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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第百十五話 2月18日 いつもの帰り道が、少し長い


 二月十八日、水曜日。

 バレンタインから、四日が経っていた。


 図書委員の当番活動は、テスト期間が明けて、いつもの日常のリズムを取り戻していた。

 返却された本を棚に戻し、貸出カードを整理し、閉室時間になれば、電気を落として鍵を閉める。

 その一連の流れの中に、(けい)とほのかも、当たり前のように加わっていた。


「今日、返却多かったね」


「テスト明けあるある。……みんな、我慢してたんだろうな」


 慧は、返却された本を、ジャンル別に手早く仕分けながら、そう答えた。

 この一年で、本の分類も、すっかり体に染み付いている。


 窓の外では、まだ二月の寒さが居座っていたが、日が沈むまでの時間は、少しずつ、伸び始めていた。

 春は、まだ遠いようで、確実に近づいてきている。


 カウンターの向こうから、宇陀が、二人のやり取りに、ちらりと目をやった。


「一年生のお二方も、板についてきましたね。……この時期の図書室の忙しさにも、もう驚かなくなった」


「先輩たちが厳しく仕込んでくれたので」


 慧が、そう言って、肩をすくめる。


「厳しくした覚えはありませんけどね」


 宇陀は、そう言って、静かに笑うと、カウンターの奥へと戻っていった。


 いつも通りの会話。

 いつも通りの空気。

 それでも、この四日間、慧とほのかの間には、どこか、微妙な間があった。


 バレンタインの日、ほのかは、「変に意識しないでね」と続けるはずだった言葉を、最後まで言えなかった。

 慧は、あの日以来、その続きが何だったのか、ずっと考え続けていた。


 図書室の作業を終えたみおと、それを待っていたさやかが、先に帰り支度を済ませていた。


「じゃ、うちらは先に出るから」


 さやかが、そう言って、みおと目を合わせる。

 みおも、小さく頷いて、鞄を肩にかけた。


「慧くん、ほのかさん、戸締り、お願いします」


「……あ、はい」


 ほのかが、そう答えると、さやかとみおは、そのまま、足早に図書室を出ていった。


 二人がいなくなった図書室の扉の向こうで、さやかが、みおに、小さく耳打ちする。


「あの二人、最近、ちょっと空気変わったよね」


「……そうですね。バレンタインの日から、少し」


「そろそろ、かもね」


 さやかは、そう言って、悪戯っぽく笑った。


「……見守るだけにしときましょう。急かしたら、ダメな気がします」


「分かってる分かってる。うちだって、そうやって見守ってきた口だし」


 さやかは、そう言いながら、少し懐かしそうに、廊下の窓の外へ目をやった。


「一年の頃の私たち、周りにどう見えてたんだろうね」


「……たぶん、今のあの二人と、そう変わらなかったと思います」


 みおが、そう言って、小さく笑う。


「だとしたら、責任重大じゃん、うちら」


 さやかが、そう茶化すように言うと、みおも、つられて、小さく吹き出した。


 二人は、それ以上何も言わず、夕暮れの廊下を、並んで歩いていった。



 図書室に残された慧とほのかは、戸締りの確認を、いつもより時間をかけて済ませていた。

 窓の鍵、カーテンの位置、電気のスイッチ。

 一つ一つの確認が、いつもより、やけに丁寧だった。


 昇降口を出て、いつもの帰り道を、二人で歩き始める。

 二月の夕方は、まだ肌寒く、街灯の明かりが、少しずつ点り始めていた。


 しばらく、どちらも、何も話さなかった。

 その沈黙が、気まずいものなのか、そうでないのか、ほのか自身にも、よく分からなかった。


 通り沿いの自動販売機の前で、慧が、ふと足を止めた。


「……なんか飲む?」


「……うん、あったかいやつ」


 慧が、硬貨を入れて、缶を二つ取り出す。

 いつもなら、何でもない仕草のはずなのに、今日は、その缶を受け渡す一瞬にすら、少しだけ、ぎこちなさがあった。


「……ありがと」


「……おう」


 ほのかは、受け取った缶の温かさを、両手で包み込むようにしながら、また、歩き出した。

 缶の中身は、いつも通りのミルクティーだった。

 それでも、今日は、その温かさが、いつもより、少しだけ、身に染みる気がした。


「……あのさ」


