第百二十七話 4月8日 最上級生の景色
四月八日、水曜日。
三年生になって、三日目の朝だった。
三年A組の教室には、始業前の、いつもより少し落ち着いた空気が流れていた。
央が教室に入ると、少し離れた席で、みおが静かに本のページをめくっていた。
「おはようございます」
「おはようございます、央さん」
みおがそう言いながら、顔を上げた。
「三日目にもなると、さすがに、新しい教室にも、慣れてきましたか」
央がそう尋ねると、みおは少し考えるように、視線を天井に向けた。
「教室には、慣れてきましたけど。……最上級生っていう肩書きには、まだ、慣れません」
「分かります。……俺も、同じです」
央がそう答えると、みおは小さく笑った。
やがて、太秦とさやか、そしてひなも次々と登校してきて、始業のチャイムが鳴る頃には、教室はいつもの賑やかさを取り戻していた。
朝のホームルームで、担任の笠置先生が、黒板の隅に、五月の行事予定を書き加えた。
「進路相談は、来月半ばを予定しています。……気の早い人は、今のうちから、少しずつ考えておいてくださいね」
笠置先生がそう言うと、教室の空気に、わずかな緊張が走った。
まだ先の話のはずなのに、その一言だけで、最上級生になったことの重みが、じわりと感じられる。
央は少し離れた席のみおと、一瞬だけ目を合わせた。
どちらも、何も言わなかったが、同じことを考えているのが、なんとなく伝わってきた。
休み時間の廊下、太秦は掲示板の前で立ち止まった一年生に、声をかけられていた。
「あの、すみません。……三年A組の教室って、どっちですか」
「ああ、それなら――」
太秦がそう言いながら、廊下の先を指差した。
「あの階段上がって、右手の三つ目。迷いやすいんだよな、この校舎」
「ありがとうございます!」
一年生がぺこりと頭を下げて、駆けていく。
その背中を見送りながら、太秦は少し照れくさそうに、頭を掻いた。
その様子を、通りかかった央が目撃していた。
「太秦、板についてましたね、道案内」
「……見てたのかよ」
「はい。……なんか、様になってましたよ」
央がそう言うと、太秦は少し気まずそうに、視線を逸らした。
「先輩って呼ばれるの、まだちょっと慣れないんだよな」
太秦がそう言いながら、教室の方へ歩き出す。
「慣れないですか」
「だって、こないだまで、俺らも同じ立場だったろ。急に敬語で頼られると、なんか、こそばゆい」
太秦がそう言うと、央は小さく頷いた。
「分かります。……俺も、まだ実感が湧かないので」
二人がそんな話をしながら歩いていると、廊下の向こうから、また別の一年生らしき生徒が、地図を片手にきょろきょろしているのが見えた。
「ほら、また来たぞ」
太秦がそう言って、口の端を上げた。
「太秦、モテますね、後輩に」
「からかうなよ」
太秦がそう言い返しながらも、廊下を渡ってその一年生に近づいていく。
二人分の道案内を終えて教室に戻ってきた太秦を、さやかが待ち構えていた。
「太秦、誰か案内してたでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「廊下から丸見えだったから」
さやかがそう言うと、太秦は苦笑いを浮かべた。
「まあ、頼られると、無下にはできないだろ」
「その足取り、まんざらでもなさそうだったけどね」
さやかがそう茶化すと、太秦は口を尖らせながらも、その足取りはどこか軽やかだった。
昼休み、図書室の窓際の席で、央とみおは並んで座っていた。
昼食を終えた後の、少しゆったりとした時間。
「三年生になって、三日経ちましたけど」
みおがそう言いながら、開いた本のページに視線を落とした。
「まだ、あまり実感、湧きませんね」
央がそう答えると、みおは小さく頷いた。
「わたしも、同じです。……教室の景色は変わったのに、気持ちの方が、追いついていない感じがします」
「進路のことも、少しずつ、考えていかないといけないんですよね」
央がそう言うと、みおは本を閉じて、こちらを向いた。
「央さんは、もう、何か決めていますか」
「……正直、まだ、はっきりとは。ただ、これまで好きだったこと――本を読むこと、歴史のことを調べること。その延長線上で、何かできたらとは思っています」
