第百二十三話 3月25日 それぞれの、春の入口
三月二十五日、水曜日。
終業式の日。
体育館での式が終わると、央たちの学年にも、春休みが訪れた。
春休みは短いが、この一年を締めくくる大切な区切りでもあった。
教室に戻ると、担任の笠置先生が、最後のホームルームで簡単な挨拶をした。
「一年間、お疲れ様でした。四月からは、いよいよ、最終学年です」
その言葉に、教室の空気が少しだけ引き締まった。
央も、みおも、その緊張感を静かに受け止めていた。
下駄箱で靴を履き替えながら、太秦が、伸びをする。
「ようやく、春休みだな」
「短いですけどね」
央がそう答えると、太秦は肩をすくめた。
「短くても、休みは休みだろ」
そんな軽口を交わしながら五人は、それぞれの春休みへと散っていった。
ことねの部屋では、段ボール箱がいくつも積み上がっていた。
「これも、いる? いらない?」
母に尋ねられながら、ことねは大学生活で使う荷物を、一つずつ仕分けていく。
「一人暮らし初めてだから、正直、何が必要かよく分かってない」
ことねはそう零しながら、教科書やノートを段ボールに詰めていった。
窓際には、朔からもらった観葉植物の鉢が、ちょこんと置かれている。
新しい部屋にも、この鉢だけは必ず持っていくつもりだった。
「これは絶対、割れないように、梱包しないと」
ことねはそう呟きながら、鉢の周りに緩衝材を丁寧に巻いていった。
窓の外を見ながら、ことねはふと、この一年を振り返った。
受験、合格発表、そして卒業。
あっという間だったようで、振り返れば一つ一つの出来事が、確かな重みを持って、思い出される。
(……次は、どんな一年になるんだろう)
新しい環境への不安と、期待が、ないまぜになりながら、ことねは荷造りの手を再び動かし始めた。
同じ頃、朔の部屋でも似たような光景が広がっていた。
「観葉植物、新しい部屋にも持っていくつもりです」
朔は母にそう伝えながら、鉢植えを丁寧に緩衝材で包んでいた。
「大事にしてるのね、それ」
「ことねさんへの贈り物と対の品を、自分用に買ったので」
朔がそう答えると、母は微笑ましそうに、息子の様子を見つめた。
「新生活、楽しみ?」
「……少し、緊張はしています。でもそれ以上に、新しい環境で何を学べるか、楽しみです」
朔がそう答えると、母は優しく頷いた。
入学手続きの書類、新生活の準備。
卒業の余韻に浸る間もなく、二人はそれぞれの形で、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
央とみおは放課後、いつもの図書室の窓際で、この一年を振り返っていた。
「振り返ると、色々ありましたね、まだ三月なのに」
みおがそう言いながら、窓の外を見た。
「はい。……学年末テストから始まって、バレンタイン、ことねちゃんたちの受験、俺の誕生日」
「ひなの誕生日も、ありました」
みおがそう付け加えると、央は小さく頷いた。
「本当に、あっという間でしたね」
「来年は、俺たちが三年生です」
央がそう言うと、みおは少し感慨深げに、頷いた。
「ことねさんたちを送り出した時、いつか自分たちの番が来るんだと、実感しました」
「その時までに色々、決めておきたいこともあります」
央がそう言うと、みおは興味深そうに、央の顔を見た。
「進路のことですか」
「はい。……まだはっきりとは決まっていませんが。焦らず、俺なりのペースで見つけていきたいと思っています」
央がそう答えると、みおは優しく微笑んだ。
「わたしも、一緒に考えます」
「ありがとうございます」
二人はそう言葉を交わしながら、窓の外に広がる春の気配を、静かに眺めていた。
「この図書室も、思えば、色んなことがありました」
みおがそう言いながら、窓際の席を懐かしそうに見つめた。
「はい。……みおと出会って、ここで、色々な時間を積み重ねてきました」
央がそう言うと、みおは少し照れくさそうに、微笑んだ。
「来年、後輩も入ってくる中で、俺たちも変わらず、この場所を大切にしていきたいです」