 交差点を一つ過ぎたところで、ほのかが、ようやく、口を開いた。


「この前のバレンタイン、……変なこと言っちゃった」


 慧が、隣で、少しだけ、足を止めかける。


「変じゃなかったよ」


 その言葉は、ほのかが最後まで言い終わる前に、ほとんど反射的に、慧の口から飛び出していた。


 言った本人が、一番驚いていた。


「……え、なんで、そんな即答」


「……いや、俺も、分かんない」


 慧は、頭を掻きながら、そう答える。

 自分でも、なぜあんなに早く言葉が出たのか、うまく説明できなかった。


 二人は、また、しばらく黙って歩いた。

 けれど、さっきまでの沈黙とは、少しだけ、質の違う沈黙だった。


 気まずいような、でも、悪くないような。

 そんな、名前のつけようのない空気が、二人の間に流れていた。


「……あの日、包み、渡した後、けいくん、めちゃくちゃ黙ってたよね」


 ほのかが、ふと、そう切り出した。


「……悪かったよ、それは。何て言えばいいか、分かんなくなって」


「うちも、同じだったから。……お互い様」


 ほのかは、そう言って、小さく笑った。

 その笑い方は、いつもの軽口混じりの笑い方とは、少しだけ違って見えた。


「……けいくんとこういう空気になるの、初めてかも」


 ほのかが、ぽつりと、そう漏らした。

 「けいくん」という呼び方は、ほのかが、幼稚園の頃からずっと使ってきた呼び名だった。


「……俺も」


 慧が、そう答えた声は、いつもの軽口とは、どこか違う響きを持っていた。


 その一言だけで、十分だった。

 それ以上、どちらも、言葉を継がなかった。



 二人が小学校からの幼馴染だということは、周囲の誰もが知っている、ごく当たり前の事実だった。

 けれど、その「当たり前」の中身を、二人自身が、これまできちんと見つめ直したことは、なかったのかもしれない。


「……ねえ、覚えてる? 小三の時、あたしが引っ越すかもって噂になった時のこと」


 ほのかが、ふと、そんな昔話を切り出した。


「……ああ、あれ。俺、結構驚いた記憶ある」


「けいくん、あの時、『引っ越しても、ほのかって呼ぶから』って、真顔で言ったんだよ。覚えてる?」


「……覚えてない、それは、さすがに」


 慧が、少し気まずそうに、そう答える。


「うちは、覚えてる。……あの時、けいくん、公園の入り口んとこで、すごい真剣な顔して、そう言ったの。子供だったから、正直、意味もあんまり分かってなかったけど。……でも、なんか、ずっと頭に残ってた」


 ほのかは、そう言いながら、当時の記憶をたどるように、少し遠い目をした。


「結局、引っ越しの話、立ち消えになったんだよね。父さんの転勤、なくなって」


「うん。……あの時、正直、ほっとした」


「けいくんが?」


「……うん。今だから言うけど、結構、本気で焦ってた」


 慧が、そう言って、少し照れくさそうに、視線を逸らした。


「……あと、これも、今だから言うけどさ」


「……何?」


「小一の時から、『ほのか』って呼び捨てにしてたの、実は結構、勇気いったんだよ、あれ」


「……え、そうなの?」


 ほのかが、少し驚いたように、慧の顔を見た。


「みんな、『乙訓さん』とか、苗字で呼んでた時期に、俺だけ、下の名前で呼んでて。……子供心に、なんか、周りと違うことしてる自覚は、あった」


「……知らなかった、それ」


「言う機会、なかったし」


 慧は、そう言って、缶のミルクティーを、一口飲んだ。


 それでも、あの日交わした、幼い約束めいた言葉だけは、ほのかの中で、ずっと残り続けていた。


「……そういうの、今更言われると、なんか、照れるんだけど」


 慧がそう言われて、頬を掻く。


「今更だから、言えることもあるでしょ」


 慧がそう返すと、ほのかはそれ以上、何も言い返せなかった。



 いつもの分かれ道に、二人はいつの間にか、たどり着いていた。


「……じゃ、また明日」


「……うん。また明日」


 いつもと同じ挨拶のはずなのに、今日は、その一言に、いつもより、少しだけ時間がかかった。


 ほのかは、自分の家へと続く道を歩きながら、何度も、今日のやり取りを、頭の中で反芻していた。


(……変な空気だった。……けど、嫌じゃ、なかった)


 家に着いて、自分の部屋のベッドに寝転がってからも、ほのかは、しばらく、天井を見つめたまま、動けずにいた。


(けいくん、小一の時から、ずっと、そんなこと思ってたんだ)


