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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~三年生~

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第百二十六話 4月7日 行ってらっしゃいの言い方


 四月七日、火曜日。

 さやかの弟、海斗(かいと)の、高校入学式の朝だった。


 さやかはいつもより三十分早く、リビングに降りていた。

 キッチンでは母が朝食の支度に追われている。

 卓上には、見慣れない紺色のブレザーが丁寧にハンガーへ掛けられていた。


「さやか、海斗の様子、見てきてくれない? なかなか下りてこなくて」


 母がそう言いながら、フライパンを振った。


「はいはい」


 さやかは返事をしながら、二階へと続く階段を上がった。


 弟の部屋の前で軽くノックすると、少し間を置いて、返事があった。


「……入っていいよ」


 ドアを開けると、海斗は姿見の前で、ネクタイと格闘していた。

 制服はまだ、板についていない。

 着慣れない紺色の生地がどこかよそよそしく、細い肩にのっている。


「貸してみ」


 さやかがそう言って、ネクタイに手を伸ばすと、海斗は驚いたように姉を見た。


「……できるの?」


「舐めんなよ。三年前、散々練習したんだから」


 さやかがそう言いながら、手早く結び目を整えていく。

 鏡の中の弟の顔は少し緊張しているようだった。


「……ほら、できた」


「……ありがと」


 海斗が鏡越しに小さく頷いた。

 その拍子に、伸びた背丈が目に入った。

 少し見ない間に、また背が伸びている。


(……いつの間にか、こんなに大きくなって)


 さやかはそう思いながら、弟の背中を軽く叩いた。


「制服、似合ってるじゃん」


「……そう?」


「うん。悪くない」


 海斗が照れくさそうに視線を逸らした。

 その仕草は幼い頃と少しも変わっていなかった。


「緊張してる?」


 さやかがそう尋ねると、海斗は少し考えてから答えた。


「……ちょっとだけ。友達、できるかな」


「大丈夫でしょ。あんた、意外と人懐っこいし」


「姉ちゃんほどじゃないよ」


 海斗がそう言い返すと、さやかは軽く笑って、弟の頭を小突いた。


「三年前の私なんて、もっとガチガチだったよ。制服のリボン、忘れて家出た日もあったし」


「それ、うける」


 海斗が少し表情を緩めた。

 その反応に、さやかは内心、ほっとした。



 一階に降りると、朝食の席には、すでに祖父が座っていた。

 背筋を伸ばし、新聞を広げる姿勢はいつもと変わらない。

 その隣では、祖母が味噌汁の椀を、人数分並べているところだった。


「海斗、まだ支度に手間取っているのか」


「もう終わりました。今、着替えてます」


 さやかがそう答えると、祖父は小さく頷いた。


「入学式は、人生の節目だ。……気を引き締めて臨むように、あとで言っておきなさい」


「はいはい、伝えとく」


 さやかは軽く受け流しながら、テーブルに着いた。

 祖父の礼儀作法へのこだわりは昔から変わらない。

 口うるさいと感じることも多かったが、その分、筋の通った人だとも思っている。


「おじいちゃんったら、朝から堅苦しいこと。……海斗くんも、緊張しちゃうでしょう」


 祖母がそう言いながら、味噌汁を配って回った。

 その柔らかな口調に、さやかは少しほっとした。

 祖父と祖母のこの温度差が、この家の朝をちょうどよく保っているのだと、さやかは常々思っている。


 やがて海斗が慣れないブレザー姿で、リビングに姿を現した。


「おお、様になっているじゃないか」


 祖父がそう言って、目を細めた。


「……ありがとうございます」


 海斗が少し硬い声で答える。

 その様子に、母が微笑みながら、スマホを構えた。


「せっかくだから、写真、撮っておこうか」


「え、いいよ、恥ずかしいから」


 海斗が慌てて手を振ったが、母は構わずシャッターを切った。


「はい、記念、記念」


「もう……」


 海斗が小さくため息をついた。

 その様子を見ていた父が新聞越しに口を挟んだ。


「今日から高校生か。……早いもんだな」


「まだ実感、湧かないけど」


 海斗がそう答えると、父はコーヒーを一口飲んで、静かに頷いた。


 朝食はいつもより少し賑やかに過ぎていった。

 さやかはその輪の中で、なんとなく落ち着かない気分を抱えていた。

 自分が二年前に座っていた側から、今日は見送る側へ。

 その入れ替わりが、まだうまく実感として結びついていない。



 玄関先で靴を履く海斗の背中を、さやかはぼんやりと眺めていた。

 三年前、高校の制服に袖を通した日も、こんな朝だった気がする。

 あの時は、自分がこの家を出ていく側で、見送るのは両親と祖父母だった。


(今日は、逆なんだ)


