第百十七話 2月25日 二日間より、静かな一日
二月二十五日、水曜日。
ことねと朔、それぞれの二次試験当日。
朝六時、ことねの家のキッチンには、いつもより早く、灯りがついていた。
「ことね、お弁当、包んだよ。……あと、これ」
母が、小さな紙袋を、ことねの手に握らせる。
中には、勝つ、にちなんだカツサンドと、温かいお茶のペットボトルが入っていた。
「……ありがと」
ことねは、そう言いながら、鞄のポケットに、みおから受け取った折り紙のお守りを、そっと忍ばせる。
いつもより口数の少ない娘の様子に、母は、それ以上、何も言わずに、ただ、玄関先で、そっと背中を押した。
「行ってらっしゃい。……いつも通りで、大丈夫だから」
「うん。……行ってきます」
ことねは、いつもより一拍長く、靴紐を結び直してから、家を出た。
駅までの道を歩きながら、ことねは、何度も、深呼吸を繰り返していた。
共通テストの朝も、こんな風に緊張していただろうか。
思い出そうとしても、あの日の記憶は、今よりずっと、漠然としている気がした。
(……あの時より、今日の方が、なんか、緊張してる)
二次試験は、共通テストと違って、面接や小論文など、自分の言葉が、より直接に問われる試験だった。
それだけに、緊張の質も、少し違っている。
駅のホームで電車を待ちながら、ことねは、鞄の中のお守りに、そっと手を添えた。
スマホが、小さく震える。
近所に住む祖母からの、短いメッセージだった。
───────────────────────
祖母:ことね、今日やろ。落ち着いていってきいや
───────────────────────
ことねは、その短い一言に、思わず、頬を緩めた。
週末になると、必ず様子を見に来てくれる祖母は、こういう時も、変わらず、さりげなく気にかけてくれる人だった。
「……ありがと、おばあちゃん」
ことねは、小さくそう呟いてから、スマホをしまった。
電車が、ホームに滑り込んでくる。
ことねは、大きく息を吸って、乗り込んだ。
同じ頃、朔の家でも、静かな朝が始まっていた。
「……忘れ物、ない?」
「大丈夫です」
朔は、母の問いに、いつも通りの落ち着いた声で答えながら、鞄の中身を、もう一度、確認していた。
筆記用具、受験票、腕時計。
一つ一つを確かめる手つきは、丁寧だったが、よく見ると、指先が、わずかに震えていた。
「……緊張してる?」
「……少しは、していると思います」
朔は、そう認めながら、小さく息を吐いた。
表情には、ほとんど変化がない。
それでも、母は、その微妙な変化を、見逃さなかった。
「朔らしく、静かに、いつも通りやればいい。それで十分だから」
母は、そう言って、朔の腕を、軽く、ぽんと叩いた。
派手な励ましではない。
それでも、その一言と仕草だけで、朔には、十分すぎるほどだった。
「……はい」
朔は、玄関で靴を履きながら、鞄の中の、後輩たちから受け取ったメッセージカードの束に、そっと触れた。
その感触だけで、少しだけ、指先の震えが、和らいだ気がした。
家を出て、駅へと向かう道すがら、朔は、頭の中で、これまでの勉強の積み重ねを、順に思い返していた。
図書室での自習、ことねとの作戦会議、そして、先日の、七人からの応援。
(……ここまで来たら、あとは、やるだけだ)
朔は、そう自分に言い聞かせながら、歩調を、いつもより、少しだけ速めた。
その頃、央たちの学校でも、いつも通りの一日が始まっていた。
「今日、ことね先輩と朔先輩の、二次試験の日ですよね」
ほのかが、教室の窓際で、そう呟く。
「ええ。……あんまり連絡すると、逆に気が散るかもしれないから、今日は、そっとしておこうって話になっています」
央が、そう答えると、みおも、静かに頷いた。
「共通テストの日と、同じですね」
「うん。……あの時も、こうやって、いつも通り過ごしてたっけ」
太秦が、そう言いながら、廊下の窓の外を、ちらりと見やる。
「ひなっち、今日、大丈夫? なんか、朝から落ち着かない感じだけど」
さやかが、そう尋ねると、ひなは、少し気まずそうに、視線を逸らした。
「……別に。ただ、なんとなく、写真部の活動より、気が散っちゃって」
「素直に『心配してる』って言えばいいのに」
