第百二十話 3月6日 画面の向こうの、結果
三月六日、金曜日。
ことねと朔、それぞれの志望校の合格発表日。
発表は午前十時、インターネット上で行われる予定だった。
朝、ことねの部屋には、いつもより早く目が覚めたことねが、時計とスマホを交互に見つめながら座っていた。
「……まだ、九時か」
あと一時間。
その一時間が、これまでのどの一時間よりも、長く感じられた。
机の上には、二次試験の時に使ったお守りがそのまま置かれている。
ことねはそれを手に取り、指先でそっとなぞった。
(……あの時も、これのおかげで、なんとか乗り切れた気がする)
みおが折ってくれた、末広の形。
七人からの、たくさんの励ましの言葉。
あの日々を思い出すと、少しだけ、心が落ち着いていく。
母が、部屋のドアを軽くノックする。
「ことね、朝ごはんできてるよ」
「……ごめん、今、食欲ない」
ことねがそう答えると、母は無理に呼びに来ることはせず、静かにドアを閉めた。
その気遣いが、今のことねにはありがたかった。
部屋に一人残されたことねは、深呼吸を何度も繰り返した。
スマホの時計と、パソコンの画面を交互に見ながら、残りの時間を、じっとやり過ごしていく。
同じ頃、朔は自室の机に向かい、いつも通り本を開いていた。
文字を目で追ってはいるが、内容はほとんど頭に入ってこない。
机の端には、七人からもらったメッセージカードの束が、丁寧に重ねて置かれている。
朔は時折、本から目を離しては、そのカードの束を見つめていた。
(……皆に、良い報告ができるといいけれど)
「……緊張してる?」
部屋を覗いた母が、そう尋ねる。
「はい。……正直、本を読むふりをしているだけです」
朔がそう答えると、母は小さく笑った。
「朔らしいね、それも」
母はそう言って、湯呑みを机の端にそっと置いた。
温かいお茶の湯気が、静かに部屋の空気に溶けていく。
「無理に気を紛らわそうとしなくていいから。……朔らしく、待てばいいよ」
「……はい。ありがとうございます」
朔はそう答えながら、本のページを、まためくり直した。
それでも内容は、やはり頭に入ってこないままだった。
午前九時五十五分。
ことねはパソコンの前に座り、大学のウェブサイトを既に開いていた。
カーソルは、受験番号入力欄の上で止まったままだった。
(……あと五分)
残り時間を示す数字が、一分ごとに、減っていく。
ことねはその数字を見つめながら、これまでの日々を、頭の中で順に思い返していた。
毎日の自習室通い。
朔との作戦会議。
共通テストの朝、二次試験の朝。
どの記憶も、今この瞬間のために、積み重なってきたものだった。
時計の針が、十時を指す。
ことねは震える指で、受験番号を入力し、検索ボタンに、カーソルを合わせた。
「……いくよ」
誰にともなく、そう呟いてから、ことねはクリックした。
画面が切り替わる。
合格者番号の一覧が、ずらりと表示される。
自分の番号を、目で追う。
一度目は見落とした気がして、もう一度、上から順に確かめる。
そして、見つけた。
「……あった」
その瞬間、ことねの口から、思わず大きな声が漏れた。
「受かった! うそ、受かった!」
部屋の外にまで響く声に、母が慌ててドアを開けた。
「ことね、どうしたの」
「受かった! あたし、受かった!」
ことねは椅子から立ち上がり、母に画面を見せた。
母はその画面を見て、目を潤ませながら、ことねを強く抱きしめた。
「良かったね、本当に。……よく頑張った」
「……うん」
ことねは母の胸の中で、これまでの緊張が一気に緩んでいくのを感じた。
子供の頃から色々なことに興味を持っては、飽きっぽく手放してきた自分にとって、大学受験は、初めて最後まで走り抜いた大きな挑戦だった。
将来、子供に関わる仕事がしたいという夢も、この一年でより具体的な輪郭を持つようになっていた。
しばらくして、少し落ち着きを取り戻したことねは、スマホを手に取った。
真っ先に頭に浮かんだのは、朔のことだった。
(……朔くんも、今頃、確認してるはず)
メッセージを送ろうか迷ったが、その前に朔の方から連絡が来ることを、なんとなく確信していた。
同じ時刻、朔も自室で、パソコンの画面を見つめていた。
