第百三十話 4月17日 もう、隠さなくていい
四月十七日、金曜日。
放課後の図書室には、いつもより静かな空気が流れていた。
返却された本を、慧が棚に戻していく。
その隣で、ほのかは貸出カードの整理をしていた。
「今日、静かだったね、図書室」
慧がそう言いながら、本を棚に収める。
「テスト前だから、部活組は自習室に流れてるんじゃない?」
ほのかがそう答えると、慧は頷いた。
「なるほどな」
二年生になって、少し落ち着いた雰囲気の中、図書委員の作業は、いつもより静かに進んでいく。
窓の外では、夕方の光が、書架の間に、長い影を落としていた。
一年前、右も左も分からないまま図書委員に配属された頃を思うと、この作業も、ずいぶんと板についたものだった。
「この本、また誰かが返却期限、忘れてる」
ほのかがそう言いながら、延滞の付箋を、一冊の本に貼り付けた。
「相変わらず、几帳面だな、そういうところ」
慧がそう言うと、ほのかは肩をすくめた。
「几帳面じゃないと、図書委員、務まらないでしょ」
「まあ、それはそう」
慧がそう言いながら、最後の一冊を、棚の隙間に収めた。
「そういえば、来月の図書委員会、新しい企画、考えてきてって言われてたよね」
ほのかがそう言うと、慧は少し面倒くさそうに、頭を掻いた。
「ああ、あれ。正直、何も思いついてない」
「相談、乗るよ。……二人で考えれば、何か浮かぶかも」
ほのかがそう言うと、慧は少し安心したように、笑った。
「ほのかがいると、なんか、いつも助かるんだよな」
「別に、大したことしてないよ」
ほのかがそう言いながらも、少し嬉しそうに、口元を緩めた。
「よし、今日はこんなもんかな」
慧がそう言って、伸びをした。
「うん、あとは施錠だけだね」
ほのかがそう答えながら、最後の確認をする。
二人は、いつものように、図書室の鍵を返却して、校門を出た。
帰り道は、いつも通り、二人並んで歩く。
小学校の頃から、数え切れないほど繰り返してきた、見慣れた景色。
「そういえば、部活の後輩、慧のこと、頼りにしてるみたいだね」
ほのかがそう言うと、慧は少し照れくさそうに、頭を掻いた。
「いや、そんなことないだろ」
「あるよ。この間も、球技大会の話、相談されてたじゃん」
ほのかがそう指摘すると、慧は曖昧に笑った。
「まあ、後輩に頼られるの、悪い気はしないけど」
「素直じゃん」
ほのかがそう言うと、慧は少しむきになったように、口を尖らせた。
「別に、素直とかじゃなくて」
「はいはい」
ほのかがそう言って、くすくすと笑った。
その様子に、慧は少し不満そうな顔をしながらも、結局つられて笑った。
会話は、いつも通りのはずだった。
けれど、ここ最近、二人の間には、以前にはなかった、微妙な間が生まれるようになっていた。
言葉に詰まる瞬間、視線が、不自然に逸れる瞬間。
その気まずさは、決して、嫌なものではなかった。
むしろ、ほのかにとっては、どこか落ち着かない、けれど、無視できない感覚だった。
(……なんなんだろ、これ)
ほのかは内心でそう思いながら、隣を歩く慧をちらりと見た。
小学生の頃から、当たり前のように隣にいた存在。
それが、いつからか、少しだけ、違う意味を持ち始めている気がしていた。
幼稚園の頃、迷子になったほのかを、必死に探し回ってくれたのは、慧だった。
小学校の運動会では、転んで泣きそうになった自分に、真っ先に駆け寄ってきたのも、慧だった。
中学の文化祭では、緊張で声が出なくなった自分の代わりに、発表の一部を、さりげなく肩代わりしてくれたこともあった。
当たり前すぎて、意識したことすらなかった、そんな数えきれない記憶の一つ一つが、最近になって、急に、違う重みを持ち始めている。
先週の花見でも、桜の下で写真を撮られた時、慧と目が合った瞬間、思わず視線を逸らしてしまった。
あの時の自分の反応を、ほのかはまだうまく説明できずにいる。
「なあ、さっきから、静かだけど。どうかした?」
慧がそう尋ねると、ほのかははっとしたように、顔を上げた。
「……ううん、なんでもない」
ほのかがそう答えたものの、その声は少し上ずっていた。