さやかが、そう茶化すと、ひなは、むっとした顔をしながらも、それ以上、反論はしなかった。
誰も、直接的な連絡はしなかった。
それでも、教室のどこかで、七人それぞれが、心の中で、二人のことを気にかけていた。
昼休み、さやかが、ふと、スマホの画面を見つめながら、呟いた。
「……今頃、試験、始まってる時間よね」
「うん。……頑張ってるといいけど」
ひなが、そう返すと、さやかは、小さく頷いて、それ以上、何も言わなかった。
放課後、さやかのスマホに、家族からのLINEが届いた。
弟・海斗の、高校入試の結果通知だった。
メッセージを開く指が、一瞬、止まる。
「……あ」
みおが、その様子に気づいて、そっと顔を覗き込んだ。
「……どうでした?」
「……受かってた。海斗、合格」
さやかは、そう言うと、安堵からか、その場に、少し力なく座り込んだ。
「よかったです、本当に」
みおが、そう言って、さやかの背中に、そっと手を添える。
「今日、ことねたちも試験の日だったから、なんか、うちの中で、二重に緊張してた」
さやかは、そう言って、少し照れくさそうに笑った。
「弟くんの結果も、ことねさんたちの結果も、いい報告が続くといいですね」
みおが、そう言うと、さやかは、力強く頷いた。
その日の帰り道、さやかは、久しぶりに、肩の力が抜けたような足取りで、家路についた。
これで、少なくとも、家族の中の一つの緊張は、無事に終わった。
あとは、ことねと朔の結果を、静かに待つだけだった。
放課後、慧とほのかも、図書委員の作業をしながら、二人のことを話題にしていた。
「先輩たち、今頃、面接とかやってるのかな」
「……緊張するだろうな、絶対」
慧が、そう言いながら、返却された本を、棚に戻す手を止めた。
「うちらも、二年後には、あんな感じになるんだよね」
「……想像つかないな、まだ」
慧が、そう答えると、ほのかは、小さく笑いながら、作業を再開した。
「でも、今日みたいに、誰かのこと本気で応援できる関係って、いいよね」
「……うん。俺らも、そうありたいよな」
慧が、そう言うと、ほのかは、少しだけ、意外そうな顔をしてから、小さく頷いた。
試験会場では、ことねは、開始前から、ずっと、貧乏ゆすりが止まらなかった。
(……落ち着け、あたし。落ち着け)
鞄の中のお守りを、そっと握りしめる。
末広の形をした、小さな折り紙の感触が、指先に伝わってくる。
それだけで、少しだけ、呼吸が整った気がした。
周りの受験生たちも、それぞれの緊張を、それぞれのやり方で抑え込んでいるのが分かる。
参考書を最後まで確認している者、目を閉じて何かを唱えている者、ひたすら貧乏ゆすりを続けている者。
ことねは、そんな中で、ふと、七人からのメッセージカードの言葉を、一つずつ、頭の中で思い出していた。
(太秦の「今まで積み重ねてきたもんは裏切らない」……。さやかの「あとは、実力出すだけ」……)
どの言葉も、飾らない、素朴なものだった。
それでも、今のことねにとっては、その素朴さこそが、一番の支えになっていた。
試験官の「始め」の合図とともに、ことねは、問題用紙をめくった。
緊張は、まだ消えない。
それでも、ペンを持つ手だけは、不思議と、しっかりと動いていた。
小論文の課題に目を通した瞬間、ことねは、一瞬、頭が真っ白になりかけた。
それでも、深呼吸を一つしてから、これまで積み重ねてきた練習を、丁寧に思い出す。
(……大丈夫。今まで、ちゃんとやってきた)
その一念だけを支えに、ことねは、ペンを走らせ始めた。
別の会場では、朔が、いつも通りの静かな表情で、机に向かっていた。
傍から見れば、落ち着いているように見える。
それでも、シャープペンシルを持つ指先は、開始の合図の直前まで、かすかに震え続けていた。
(……勢多くんに、格好悪いところ、見せられないな)
脈絡のない考えが、ふと、頭をよぎる。
それでも、そのおかげで、少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
面接形式の試験では、これまで積み重ねてきた、植物や古典文学への興味を、自分の言葉で語る場面があった。