「はい。……わたしも、そう思います」
みおがそう答えると、央は静かに頷いた。
春休みの間、二人はこの一年のアルバムを、少しずつ整理していくことにした。
写真、メッセージのやり取り、ちょっとした出来事の記録。
一つ一つを見返しながら、二人はこれまでの積み重ねを、あらためて実感していった。
「この写真、覚えてます? 学年末テストの時の」
みおがそう言いながら、一枚の写真を指差した。
「ああ、あの日ですね。……あの頃は、まだ俺、進路のこと、全然考えられてませんでした」
「今は、少し前に進めましたか」
「はい。……焦らず、自分のペースで見つけていければと思っています」
央がそう答えると、みおは静かに頷いた。
太秦は春休みに入っても、変わらず父の自転車修理店を手伝っていた。
「今日も、頼むぞ」
「おう」
太秦はそう短く答えながら、工具箱をいつもの位置に運んだ。
この一年、店を手伝う中で、少しずつ芽生え始めた思いがある。
まだはっきりとした形にはなっていないが、この場所で働く未来を、以前より具体的に、想像できるようになっていた。
「……この店、俺が継ぐって選択肢も、悪くないなって、最近、思う」
太秦は作業の合間に、ふと、そう呟いた。
父はその言葉に、何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。
それでも、その頷きだけで、太秦には十分だった。
作業を終えた夕方、太秦は店の看板を、いつものように拭き上げていた。
この一年で、何度も繰り返してきた、当たり前の作業。
それでも今日は、その一つ一つの動きに、以前とは違う実感がこもっているような気がした。
「……来年、進路のこと、ちゃんと考えてみようかな」
太秦は、そう独り言ちながら、夕暮れの空を見上げた。
さやかは春休みの間、弟・海斗の高校入学準備を手伝っていた。
「制服のサイズ、これで合ってるかな」
「採寸通りだから、大丈夫でしょ」
さやかはそう答えながら、海斗の新しい制服を、丁寧に確認していく。
自分の受験期を思い出すような、慌ただしい春だった。
「姉ちゃんの制服、この高校のと似てるよな」
「まあ、同じ地区の学校だしね」
さやかがそう答えると、海斗は少し照れくさそうに笑った。
「姉ちゃんみたいな高校生活、送れるといいな」
「頑張りなさいよ、ちゃんと」
さやかはそう言いながら、弟の頭を軽く小突いた。
その仕草には、この一年で培われた、姉としての頼もしさが滲んでいた。
ひなは春休みを利用して、話題のカフェをいくつも巡っていた。
「今日も、良い写真撮れた」
ひなはそう呟きながら、非公開アカウントに、新しい一枚を追加した。
一年分の記録は、この春休みの間にも、着実に積み重なっていく。
カフェの店員が、注文の品を運んできた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
ひなはそう答えながら、運ばれてきたドリンクを、さっそく写真に収めた。
この積み重ねがいつか、何かの形になる日が来るのだろうか。
まだ答えは出ないままだったが、その問いを持ち続けることこそが、今のひなにとって大切な時間だった。
「来年は、写真部の部長、任されるかもしれないんだよね」
ひなはカフェの窓際で、そう呟きながら、写真を見返していた。
将来、この趣味をどこまで本気で続けていくか。
まだはっきりとした答えは出ていなかったが、その問いは確かに、ひなの中に根を張り始めていた。
カフェを出たところで、ひなは偶然、さやかと鉢合わせした。
「あれ、ひな。こんなところで」
「さやかこそ。海斗くんの制服選びは?」
「ちょうど今、終わったとこ」
二人はそう言葉を交わしながら、せっかくだからと、近くのベンチに並んで座った。
「今年も、色々あったね」
さやかがそう言いながら、空を見上げた。
「うん。……来年はうちらも、受験とかする立場になるんだよね」
ひながそう答えると、さやかは少し感慨深げに頷いた。