受験番号を入力する指先は、いつもより、わずかに速い動きをしていた。
落ち着いているように見えて、その速さの中に隠しきれない緊張が滲んでいる。
検索結果が、画面に表示される。
朔は、一行ずつ丁寧に、自分の番号を探した。
スクロールする指の速度が、次第に遅くなっていく。
番号の桁を、一つずつ、確かめるように追っていく手つきは、いつもの落ち着きとは少し違っていた。
そして、見つけた。
朔はしばらく、その番号をじっと見つめたまま、動かなかった。
表情には、大きな変化はない。
それでも、握りしめた拳が、かすかに震えていた。
「……受かった」
朔は小さく、そう呟いた。
部屋の外で待っていた母が、その声に気づいて、静かにドアを開けた。
「……朔?」
「受かりました。……第一志望、通りました」
朔がそう報告すると、母は静かに、けれど確かに、微笑んだ。
「おめでとう。……よく頑張ったね」
「はい。……ありがとうございます」
朔はそう答えながら、ようやく肩の力を抜いた。
母が部屋を出た後、朔はしばらく一人で、画面を見つめ続けていた。
(……これで、やっと、一歩進める)
将来、静かで落ち着いた空間を設計する仕事に就きたいという、漠然とした思いがこの一年で、少しずつ形を持ち始めていた。
今日の結果は、その思いに向かう確かな一歩だった。
朔は、机の上の観葉植物の葉をそっと撫でながら、静かに深呼吸をした。
結果を確認してから数分後、ことねのスマホが鳴った。
画面には、朔の名前が表示されている。
「もしもし」
「……合格しました。……よかった」
電話の向こうの朔の声は、いつもより、少しだけ震えていた。
「あたしも! 朔くん、おめでとう!」
ことねがそう叫ぶと、電話越しに、朔の小さな笑い声が聞こえた。
「ことねさんも、おめでとうございます」
「二人とも、ちゃんと結果出せたね。……ほんと、良かった」
ことねはそう言いながら、椅子に座り込んで、大きく息を吐いた。
「正直、発表の直前まで、ずっと落ち着かなかったです」
「うちも。……手震えすぎて、番号打つのに何回もミスった」
「ことねさんでも、そんな風になるんですね」
「当たり前でしょ。……朔くんだって、指の動き、いつもより速かったんじゃない?」
「……よく分かりましたね」
「そりゃ、これだけ長く一緒にいれば」
ことねがそう言うと、朔は少し照れくさそうに、黙り込んだ。
「これで、ようやく、次の一歩に進めますね」
「うん。……大学生活、二人とも、頑張ろうね」
「はい。……これからも、よろしくお願いします」
朔がそう言うと、ことねは電話越しに、小さく笑い声を漏らした。
「……あの約束、覚えてますか」
朔が、ふと、そう切り出した。
「約束?」
「クリスマスイブに、あのカフェで。……二人とも、志望校に受かったら、また来年ここに来ましょうって」
朔がそう言葉を継ぐと、ことねはその日のことを、鮮明に思い出していた。
あの夜の空気と、二人で交わした約束の言葉が、今ようやく、現実になろうとしていた。
その言葉に、ことねは思わず、笑みをこぼした。
「覚えてる。……忘れるわけないでしょ」
「では近いうちに、行きましょう。……今度は、受験の心配なしで」
「うん。……楽しみにしとく」
「春休みになったら、日程、合わせましょう」
「そうだね。……央たちも、誘ってみる?」
「いいですね。皆で行けたら、それはそれで、楽しそうです」
朔がそう言うと、ことねは少し考えるように、間を置いてから、答えた。
「……でも、最初は、二人だけで行きたいかも。あの約束、二人で交わしたものだから」
「……分かりました。それも、良いと思います」
朔がそう応じると、電話越しに、二人はしばらく、穏やかな沈黙を共有していた。
その日の午後、央のスマホに、ことねからのLINEが届いた。
ちょうど央は、リビングでみおと一緒に、宿題を片付けていたところだった。
「……あ、ことねちゃんから」
央がそう言って、画面を確認する。
その表情が、すぐに明るくなった。
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ことね:報告! 朔くんと二人とも、無事、合格しました!