央がそう答えると、みおは静かに頷いた。
「わたしは、数学が得意なので、そちら方面を、考えています。……まだ、担任の先生には、正式に相談していませんが」
「みおらしいですね」
央がそう言うと、みおは少し照れくさそうに、視線を落とした。
「……そう、でしょうか」
「はい。……得意なことを、まっすぐ伸ばしていく感じ、みおらしいと思います」
央がそう言うと、みおの頬がわずかに赤くなった。
「そう言われると、なんだか、照れます」
みおがそう言いながら、また本を開いた。
二人の間に流れる沈黙は、気まずいものではなく、むしろ、心地よいものだった。
「央さんは、本を読むこと以外にも、何か、興味があることってありますか」
みおがそう尋ねると、央は少し考え込んだ。
「歴史の中でも、特に、人と人との関わりが、時代を動かしていく過程が、好きです。……うまく言えませんが、そういうことを、学問として突き詰められたら、面白いかもしれないと」
「素敵だと思います。……央さんらしい選び方です」
みおがそう言うと、央は少し照れくさそうに、頬を掻いた。
「あとは、朝、祖父とコーヒーを飲みながら、色々な話をするのも、好きなんです。……大した話じゃなくても、なんとなく、勉強になることが多くて」
「央さんとおじいさま、仲がいいんですね」
みおがそう言うと、央は少し目を細めた。
「はい。……口うるさいところもありますけど、話していると、勉強になることが多いです」
「五月には、本格的な進路相談があるみたいですね」
みおがそう言うと、央は表情を引き締めた。
「はい。……笠置先生も、そう言っていました。それまでに、少しずつ、考えをまとめておかないといけませんね」
「はい。……一緒に、頑張りましょう」
みおがそう言うと、央は小さく笑った。
「はい」
窓の外では、図書室前の桜が、まだ数輪、花びらを残していた。
その様子を、二人はしばらく、言葉もなく、並んで眺めていた。
放課後、写真部の部室では、ひなが、後輩たちに囲まれていた。
「先輩、この構図、どう思いますか」
一年生の部員が、撮ったばかりの写真をひなに見せる。
「うーん、悪くないけど、あと少し、左に寄せた方が、空の余白が活きると思うよ」
ひながそう言いながら、画面を指差した。
「先輩って、いつもそういうの、すぐ分かるんですね」
「経験だよ、経験。うちも最初は、全然、分かんなかったし」
ひながそう言うと、一年生たちは感心したように、頷いた。
「先輩は、いつから写真、撮り始めたんですか」
別の一年生が、そう尋ねてきた。
「中学の頃、かな。最初はスマホで、なんとなく撮ってただけだったけど」
「今はもう、部内でも一番上手いって、噂で聞きました」
「大袈裟だって」
ひながそう言いながらも、まんざらでもなさそうに、笑った。
その様子を部室の隅で見ていた顧問の先生が、静かに近づいてきた。
「御所さん、板についてきましたね、指導」
「え、そうですか?」
ひなが少し驚いたように、顔を上げた。
「三年生ですし、そろそろ、来年度の体制のことも、考えていかないといけません。……御所さんには、期待しているんですよ」
顧問の先生がそう言いながら、穏やかに微笑んだ。
「体制、って……」
ひなが小さく呟くと、顧問の先生はそれ以上、多くを語らずに、部室を後にした。
残されたひなはしばらくの間、その言葉の意味を、頭の中で反芻していた。
(部長……ってこと、だよね、それ)
まだ、正式な打診ではない。
けれど、その一言には、確かな重みがあった。
今まで、好きなように、撮りたいものを撮ってきただけだった。
もし部長になったら、部全体のことを、考えなければいけなくなる。
その責任の重さを、ひなはまだ、うまく想像できずにいた。
写真部に入ったばかりの頃を、ふと思い出す。
当時の部長に、構図の基本を教えてもらいながら、夢中でシャッターを切っていた自分。
あの時は、誰かを指導する立場になるなんて、想像もしていなかった。
時間の流れというのは、思っていたより、ずっと早いのかもしれない。
「先輩、大丈夫ですか? なんか、ぼーっとしてますけど」
