第百二十八話 4月9日 新しい景色、二人分
四月九日、木曜日。
波多野ことねの大学生活は、まだ、始まったばかりだった。
入学式を終えたばかりの新入生たちが、キャンパスのあちこちで、所在なさそうに立ち尽くしている。
オリエンテーションの合間、ことねは初対面の同級生に囲まれながら、必死に笑顔を作っていた。
「波多野さん、出身、どこなん?」
「あ、県内の高校やで。……えっと、テニス部やってました! よろしく!」
ことねがそう言いながら、いつもの調子で、明るく手を差し出す。
相手は少し驚いたような顔をしながらも、握手に応じてくれた。
高校の頃は、これで大抵、うまくいっていた。
けれど、この場に集まった何百人という新入生の中では、その手応えが、いつもより頼りなく感じられた。
(勝手が違うなあ、正直)
ことねは内心でそう呟きながら、それでも、精一杯、笑顔を絶やさなかった。
高校の頃は、クラスという枠の中で、自然と友達ができていった。
けれど、この広いキャンパスでは、自分から動かなければ、誰とも喋らないまま一日が終わってしまいそうだった。
オリエンテーションが終わり、学内食堂に向かうと、すでにいくつかの小さなグループが、席を囲んで談笑していた。
高校のように、クラスという単位で自然に固まれるわけではない。
誰と、どこに座ればいいのか。
その一瞬の判断が、これほど気を遣うものだとは、ことねも思っていなかった。
少し立ち尽くしていると、隣の席にいた女子学生が、ふと声をかけてきた。
「もしよかったら、一緒にどう? あたしも、今日、まだ誰とも喋ってなくて」
「あ、ぜひ! ありがとう、助かる」
ことねがそう答えると、相手はほっとしたように笑った。
その一言をきっかけに、ぎこちなかった空気が、少しずつ、ほぐれていく。
「波多野さん、明るい人やなって思って、声かけてみてん」
「あたしの方こそ、声かけてもらえて、めっちゃ助かったわ」
ことねがそう言いながら、笑顔を返す。
こういう時、自分から動くのは得意な方だと思っていたけれど、今日ばかりは、誰かに動いてもらう方が、少しだけありがたかった。
自己紹介の時間になると、順番が回ってきたことねは、思わず、いつもの調子で話し始めてしまった。
「波多野ことねです! 高校ではテニス部で、あと、恋バナ収集が趣味で……」
言い終えてから、周りの真面目な自己紹介との温度差に、ことねは内心、少し焦った。
(しまった、テンション、高校の癖のままやった……)
けれど、周囲からは、思いのほか温かい笑い声が起きた。
「波多野さん、面白いね」
隣の席の子がそう言ってくれて、ことねはほっと胸を撫で下ろした。
勝手が違うと思っていた場所でも、自分らしさが、案外、通用するらしい。
同じ頃、朔は、大学構内の掲示板の前で、サークル紹介のチラシを、一枚一枚、じっくりと見比べていた。
「文芸サークル、それとも、図書館ボランティア……」
朔がそう独りごちながら、チラシの文字を、丁寧に目で追っていく。
周りの新入生たちが、勢いよく次々とサークルの勧誘に応じていく中、朔はあくまで自分のペースを崩さなかった。
「一年間、続けられるものを、選びたいので」
声をかけてきた勧誘の先輩に、朔はそう静かに答えた。
その落ち着いた物腰に、先輩は少し面食らったような顔をしながらも、無理には勧めなかった。
朔は掲示板の前から動かないまま、しばらくの間、比較検討を続けていた。
急がず、けれど、着実に。
その姿勢は、高校の頃から、少しも変わっていない。
昼過ぎ、講義の合間の空き時間に、朔は隣の席になった学生に、思い切って声をかけてみた。
「……すみません、この講義、去年も受けた方はいますか。教科書、指定のものと、市販のもの、どちらがいいのか、少し迷っていて」
「あ、俺、高校の先輩から聞いた話だと、指定のやつでいいらしいっすよ」
「そうですか。……ありがとうございます、助かりました」
朔がそう言って、小さく頭を下げる。
高校の頃であれば、こうして初対面の相手に自分から声をかけることは、あまりなかった。
けれど、環境が変わったことで、少しずつ、自分から動く必要に迫られている。
その変化を、朔自身、まだうまく飲み込めずにいた。
放課後、掲示板の前に戻ってきた朔はもう一度、二枚のチラシを見比べた。
文芸サークルは、活発で、部員同士の交流も盛んそうだった。