 さやかはそう思いながら、なんと声をかければいいのか、ひそかに迷っていた。

 「頑張って」は少し重い。

 「気楽にね」は少し軽すぎる気がする。

 いつも何気なく口にしている「行ってらっしゃい」の一言が今朝に限って、妙に選びにくい。


「じゃあ、行ってきます」


 海斗が靴紐を結び終えて、立ち上がった。


「うん」


 母がそう言いながら、玄関先まで見送りに出る。

 祖父も、リビングの入り口からその様子を見守っていた。


 さやかは玄関に立つ弟の背中を見ながら、結局、いつもの言葉を選んだ。


「……行ってらっしゃい」


 ただ、その一言に、いつもより少しだけ、力がこもっていた気がした。


 海斗が振り返って、小さく笑う。


「行ってきます」


 弟がそう言って、玄関を出ていく。

 紺色の背中が朝の光の中を、少しぎこちない足取りで遠ざかっていった。


 さやかはその背中が見えなくなるまで、玄関先に立っていた。

 見送る側というのは、思っていたより、胸の奥が落ち着かないものらしい。



 学校までの道すがら、さやかは通学路で(おう)と落ち合った。


「おはようございます」


「おはよ」


 央がそう言うと、さやかは軽く手を挙げて応えた。

 その表情に、いつもと少し違う色があるのを、央は目ざとく察したらしい。


「何か、ありました?」


「なんで分かるの」


「なんとなく、です」


 央がそう言うと、さやかは苦笑いを浮かべた。


「今日、弟の入学式でさ。見送ってきたんだよね」


「それは、大きな一日ですね」


 央がそう言うと、さやかは頷きながら、少し歩調を緩めた。


「なんかさ、見送る側って、初めてで。うまく言葉が出てこなかったんだよね」


「……分かる気がします」


 央がそう答えると、さやかは意外そうな顔をした。


「勢多くんも、そういうの、経験あるの?」


「一人っ子なので、弟妹はいませんが。……人を送り出すときの言葉って、案外、難しいものだと思います」


 央がそう言うと、さやかは小さく笑った。


「なんか、勢多くんが言うと、妙に説得力あるわ」



 昼休み、教室の窓際に集まった皆に、さやかはその朝の話を、なんとはなしにこぼしていた。


「今日、弟の入学式だったんだけどさ」


「あ、海斗くん、高校生になったんですね」


 みおがそう言うと、さやかは表情を緩めた。


「うん。……なんか、見送る側になるの、地味に緊張したわ」


「見送る側、ですか」


 みおがそう言って、少し首をかしげた。


「私たちが玄関で送り出すことなんて、今まで、あんまりなかったからさ。なんて声かければいいのか、地味に迷ったんだよね」


 さやかがそう言うと、みおは優しく相槌を打った。


「……分かる気がします」


 みおがそう言いながら、少し目を伏せた。

 その様子に、さやかは少しだけ、意外そうな顔をした。


「みおも、そういうの、あるの?」


「……ことね先輩を送り出す側に、いつの間にかなっていたので。似たような気持ちだったのかもしれません」


 みおがそう答えると、さやかはなるほどというように頷いた。


 その隣で話を聞いていた太秦(うずまさ)が軽く口を挟んだ。


「弟、制服、似合ってた?」


「まあまあ。ネクタイ、私が結んでやったし」


 さやかがそう言うと、太秦は感心したように口笛を吹いた。


「さやかさん、そういうの、器用だよね」


「昔から、弟の宿題見たりするの、得意だったからね」


 さやかがそう答えながら、ふと、その言葉の意味を、自分の中でなぞり直した。


 弟に勉強を教えているうちに、自分の理解が深まっていくのを感じる瞬間が何度もあった。

 誰かに何かを分からせることの、あの独特の手応え。

 それが今、進路について考えるとき、静かに自分を後押ししている気がする。


 小学生の頃、海斗の算数の宿題を見てやったことがある。

 同じ問題を、何度説明しても分かってもらえず、苛立ちかけたその時。

 言い方を変えて、順番を入れ替えて話したら、海斗の顔がぱっと明るくなった瞬間があった。

 あの時の感覚を、さやかは今でも、はっきりと覚えている。


「教育系の仕事、興味あるって言ってたもんな」


 太秦がそう言うと、さやかは少し照れくさそうに、頬を掻いた。


「まだ、はっきり決めたわけじゃないけどね」


「でも、さっきの話聞いてたら、なんか、向いてる気がするよ」