 当たり前だと思っていた「ほのか」という呼び方に、そんな小さな勇気が隠れていたことを、今日、初めて知った。

 それを知っただけで、これまで何気なく聞いていたその呼び名が、急に、特別なものに思えてくる。



 慧もまた、反対方向の道を歩きながら、同じように、今日という日のことを、繰り返し思い返していた。


 自分の部屋に戻ってから、慧は、ベッドに仰向けになって、天井を見上げていた。


(……なんで、あんなこと、今更言ったんだろ)


 言うつもりのなかった昔の話まで、口が滑るように出てきてしまった。

 それでも、後悔はしていない自分に、慧は、少しだけ、戸惑っていた。


 幼馴染という言葉だけでは、もう説明のつかない何かが、二人の間に、静かに生まれ始めていた。

 それが何なのか、まだ、どちらも、はっきりと名付けられない。


 それでも、この「少し長い帰り道」を、二人は、しばらく忘れないだろうと思った。


 いつか、この日のことを、笑って話せる日が来るのだろうか。

 それとも、この曖昧さのまま、少しずつ、何かが形を変えていくのだろうか。

 答えは、まだ、どちらにも見えていなかった。



 翌日、教室で顔を合わせた二人は、いつも通りの調子で、朝の挨拶を交わした。


「おはよ」


「……おはよ」


 表面上は、何も変わらない。

 それでも、目が合った瞬間、どちらも、一瞬だけ、視線を逸らしてしまう。

 その小さな仕草の変化に、二人以外、誰も気づいていなかった。


 昼休み、購買のパンを買いに向かう途中、太秦とすれ違った慧が、何気なく呼び止められた。


「お、慧くん。……なんか、今日、顔つきちがくね?」


「……別に、いつも通りっすよ」


「ふーん」


 太秦は、それ以上、深くは追及しなかった。

 けれど、その意味深な視線に、慧は、内心、少しだけ焦っていた。


 誰かに気づかれるのは、まだ、少し早い気がした。

 この曖昧な距離感を、もう少しだけ、自分たちだけの秘密にしておきたい。

 慧は、そんなことを思いながら、購買へと続く階段を、いつもより急ぎ足で下りていった。


 パンを買って戻る途中、廊下の窓から、図書室の方向を、ふと見やる。

 あの帰り道の続きは、まだ、始まったばかりだった。



 その頃、図書室では、ほのかが、返却本の整理をしながら、みおと二人きりになっていた。


「……あの、みお先輩」


「はい?」


「昨日の帰り、慧と、ちょっと変な空気になって」


 ほのかは、そう切り出したものの、その先を、どう続ければいいのか、少し迷っている様子だった。


「……変な空気、というのは」


「うまく、言葉にできないんですけど。……気まずいような、でも、嫌な感じじゃない、みたいな」


 みおは、本を棚に戻す手を止めて、ほのかの方を、静かに見た。


「それは、たぶん、悪いことでは、ないと思います」


「……そうですかね」


「わたしも、央さんと、似たような空気になったこと、あります。……最初は、戸惑いますけど」


 みおが、そう言って、少しだけ、目を細める。


「その先に、進むかどうかは、ほのかさん次第だと思いますけど。……焦らなくても、いいと思います」


 その言葉に、ほのかは、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。


「みお先輩たちは、どのくらいで、その、今みたいな感じになったんですか」


「……央さんとは、一年近く、かかりました。クラスで隣の席になってから」


「そんなに」


「はい。……でも、その分、ゆっくり積み重ねられたので、それで良かったと、今は思います」


 みおは、そう言って、少しだけ、遠くを見るような目をした。


「慧くんとほのかさんは、もう十年以上、積み重ねてきてるわけですから。……わたしたちより、ずっと、土台はしっかりしてると思います」


「……そう、なのかな」


「そうですよ。だから、焦らなくても、大丈夫です」


「……ありがとうございます、みお先輩」


「いえ。……何かあったら、いつでも話してください」


 みおは、そう言って、静かに微笑んだ。


 図書室の窓の外、二月の夕陽が、静かに沈み始めていた。


 同じ夕陽を、慧も、教室の窓から、ぼんやりと眺めていた。

 昨日から続く、この落ち着かない感覚は、まだ、しばらく続きそうだった。

 それでも、不思議と、悪い気分ではなかった。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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