図書館ボランティアは、静かで、自分のペースを保てそうだった。
(……どちらも、僕らしい選択ではある。けれど)
朔はふと、高校時代の図書委員の活動を思い出した。
宇陀司書との、静かなやり取り。
本を通じて、誰かと緩やかに繋がっていく感覚。
「まずは、図書館ボランティアから、始めてみようと思います」
朔はそう小さく声に出して、決意を固めた。
急がず、けれど、着実に。
その選択は、朔にとって、何より自然なものだった。
申込用紙に、丁寧な文字で、自分の名前を書き込んでいく。
新しい場所でも、自分らしいやり方を、少しずつ見つけていけばいい。
朔はそう自分に言い聞かせながら、掲示板の前を後にした。
午後の講義が終わる頃、ことねのスマホに、一件の通知が届いた。
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央 :オリエンテーション、どうでしたか
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ことねは通知を見て、思わず口元を緩めた。
従弟からの、何気ない一言。
それだけで、少し肩の力が抜けるのを感じた。
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ことね:もう、勝手が違いすぎて疲れたわ~。同級生の顔と名前、全然覚えられへんし
央 :大変そうですね
ことね:せやろ? でも、なんとかやってるから大丈夫! 央の方は、最上級生、実感湧いた?
央 :まだ、あまり
ことね:それも、あたしと似たようなもんやな。……お互い、ぼちぼちいこか
央 :はい。……また、報告してください
ことね:了解! 央からそう言われると、なんか、頑張れる気がするわ
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ことねはそう打ち込んで、送信ボタンを押した。
スマホをしまいながら、少しだけ、気分が軽くなっているのに気づく。
従弟の存在は、こういう時、思っていたより頼りになるらしい。
夕方、大学近くのカフェで、ことねと朔は、待ち合わせをしていた。
高校時代から続く、二人だけの習慣だった。
「お疲れさん」
ことねがそう言いながら、朔の向かいの席に、どさりと座り込んだ。
「お疲れさまです」
朔がそう答えると、ことねは大きくため息をついた。
「もう、今日一日で、どっと疲れたわ。新しい環境って、こんなにしんどいもんやったっけ」
「……僕も、同じです」
朔が珍しく、素直にそう頷いた。
その反応に、ことねは少し驚いたように、目を丸くした。
「朔くんが、そんな素直に認めるの、珍しいな」
「今日ばかりは、素直に認めます。……サークル一つ選ぶのにも、これだけ時間がかかるとは、思っていませんでした」
朔がそう言いながら、テーブルの上に、チラシの束を広げた。
「結局、決まったん?」
「図書館のボランティアにしました。……文芸サークルも、捨てがたかったですが」
「朔くんらしいわ、それ」
ことねがそう言って、小さく笑った。
「ことねさんの方は、どうですか。何か、決まりましたか」
朔がそう尋ねると、ことねは頷いた。
「テニスサークル、見学だけしてきた。まだ入るとは決めてへんけど、雰囲気は悪くなかったかな」
「ことねさんらしい選択ですね」
「……そう?」
ことねがそう言いながら、少し照れくさそうに、頬杖をついた。
「はい。……高校の頃から、変わらないことねさんらしさだと思います」
朔がそう言うと、ことねの頬がわずかに赤く染まった。
「なんか、今日は、朔くん、素直やな。調子狂うわ」
「新しい環境で、少し、心細いのかもしれません」
朔が少し眼鏡を押し上げながら、正直にそう答えた。
「実は、あたしもさっき、隣の席の子に声かけられて、めっちゃ助かってん。一人やったら、たぶん、今日は結構しんどかったと思う」
ことねがそう打ち明けると、朔は頷いた。
「僕も、今日、講義で分からないことがあって、思い切って隣の人に声をかけました。……いつもの僕なら、しなかったと思います」
「へえ、朔くんも、頑張ったんやな」
ことねがそう言うと、朔は少し照れくさそうに、視線を落とした。
「環境が変わると、自分も、少しずつ、変わらざるを得ないみたいです」
「それ、悪いことちゃうと思うで」
ことねがそう言うと、朔は顔を上げた。