朔は、緊張しながらも、練習してきた通り、落ち着いた口調で、自分の考えを述べていく。
(……ことねさんなら、こういう時、もっと堂々と話すんだろうな)
そんなことを思いながらも、朔は、自分らしい静かな語り口を、最後まで崩さなかった。
朔は、深呼吸を一つしてから、静かに、問題用紙をめくった。
試験が終わった夕方、ことねのスマホに、朔から電話がかかってきた。
「……終わった」
ことねの第一声は、それだけだった。
いつもの快活さの中に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
「……お疲れさまでした。僕も、たった今、終わりました」
電話の向こうの朔の声も、共通テストの日よりも、ずっと、肩の力が抜けたものだった。
「手応え、どうでした?」
「……分かりません。ただ、後悔するようなミスは、なかったと思います」
「あたしも、同じ。……なんか、共通テストの時より、開き直れた気がする」
ことねは、そう言いながら、自室のベッドに、力なく倒れ込んだ。
「二人で作戦会議した甲斐、あったってことにしとこ」
「……そうですね。カフェで話した、あの時間も」
朔が、そう言うと、電話越しに、二人は、どちらからともなく、小さく笑った。
「……ねえ、朔くん。終わったら、打ち上げ、約束してたよね」
「はい。……ただ、今日のところは、正直、動く気力がありません」
「それは、あたしも同じ」
ことねが、そう言って、ベッドの上で、力なく笑った。
「打ち上げは、結果が出てからの、お楽しみってことで」
「……賛成です」
朔が、そう言うと、電話越しに、しばらく、心地よい沈黙が流れた。
二人とも、多くを語らなくても、今この瞬間の疲労と安堵を、共有できているのが分かった。
「あとは、結果を待つだけです」
朔が、そう言うと、ことねは、天井を見上げたまま、目を閉じた。
「うん。……とりあえず、寝よう」
その一言には、二日間、いや、この数か月分の緊張が、ようやく解けていくような、深い疲労と、静かな安堵が、こもっていた。
電話を切ったあと、ことねは、鞄からお守りを取り出して、枕元にそっと置いた。
末広の形をした、小さな折り紙が、窓から差し込む夕方の光を、静かに受けていた。
同じ頃、央の家では、央とみおが、リビングで、静かに時間を過ごしていた。
「……そろそろ、終わった頃でしょうか」
みおが、時計を見ながら、そう呟く。
「はい。……あまり詮索しない方がいいと思って、あえて連絡はしてないですけど」
「わたしも、同じです。……でも、気になりますね、やっぱり」
みおが、そう言って、少し落ち着かない様子で、湯呑みを両手で包んだ。
しばらくして、央のスマホが、小さく震えた。
グループLINEに、ことねからの短いメッセージが届いていた。
───────────────────────
ことね:終わったよ、二次試験
ことね:手応えは五分五分だけど、やれることはやった
ことね:みんな、応援ありがとう。お守り、めちゃくちゃ支えになった
───────────────────────
「……終わったみたいです」
央が、そう言って、画面をみおに見せる。
みおは、それを見て、ほっとしたように、小さく息をついた。
「よかった。……とりあえず、無事に終わって」
「はい。……あとは、結果を待つだけですね」
央が、そう言うと、みおは、静かに頷いた。
「今日一日、みんな、それぞれの形で、二人のことを気にかけてましたね」
「はい。……直接何かをしたわけじゃないですけど、それでも、伝わるものはあると思います」
「わたしたちにできることは、もう、ここまでですね」
「うん。……あとは、二人を信じて、待ちましょう」
央は、そう言いながら、今日一日のことを、振り返っていた。
ことねと朔の緊張、さやかの弟の合格、そして、それぞれの場所で積み重ねられてきた、静かな支え。
どれも、直接、劇的な形では見えない。
それでも、確かに、みんなが、それぞれの形で、今日という日を、支え合っていた。
窓の外では、二月の夕暮れが、静かに、夜へと変わろうとしていた。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