慧は少し心配そうに、ほのかの顔を覗き込んだが、それ以上深くは聞かなかった。
河川敷に差し掛かったところで、ほのかはふと、足を止めた。
いつもなら、ここから先は、他愛のない話をしながら、ただ歩くだけの道のりだった。
けれど、今日は、どうしても、そのまま帰る気になれなかった。
胸の中で、ずっとくすぶっていた問いが、今にも、こぼれ落ちそうになっている。
「……ねえ、けいくん」
「ん?」
慧が振り返ると、ほのかは少し緊張した面持ちで、口を開いた。
「けいくんは、あたしのこと、どう思ってるの」
その一言に、慧は大きく目を見開いた。
「……え?」
「はぐらかさないで。……ちゃんと、聞きたいの」
ほのかがそう言うと、慧はしばらくの間、黙り込んだ。
夕暮れの風が、河川敷の草を、静かに揺らしていく。
「……急に、どうしたんだよ」
慧がそう言って、視線を逸らそうとした。
「急にじゃない。……ずっと、気になってた。花見の時も、今も。……慧、あたしと目、合わせないようにしてる時、あるでしょ」
ほのかがそう指摘すると、慧は観念したように、大きく息を吐いた。
「……ごめん」
慧がぽつりと、そう切り出した。
「ずっと、はっきりさせられなかった。……幼馴染すぎて、どう伝えたらいいのか、分からなくて」
「うん」
「小さい頃から、ずっと一緒にいたから。……お前を、そういう目で見ることに、自分でも戸惑ってた」
慧がそう言いながら、まっすぐに、ほのかを見つめた。
「正直、今も、ちょっと怖い。……この関係が変わって、今までみたいに、気軽に話せなくなったら、どうしようって」
慧がそう続けると、ほのかは静かに首を振った。
「それは、大丈夫だと思う。……あたしたち、それくらいで、変わるような関係じゃないでしょ」
ほのかがそう言うと、慧は少し安心したように、表情を緩めた。
「でも、最近は、はっきり分かる。……お前のことを、大切に思ってる。友達とか、幼馴染とか、そういう言葉じゃ、もう、足りないくらいに」
その言葉に、ほのかの胸が大きく跳ねた。
「……本当に?」
「本当に。……ずっと、言えなくて、ごめん。いつか、ちゃんと、言おうと思ってた」
慧がそう言うと、ほのかの目に、じわりと、涙が滲んだ。
「……あたしも」
ほのかが震える声で、そう続けた。
「あたしも、最近、けいくんのこと、意識してる。……いつものやつ、って、自分に言い聞かせようとしてたけど、もう、無理だった」
ほのかがそう言うと、慧は少し驚いたように、目を丸くした。
「……マジで?」
「マジで。……こんな顔で言うの、恥ずかしいんだけど」
ほのかがそう言いながら、涙を拭って、小さく笑った。
その笑顔に、慧も、つられるように笑った。
「じゃあ、俺たち……」
「うん」
ほのかが頷いた。
「これから、よろしくお願いします」
慧がそう言って、ぎこちなく、右手を差し出した。
「なにその挨拶」
ほのかがそう言って、笑いながら、その手を握った。
「変か?」
「変。……でも、けいくんらしいから、いいよ」
ほのかがそう言うと、慧は照れくさそうに、頭を掻いた。
二人はしばらくの間、手を繋いだまま、黙って立っていた。
どちらも、次に何を言えばいいのか、分からなかった。
「……なんか、変な感じ」
ほのかがそう言うと、慧は頷いた。
「分かる。今まで、手を繋ぐことなんて、なかったもんな」
「小学生の頃は、あったけどね。迷子にならないように、とか」
ほのかがそう言いながら、懐かしそうに笑った。
「あの頃と、今とじゃ、意味が、全然違うけど」
慧がそう言うと、ほのかは少し顔を赤くしながら、頷いた。
「……そうだね」
河川敷のベンチに、二人は並んで腰を下ろした。
夕暮れの光が、川面に反射して、きらきらと揺れている。
「あのさ、これまで、気まずかったの、俺だけじゃなかったんだな」
慧がそう言うと、ほのかは頷いた。
「あたしも、ずっと、どう接していいか、分からなかった。……幼馴染すぎて、今更、意識してるなんて言えなくて」
「俺も、同じだったよ」
慧がそう言いながら、少し安堵したように、息を吐いた。
「なんか、拍子抜けするくらい、お互い、同じこと考えてたんだな」
「ほんとだね」
ほのかがそう言って、小さく笑った。