ことね:応援してくれて、本当にありがとう
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「良かったですね、二人とも」
みおも画面を覗き込みながら、そう言って微笑んだ。
「はい。……こうして、無事に結果が出て、本当に安心しました」
央がそう言うと、みおは深く頷いた。
「あの時渡したお守り、ちゃんと役に立ったみたいで、良かったです」
「ええ。……ことねちゃんの、あの声を上げて喜ぶところ、想像つきます」
央がそう応え、みおはくすりと笑った。
「朔さんは、逆に、静かに喜んでそうですね」
「ええ。……手紙で報告してきそうな雰囲気、ありますよね」
二人は、そんな他愛のない会話を交わしながら、返信を打ち込んだ。
窓の外では、近所の子供たちの遊ぶ声が、遠く聞こえていた。
三月の陽射しは、まだ少し弱いながらも、確かに春に向けて、暖かさを増し始めていた。
そのメッセージに、グループLINEは、瞬く間に賑やかになった。
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央 :おめでとうございます。自分のことのように嬉しいです
みお :おめでとうございます。お守り、少しでも力になれていたら嬉しいです
太秦 :やったな! 今度祝杯あげような
さやか:おめでとう! 本当に良かった
ひな :おめでとうございます! これは記念に写真撮らないと
慧 :先輩たち、おめでとうございます!
ほのか:おめでとうございます! 嬉しいです
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メッセージを送ったあと、さやかは少し感慨深げに、スマホの画面を見つめていた。
自分の弟の合格発表を見守った日から、まだそう時間は経っていない。
あの時の安堵と、今日のことねたちへの祝福が、さやかの中で重なって感じられた。
(……この一年、色んな人の頑張りを、近くで見てきたな)
さやかはそんなことを思いながら、返信欄に、もう一言付け加えた。
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さやか:二人の頑張り、ずっと近くで見てたから、こっちまで嬉しい
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「みんな、こんなに喜んでくれるんだ」
ことねは、次々と届くメッセージを、一つ一つ丁寧に読み返しながら、そう呟いた。
画面の向こうにいる、大切な人たちの言葉が、これまでの努力の全てを、静かに、あたたかく、肯定してくれているようだった。
夕方、央の家では、祖父がリビングで、その報告を聞いていた。
「ことねが無事、大学、決まったのか」
「はい。第一志望だったところに、合格したそうです」
央がそう伝えると、祖父は目を細めて、嬉しそうに頷いた。
「そうか。……あの子も、小さい頃から、頑張り屋だったからな」
祖父はそう言いながら、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。
ことねがまだ小さかった頃、この家に遊びに来ては、央と一緒に庭で遊んでいた記憶が、祖父の中には今も鮮明に残っている。
「今度、お祝いでも、してやらないとな」
「はい。……ことねちゃんも、喜ぶと思います」
央はそう答えながら、家族に近い存在として、ことねのことを心から喜んでいる祖父の姿に、あたたかい気持ちになった。
「みおちゃんも、ことねの合格、聞いたのか」
祖父がそう尋ねると、みおは小さく頷いた。
「はい。……お守りを作らせてもらったので、余計に、嬉しいです」
「そうか。……ありがとうな、色々と」
祖父はそう言って、みおに深く頭を下げた。
その様子に、みおは少し慌てながらも、嬉しそうに首を振った。
「いえ、そんな。……わたしの方こそ、ことねさんたちのおかげで、色々学ばせてもらいました」
みおがそう言うと、祖父は満足げに、目を細めた。
窓の外では、三月の柔らかな光が、静かに部屋を満たしていた。
長かった受験という季節が、ようやく、一つの終わりを迎えようとしていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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