目から、体育館で身体測定を行います。出席番号順に、移動してください」
笠置先生がそう続けると、太秦が面倒くさそうに、伸びをした。
「毎年恒例だけど、地味に憂鬱なんだよな、これ」
「太秦、体重、気にしてるんですか」
央がそう茶化すと、太秦は慌てたように、首を振った。
「別に、気にしてないし」
太秦がそう言い返すと、周りの生徒たちから、小さな笑いが起きた。
その一言に、教室の空気が、少しだけ、ざわついた。
特に、みおの席の周りでは、いつもより緊張した空気が漂っている。
(今日こそ、ちゃんと言おう)
みおは机の下で、そっと拳を握りしめた。
これまで、何年も、身長を偽って申告し続けてきた。
「198センチ」という、それでも十分に規格外な数字でさえ、本当の自分より、はるかに小さく見せかけたものだった。
注目を浴びることが、何より苦手だった。
入退室のたびに集まる視線、すれ違う人の驚いた顔。
その全てから、少しでも逃れたくて、数字を隠し続けてきた。
けれど、央と出会ってから、少しずつ、その考えが変わり始めていた。
彼になら、本当のことを話しても、変わらずにいてくれる。
その確信が、今日、ようやく、行動に移せそうだった。
体育館に設置された測定コーナーには、身長計や体重計が、いくつも並んでいた。
列に並びながら、みおは隣にいた央に、小さく話しかけた。
「央さん、今日、少し、緊張しています」
「身体測定で、ですか?」
央がそう尋ねると、みおは頷いた。
「はい。……今日は、ちゃんと、本当のことを、言おうと思っていて」
みおがそう言うと、央は少し考えるように、視線を宙に浮かせた。
「みおが、そう決めたなら、俺は、それを応援します」
央がそう言うと、みおの表情が、わずかに和らいだ。
「ありがとうございます」
列は、少しずつ進んでいった。
周りの生徒たちは、体重の数字を気にしたり、身長が伸びたかどうかを確かめ合ったりと、それぞれに賑やかな様子を見せている。
そんな中で、みおだけが、ずっと、緊張した面持ちを崩さずにいた。
「大丈夫ですか」
央がそう気遣うと、みおは小さく頷いた。
「大丈夫です。……ただ、少し、心臓が、うるさくて」
みおがそう言いながら、胸のあたりを、そっと押さえた。
「無理に、話さなくても、いいんですよ」
央がそう言うと、みおは首を振った。
「いえ。……今日、言わなかったら、きっと、またずっと、言えないままだと思うので」
みおがそう言うと、央はそれ以上何も言わずに、静かに、隣に立っていた。
少し前の列では、太秦とひなが体重計の結果を見せ合って、賑やかに騒いでいる。
「見ろ、去年より、ちゃんと絞れてる」
「太秦くん、それ、自慢するとこ?」
ひなが呆れたように言うと、太秦は得意げに、胸を張った。
そんな二人の様子を横目に、みおは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
やがて、みおの番が回ってきた。
養護教諭が、身長計の前で、いつものように、確認の声をかける。
「葛城さん、今日も、198センチで、記録しておく?」
その問いに、みおは一瞬、息を止めた。
けれど、すぐに、はっきりと、首を横に振った。
「いえ、今日は、本当の数字を、記録してください」
みおがそう言うと、養護教諭は少し驚いたように、目を見開いた。
「……分かったわ。じゃあ、測りましょうか」
養護教諭がそう言いながら、身長計のバーを、慎重に調整していく。
みおは背筋を伸ばして、計測台に立った。
しばらくの沈黙の後、養護教諭が、数字を読み上げた。
「二百二十センチ、ね」
その数字に、周りで順番を待っていた生徒たちが思わず、小さくどよめいた。
みおは顔が熱くなるのを感じながらも、その場にまっすぐ立ち続けた。
「大きくなったわねえ。去年より、また伸びたのね」
養護教諭がそう言いながら、記録用紙に、数字を書き込んでいく。
その口調は、驚きよりも、むしろ、感心したような響きを帯びていた。
「はい。……成長期が、まだ、続いているみたいで」
みおがそう答えると、養護教諭は優しく微笑んだ。
「正直に言ってくれて、良かったわ。健康管理の面でも、本当の数字の方が、ずっと助かるから」
養護教諭がそう言うと、みおは小さく頭を下げた。