「僕も、そう思いたいです」
朔がそう答えると、ことねは笑いながら、身を乗り出した。
「あ、そういえば、自己紹介の時、あたし、うっかり高校のテンションのまま話しちゃって。周りの子、みんな真面目に自己紹介してたのに、一人だけ浮いてもうた」
「それは、ことねさんらしい失敗ですね」
「うるさいわ。……でも、それがきっかけで、話しかけてくれた子もおったから、結果オーライやったけどな」
ことねがそう言うと、朔は小さく笑った。
「僕にも、似たようなことがありました。……講義中、質問のタイミングを逃し続けて、結局、休み時間まで待つことになりました」
「朔くんらしい失敗やな、それは」
ことねがそう言い返すと、二人は揃って声を上げて笑った。
「あたしも、それは、一緒。……でも、こうして、朔くんと話してると、少し落ち着くわ」
ことねがそう言うと、朔は静かに頷いた。
「僕も、同じです」
朔がそう繰り返すと、ことねは今度は声を上げて笑った。
「さっきから、それしか言ってへんやん」
「……本当に、そう思っているので」
朔が少し困ったように、けれど、まっすぐにそう答えた。
その様子に、ことねはからかうのをやめて、代わりに、優しい目を向けた。
「高校の頃とは、教室も、友達も、全部変わったけど」
ことねがそう言いながら、窓の外を見た。
春の夕暮れが、カフェの窓越しに、二人の間に、柔らかく差し込んでいる。
「変わらないものも、ちゃんとあるんやなって、今、思った」
「僕も、そう思います」
朔がそう答えると、ことねは頷いた。
「明日も、頑張らなあかんな、お互い」
「はい。……明日も、また、ここで」
朔がそう言うと、ことねは笑顔で頷いた。
「うん。約束な」
ことねがそう言うと、朔は少し照れくさそうに、視線を落とした。
「……この習慣が、大学生活の中でも、続けられそうで、良かったです」
「そうやな。高校の時から、ずっと、こうやって話してきたもんな」
ことねがそう言いながら、朔の様子を、あらためて見つめた。
新しい環境に戸惑いながらも、こうして少しずつ、自分のペースを取り戻していく朔の姿は、頼もしくもあった。
その時、ことねのスマホが、続けて小さく震えた。
高校時代の友人グループのLINEに、太秦からのメッセージが届いていた。
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太秦 :ことね先輩、朔先輩、大学生活どうすか
ことね:もう、ヘトヘトやで! でも、なんとかやってる
太秦 :それ聞いて安心しました。またみんなで集まりましょう、来週の花見とか
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ことねは、その一言に、思わず笑みをこぼした。
「太秦くんから、来週の花見の誘い、来てるわ」
ことねがそう言って、スマホの画面を朔に見せた。
「いいですね、高校の後輩たちと集まるの」
「せやな。……高校時代のメンツで集まれるの、こうして見ると、地味に幸せなことなんかもな」
ことねがそう言いながら、スマホをしまった。
新しい環境に、少しずつ馴染んでいく毎日の中で、変わらない繋がりがあることが、思っていた以上に、心の支えになっていた。
窓の外、大学へと続く並木道を、真新しい制服ならぬ、真新しいスーツやカジュアルな私服姿の新入生たちが、まだ少しぎこちない足取りで、行き交っていた。
その景色の中で、ことねと朔だけが、変わらない距離感のまま、静かに向き合っていた。
高校時代とは違う、新しい景色。
けれど、それを一緒に歩いていく相手がいることは、何よりも心強かった。
そして、離れていても、あの教室の仲間たちと繋がっていられることも、同じくらい、大切な支えだった。
ことねは、カフェを出た後、夜道を歩きながら、今日一日を振り返った。
慣れない環境、覚えきれない名前、勝手の違う教室。
それでも、こうして支え合える相手がいる限り、少しずつ、前に進んでいけるだろう。
(明日は、もう少し、うまくやれるかな)
ことねは、そう小さく呟きながら、夜空を見上げた。
隣を歩く朔も、同じ夜空を、静かに見上げていた。
新しい生活の一日目は、こうして、静かに幕を閉じようとしていた。
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