 みおがそう言うと、さやかは小さく笑った。


「……ありがと」


 窓際に、ひながパンを片手に駆け寄ってきた。


「何の話ー?」


「さやかの弟が、今日から高校生なんだって」


 みおがそう説明すると、ひなは目を輝かせた。


「うわ、うちも来年、弟いたら、こんな感じだったのかな。

 一人っ子だから分かんないけど」


 ひなの素直な反応に、さやかは苦笑した。


「一人っ子は一人っ子で、気楽でいいと思うけどね」


「そうかなー。……あ、写真、ないの? 弟くんの制服姿」


「あるけど、見せないよ」


 さやかがそう言うと、ひなは不満そうに頬を膨らませた。


「けちー」


 その様子に、周囲から小さな笑いが起きた。


 央はその輪から少し離れたところで、静かに話を聞いていた。

 見送る側の戸惑いと、送り出される側の緊張と。

 どちらも、これまであまり考えたことのない感情だったが、さやかの話を通して、少しだけ実感が持てた気がした。


「見送る側の言葉って、案外、その日にならないと分からないものなんですね」


 央がそう呟くと、さやかは目を細めた。


「そう、それ。私も今日、初めて分かったわ」



 放課後、教室に西日が差し込む頃、さやかはひとり、窓の外を眺めていた。

 海斗は今頃、初めてのホームルームの真っ最中だろうか。

 少し緊張した顔で、新しい教室に座っている姿を、なんとなく思い浮かべる。


(頑張ってるかな)


 さやかはそう思いながら、鞄からスマホを取り出した。

 メッセージを送ろうか、一瞬迷って、結局、指を止める。

 過保護になりすぎるのも、良くない気がした。


 それより、家に帰ったら、今日はどんな一日だったか、直接、聞いてみよう。

 見送る側になったからといって、心配ばかりしているのも、らしくない。


 さやかはそう思い直して、スマホをそっと鞄にしまった。

 教室にはまだ、太秦とひなが残っていて、部活の話で盛り上がっている。

 その賑やかな声を背に聞きながら、さやかはしばらく、窓の外の桜並木を眺めていた。

 弟の教える立場に立ったのも、今日が初めてではない。

 けれど、今日という日はこれまでとは少し違う重みを持って、胸に残っている気がした。


 進路相談は、まだ先の話だと思っていたけれど。

 今日のことがあって、少しだけ、その距離が縮まった気がする。

 誰かに何かを分かってもらう仕事。

 その輪郭が、ほんの少しだけ、はっきりしてきたように思えた。



 夕方、家に帰ると、玄関にはすでに見慣れた海斗の靴があった。


「ただいまー」


 さやかがそう言いながら、リビングに顔を出すと、海斗がソファに座って、スマホをいじっていた。


「おかえり」


「おかえりって、あんたの方が先に帰ってたんだ」


 さやかがそう言うと、海斗は少し得意げに笑った。


「今日、部活紹介、色々あってさ。バスケ部、見学しようかなって」


「へえ。……まあ、頑張りなよ」


 さやかがそう言いながら、隣に腰を下ろした。


「姉ちゃん、朝の、あれ」


「あれ?」


「……行ってらっしゃい、って言ってくれたやつ。ちょっと、ホッとした」


 海斗がそう言って、少し照れくさそうに、スマホの画面に視線を戻した。


 その一言に、さやかは思わず頬が緩むのを感じた。

 どんな言葉を選べばいいのか迷った、あの朝の一瞬が無駄ではなかったらしい。


「じゃあ、明日からも、ちゃんと言ってあげるよ」


「別に、毎日じゃなくていいけど」


 海斗がそう言い返すと、さやかは声を上げて笑った。


 キッチンから、母の声が届く。


「二人とも、夕飯できたよ」


「はーい」


 さやかと海斗が揃って返事をする。

 祖父母もリビングに顔を出し、六人分の食卓がいつもより少しだけ賑やかに整えられていく。

 入学式という節目を挟んでも、この家の夕方の景色は驚くほど変わらない。

 その変わらなさが、さやかには、今はなんだか、心地よく感じられた。


 窓の外、夕暮れの空を、桜の花びらが一枚、風に乗って横切っていった。

 見送る言葉も、迎える言葉も、まだ手探りではあったけれど。

 この家に、また一つ、新しい季節が始まっていた。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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