「これまで、ご迷惑を、おかけしました」
みおがそう言うと、養護教諭は優しく首を振った。
「迷惑だなんて、思ってないわよ。……あなたなりの事情があったんでしょうし」
養護教諭がそう言うと、みおの目に、じわりと、熱いものがこみ上げた。
(言えた。……ちゃんと、言えた)
みおは内心で、そう自分に言い聞かせていた。
これまで、ずっと隠し続けてきた数字を、初めて、誰かの前で、正直に口にした瞬間だった。
測定が一通り終わり、体育館の隅で、休憩時間が設けられた。
みおは人目を避けるようにして、央に近づいた。
「央さん、あの……」
「はい」
みおがそう切り出すと、央は静かに、みおの言葉を待った。
「今まで、ずっと、言えませんでした。……他の人に、本当の身長のこと」
みおがそう言いながら、少し俯いた。
「でも、今日は……」
みおがそう続けると、央は静かに頷いた。
「二百二十センチ、ですよね。……さっき、聞こえました」
「はい。……また、伸びていました。隠しているつもりはなかったのですが」
みおがそう言うと、央は首を振った。
「謝ることじゃないと思います。……みおが、ずっと、抱えてきたことなので」
央がそう言いながら、みおの目を、まっすぐに見つめた。
その視線に、みおは思わず目を逸らしそうになったが、なんとか堪えた。
央がそう言うと、みおの目に、じわりと、涙が滲んだ。
「……ありがとうございます」
みおがそう言うと、央は少し照れくさそうに、視線を落とした。
「正直に言うと、俺は、その数字を聞いても、何も変わりません。……みおが、みおであることに、変わりはないので」
央がそう言うと、みおの頬がわずかに赤く染まった。
「……央さんは、いつも、そう言ってくれますね」
「本当のことなので」
央がそう答えると、みおは小さく笑った。
「今まで、この数字を、誰かに知られるのが、怖かったんです。……どう思われるか、分からなくて」
みおがそう続けると、央は静かに、みおの言葉に耳を傾けた。
「でも、央さんに聞いてもらえて、少し、肩の荷が下りた気がします」
みおがそう言うと、央は優しく頷いた。
「これからも、俺には、なんでも話してください」
「はい。……ありがとうございます」
みおがそう言いながら、涙を拭って、小さく微笑んだ。
その様子を、少し離れたところから見ていた太秦が、二人に近づいてきた。
「なあ、今、聞こえたんだけど……二百二十センチ?」
太秦がそう尋ねると、みおは少し緊張した面持ちで、頷いた。
「はい。……今日、初めて、正直に、申告しました」
「そこまでいくと、もう、規格外だろ」
太秦がそう言いながら、驚いたように、頭を掻いた。
けれど、それ以上は、深く踏み込まず、いつも通りの調子で、話を続けた。
「まあ、葛城さんは、葛城さんだしな。数字がどうであれ」
太秦がそう言うと、みおは少しほっとしたように、表情を緩めた。
「ありがとうございます、太秦さん」
「別に、礼を言われるほどのことじゃないだろ」
太秦がそう言いながら、軽く肩をすくめた。
「にしても、二百二十センチって、俺と身長、どんくらい差があるんだろ」
太秦がそう言いながら、自分とみおの背丈を、見比べるように、目を細めた。
「見上げる角度、結構、キツいんだけど」
「すみません、なんか」
みおがそう言うと、太秦は慌てたように、手を振った。
「いや、謝ることじゃないから。単純に、感想」
太秦がそう言うと、みおは小さく笑った。
その気安いやり取りに、張り詰めていた空気が、少しずつ、和らいでいく。
「太秦さんは、あまり、驚かないんですね」
みおがそう言うと、太秦は肩をすくめた。
「まあ、葛城さんのことだしな。今更、数字一つで、印象なんて変わらないだろ」
太秦がそう言うと、みおは目を細めて、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます。……そう言ってもらえると、すごく、救われます」
「大袈裟だって」
太秦がそう言いながら、照れくさそうに、頭を掻いた。
その一連のやり取りを見ていた央は、内心、太秦の気遣いに、静かに感謝していた。
誰かの秘密に、必要以上に踏み込まず、けれど、さりげなく受け止める。
太秦のそういうところを、央は以前から、頼もしく思っていた。