「みおとも、また三人で、どこか行きたいね」
「賛成。……春休みのうちに、予定、合わせよっか」
二人はそう言い合いながら、次の約束を、スマホに書き込んでいった。
慧とほのかは、図書委員としての最後の作業日、閉室後の図書室で、この一年を振り返っていた。
「一年、あっという間だったな」
「うん。……色々あった」
ほのかがそう言いながら、窓の外を見た。
図書室のカウンターでは、宇陀が最後の返却本を、静かに棚へ戻していた。
「二人とも、一年間、お疲れ様でした」
宇陀がそう声をかけると、慧とほのかは、揃って頭を下げた。
「来週から、俺たち二年生か」
「なんか、実感湧かないよね」
ほのかがそう答えると、慧は少し考え込んだ。
「後輩、できるんだよな。俺たちにも」
「けいくんが先輩って呼ばれるの、想像つかない」
ほのかがそう言って、くすりと笑った。
「それ、俺も思う」
慧がそう答えながら、頭を掻いた。
二人はそれから、しばらくたわいのない話を続けた。
この一年で積み重ねてきた距離感が、二人の間に、確かな温度を持ち始めていた。
「二年生になったら、うちら、もっと色々変わるのかな」
ほのかがふと、そう漏らした。
「……変わってほしいこと、あるのか」
慧がそう尋ねると、ほのかは、少しだけ考え込んだ。
「……ないこともない、かも」
「……それ、どういう意味」
慧がそう聞き返すと、ほのかははぐらかすように笑った。
「さあ、なんだろうね」
ほのかはそう言いながら、鞄を持って席を立った。
慧はその背中を見つめながら、いつか、この曖昧な関係にはっきりとした答えが出る日が来るのだろうかと、ふと思った。
その日の夕方、央の家のリビングに、みおが遊びに来ていた。
祖父もいつものように、新聞を片手に二人の様子を、静かに見守っている。
「ことねちゃん、朔さんも無事、新生活の準備、進んでるみたいです」
央がそう報告すると、祖父は嬉しそうに目を細めた。
「そうか。……あの子も、いよいよ旅立ちか」
「はい。……でも、ちょいちょい戻ってくるとは言ってましたけど」
央がそう付け加えると、祖父は小さく笑った。
「気の早い話だが、次に帰ってきた時のために、何か御馳走でも、考えておくか」
祖父がそう言いながら、楽しそうに腕を組んだ。
その様子を見ていたみおが、微笑ましそうに小さく笑った。
「央さんのお祖父様、本当に優しい方ですね」
「はい。……俺にとっても、みおにとっても、大切な存在です」
央がそう言うと、みおはさっと頬を朱に染めた。
窓の外には、桜の蕾が、少しずつ膨らみ始めている。
「あと一年ちょっとで、わたしたちも、先輩たちみたいになるんですね」
みおが、ふとそう漏らした。
「はい。……その時までに、胸を張れる自分たちで、いられるように」
央がそう答えると、みおは静かに頷いた。
「一年前は、想像もしていませんでした。今こうして、央さんと一緒にいる未来を」
みおがそう続けると、央は少し照れくさそうに笑った。
「俺も同じです。……この一年で、色んなことが、変わりました」
二人はそう言葉を交わしながら、これからの一年に、静かに思いを馳せていた。
みおはふと、鞄の中から小さな手帳を取り出した。
「これ、来年度用の新しい手帳です。……央さんとの予定も、ちゃんと書き込んでいこうと思って」
「……準備、早いですね」
央がそう言うと、みおは少し得意げに笑った。
「大事なことは、早めに準備しておきたい性分なので」
その言葉に、央はあらためて、みおらしさを感じながら、小さく笑った。
春休みは、まだ始まったばかりだった。
それぞれの場所で、それぞれの春を迎えながら、九人は、また新しい一年へと、歩みを進めていく。
桜が咲く頃には、この物語も、また少しだけ、違う景色を見せているかもしれない。
それでも、積み重ねてきた日々は、確かにこれからも続いていく。
ご一読いただきありがとうございます。
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