一年生の部員がそう声をかけると、ひなは慌てて、笑顔を作った。
「あ、ごめん、なんでもない。……それより、さっきの写真、もう一回見せて」
ひなはそう言いながら、後輩の元へ歩み寄った。
その内心では、まだ、小さなざわめきが、続いていた。
放課後、教室に残っていた央たちの元に、ひなが少し遅れて合流した。
「お待たせ。写真部、今日、ちょっと長引いちゃって」
ひながそう言いながら、鞄を肩にかけた。
「後輩の指導、大変そうだな」
太秦がそう言うと、ひなは苦笑いを浮かべた。
「大変っていうか……なんか、色々、考えることが増えた気がする」
「色々?」
さやかがそう尋ねると、ひなは一瞬、言葉を濁した。
「……ううん、なんでもない。それより、今日、皆はどうだった? 最上級生としての実感、湧いた?」
ひなが話を逸らすように、そう尋ねた。
「俺は、後輩に道を聞かれて、ちょっとだけ、それっぽい気分になったな」
太秦がそう言うと、皆が小さく笑った。
「太秦、まんざらでもなさそうでしたよ」
央がそう言うと、太秦は口を尖らせた。
「うるさいな。……で、おうくんは、どうなんだよ。実感、湧いた?」
「……正直、まだ、湧きません」
央がそう答えると、太秦は肩をすくめた。
「そのうち、いやでも湧くって」
太秦がそう言うと、みおもさやかも、揃って頷いた。
「私は、弟のことがあったから、なんとなく、実感、湧いてきたけどね」
さやかがそう言うと、太秦は思い出したように、頷いた。
「ああ、弟くんの入学式か。……そういうの積み重ねてくと、だんだん、実感になっていくのかもな」
「それに、進路のことも、前より、ちょっとだけ、具体的に考えられるようになった気がする」
さやかがそう続けると、みおが優しく微笑んだ。
「良い変化ですね」
「うん。……昨日のことが、地味にきっかけだったのかも」
「太秦さん、いいこと言いますね」
みおがそう言うと、太秦は照れくさそうに、頬を掻いた。
「たまには、な」
その言葉に、皆が声を上げて笑った。
「ひなは、どうなの。写真部で、何かあったんじゃない?」
みおがそう水を向けると、ひなは一瞬、視線を泳がせた。
「……まあ、ちょっとね。今はまだ、うまく言えないんだけど」
「気になるけど、無理には聞かないよ」
さやかがそう言うと、ひなは少しほっとしたように、表情を緩めた。
「ありがと。……ちゃんと形になったら、真っ先に、皆に話すから」
ひながそう言うと、皆はそれ以上、深くは踏み込まなかった。
けれど、その一言に、何か大切なことが動き始めているのを、それぞれが、なんとなく感じ取っていた。
窓の外、放課後の校庭では、部活動に励む生徒たちの声が、賑やかに響いている。
その音を背景に、五人はしばらく、他愛のない話を続けた。
「来週には、席替えもあるみたいだしね」
ひながそう言うと、央とみおが一瞬だけ、視線を交わした。
互いに、何かを言いかけて、けれど、どちらも口には出さなかった。
「それも、楽しみの一つ、ってことで」
太秦がそう言って、鞄を担ぎ直した。
「そろそろ、帰るか」
「はい」
五人はそれぞれの荷物を手に、教室を出る。
廊下の窓から差し込む夕日が、最上級生になったばかりの五人の背中を、あたたかく照らしていた。
昇降口で靴を履き替えながら、太秦がふと呟いた。
「一年の頃、ここで五人揃うことなんて、なかったよな」
「そうですね。……あの頃は、休み時間に、たまに顔を合わせるくらいでした」
央がそう答えると、ひなが横から口を挟んだ。
「今は、こうして、毎日、一緒に帰れるんだもんね」
「贅沢な話だよね、考えてみれば」
さやかがそう言うと、皆がそれぞれに頷いた。
校門を出るところで、五人は自然と足を止めて、振り返った。
三年間過ごしてきた校舎が、夕日を浴びて、いつもより少しだけ、大きく見えた気がした。
実感は、まだ、はっきりとは湧いていない。
けれど、こうして積み重ねていく一日一日が、いつか、確かな実感に変わっていくのだろう。
そんな予感だけが、今は、静かに胸の中にあった。
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