少し離れたところで測定の順番を待っていたひなとさやかも、その数字を聞きつけて、目を丸くしていた。
「え、うそ、二百二十?」
ひなが思わず、そう声を上げた。
「みお、それ、もう、バスケ部からスカウトされるレベルじゃない?」
さやかがそう言うと、みおは困ったように、苦笑いを浮かべた。
「運動神経は、壊滅的なので、それは、ちょっと」
みおがそう答えると、ひなとさやかは揃って、小さく笑った。
「まあ、でも、よく言えたね、正直に」
さやかがそう言うと、みおは少し照れくさそうに、頷いた。
「はい。……ずっと、勇気が出なくて」
「これからは、もっと、気楽に言えるようになるといいね」
ひながそう言うと、みおは静かに微笑んだ。
「はい。……少しずつ、頑張ります」
「うちらも、応援してるから」
さやかがそう言うと、みおは目を潤ませながら、頷いた。
「ありがとうございます」
測定が全て終わり、教室に戻る廊下で、みおは央に、そっと耳打ちした。
「央さんに、正直に話せて、良かったです」
「俺も、聞けて、良かったです」
央がそう答えると、みおは少し首をかしげた。
「央さんは、どうして、いつも、そんなに、自然に受け止めてくれるんですか」
その問いに、央は少しの間、黙り込んだ。
「……昔から、背の高い人に、憧れがあったので」
央がそう答えると、みおは驚いたように、目を丸くした。
「憧れ、ですか」
「はい。……誰にも、話したことは、なかったんですけど」
央がそう言いながら、少し照れくさそうに、頬を掻いた。
「だから、みおが、本当の身長を教えてくれたことが、俺にとっては、すごく嬉しいことでした」
央がそう言うと、みおの頬が再び、赤く染まった。
「……そう、だったんですね」
みおがそう言いながら、小さく微笑んだ。
「聞いてもいいですか。……央さんが、いつから、そういう憧れを持つようになったのか」
みおがそう尋ねると、央は少し考えるように、視線を上げた。
「小学生の頃、ことねちゃんが俺よりずっと背が高くて。……その姿が、すごく格好良く見えたんです。それがきっかけだったと思います」
央がそう言いながら、少し懐かしそうに、目を細めた。
「子供心に、単純に、かっこいいなと思っただけだったんですけど。……気づいたら、ずっと、心のどこかに、残っていました」
「そうだったんですね」
みおがそう言うと、央は頷いた。
「だから、みおに出会った時、正直、少し、運命みたいなものを、感じました」
央がそう言うと、みおは驚いたように、目を見開いた。
「……大袈裟です」
「大袈裟じゃないですよ。本当に、そう思ったので」
央がそう言うと、みおは恥ずかしそうに、視線を逸らした。
廊下の窓から差し込む昼の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
その影の高さの違いも、今のみおには、以前ほど、気にならなくなっていた。
教室に戻る途中、みおはふと、足を止めて、窓の外を見た。
春の空は、どこまでも高く、澄み渡っている。
「どうしました?」
央がそう尋ねると、みおは小さく首を振った。
「いえ。……なんだか、今日は、すごく、清々しい気分だなと思って」
みおがそう言うと、央は静かに微笑んだ。
「良かったです」
「はい。……央さんのおかげです」
みおがそう言うと、央は少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「俺は、何も、していませんよ。……決めたのは、みお自身なので」
「それでも、です」
みおがそう言い切ると、央は観念したように、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
二人は、それから、また、いつも通りの歩調で、教室へと戻っていった。
窓の外では、春の陽射しが、いつもより、少しだけ、眩しく感じられた。
これから先、この二百二十センチという数字が、みおにとって、どんな意味を持っていくのか。
それは、まだ、はっきりとは分からない。
けれど、少なくとも今は、隠さずに歩いていける。
その事実だけで、十分だった。
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