その笑顔に、慧も、つられるように、笑みを浮かべた。
「なあ、これから、何が変わるんだろうな」
慧がそう言うと、ほのかは少し考えるように、空を見上げた。
「分からないけど……とりあえず、今まで通り、一緒に帰るのは、変わらないと思う」
「それは、そうだな」
慧がそう言って、笑った。
「あとは、まあ、ゆっくり、慣れていけばいいんじゃない? 急ぐことでもないし」
ほのかがそう言うと、慧は頷いた。
「そうだな。……焦らず、少しずつ」
慧がそう言いながら、立ち上がって、ほのかに、手を差し伸べた。
「行こうか」
「うん」
ほのかがそう言って、その手を取った。
繋いだ手は、まだ、少しぎこちなかったけれど、それでも、確かな温もりがあった。
二人は、そのまま、いつもの帰り道を、並んで歩き続けた。
景色は、何も変わっていない。
けれど、隣を歩く距離感が、これまでとは、少しだけ違って感じられた。
「あのさ」
慧がそう切り出すと、ほのかは首をかしげた。
「これから、なんて呼べばいい? 今まで通りでいいのか、それとも……」
「けいくんで、いいよ」
ほのかがそう即答すると、慧は少し驚いたように、瞬きをした。
「今まで、気分次第で呼び分けてたけど……もう、隠さなくていいから」
ほのかがそう言いながら、少し照れくさそうに、視線を落とした。
「隠す、って?」
「本当は、ちゃんと意識してる時ほど、けいくんって、呼んでたの。……気づいてなかった?」
ほのかがそう言うと、慧はしばらく黙り込んでから、小さく笑った。
「……全然、気づいてなかった」
「鈍いんだから」
ほのかがそう言うと、慧は苦笑いを浮かべた。
「これから、ちゃんと、気づけるように、頑張るよ」
慧がそう言うと、ほのかは優しく目を細めた。
「うん。……期待してる」
橋のたもとまで来たところで、慧がふと、足を止めた。
「そういえば、皆には、いつ話す?」
慧がそう尋ねると、ほのかは少し考えるように、視線を宙に泳がせた。
「うーん……今すぐじゃなくても、いいかな。もう少し、二人の間で、慣れてからでも」
「そうだな。……いきなり報告したら、絶対、からかわれる」
慧がそう言うと、ほのかは笑いながら頷いた。
「特に、ひな先輩とか、絶対、めちゃくちゃ茶化してくる」
「間違いない」
慧がそう言うと、二人は揃って、小さく笑った。
立ち上がって、また歩き出そうとしたところで、慧がふと、自動販売機の前で足を止めた。
「なあ、何か、飲む?」
「え、いいの?」
ほのかがそう尋ねると、慧は頷いた。
「今日くらい、奢らせてくれよ」
「じゃあ、いつものやつ」
ほのかがそう言うと、慧は迷わず、ボタンを押した。
いつも通り、ほのかの好きな、いちご味のミルクティー。
当たり前のように覚えていたその好みが、今日は、なんだか、少し特別なものに感じられた。
「はい」
慧がそう言いながら、缶を差し出した。
「ありがと」
ほのかがそう言って、それを受け取る。
二人は、並んで自動販売機の前に立ったまま、しばらく、缶を開けずに、夕焼けを眺めていた。
「なあ、ほのか」
慧が静かに、そう呼びかけた。
「なに?」
「これから、よろしくな」
慧がそう言うと、ほのかは少し照れくさそうに、けれどまっすぐに、頷いた。
「うん。……こちらこそ、よろしくね、けいくん」
その呼び方に、慧は目を細めて、小さく笑った。
夕陽が、河川敷を、オレンジ色に染めていく。
その光の中を、二人は、これまでと変わらない、けれど、確かに何かが変わった足取りで、歩いていった。
幼馴染という関係に、新しい名前がついた日。
それでも、二人らしい、気取らない空気は、少しも変わっていなかった。
明日も、明後日も、きっと、こうして図書室で顔を合わせて、他愛のない話をしながら、同じ帰り道を歩くのだろう。
ただ、その一歩一歩に、これからは、今日という日の記憶が、静かに寄り添っていく。
缶のミルクティーは、まだ、開けられないままだった。
二人は、それでいいと思った。
急がなくても、この先、いくらでも、時間はあるのだから。
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