第百十四話 2月14日 今年は、少しだけ
二月十四日。
央たちの通う高校では、朝の教室から、いつもと少し違う空気が漂っていた。
机の上に、包装された小さな袋を隠すように置く生徒。
休み時間、こっそりとラッピングの角度を直す生徒。
誰も、口には出さない。
それでも、廊下を歩けば、その空気だけで、今日という日が分かる。
「今年も、この時期が来たか」
太秦が、自分の席で、しみじみとそう呟いた。
「太秦は、今年も友チョコ側なんですね」
「うるせえ。……去年より、量減ってたら泣くからな、俺」
央が、苦笑しながらそう返すと、太秦が、真顔でそう言い返す。
そのやり取りに、近くの席にいたさやかが、小さく噴き出した。
「安心して。今年もちゃんと用意してるから」
「さやかさん、女神か」
「毎年、同じこと言ってるよね、太秦くん」
ひなが、呆れたように、そう突っ込む。
太秦は、その突っ込みにも、まるでこたえない様子で、両手を合わせて拝む仕草をしてみせた。
前日の日曜日、みおの家では、さやかとひなを招いての「友チョコ作り」が、恒例通りに行われていた。
去年もこの三人で作った、リビングのテーブルいっぱいに並んだ材料を前に、みおが、慣れた手つきで湯煎の温度を確かめている。
「みお、その配合、去年と同じ?」
「少しだけ、変えました。……甘さを、控えめに」
「そういうところ、真面目よね、みお」
さやかが、感心したように、そう言いながら、テンプレート通りにラッピングの紙を折っていく。
「うちは、今年も包装係でいいよね」
ひなが、リボンの色を吟味しながら、そう確認する。
「ひなの包装、毎年一番かわいいから、助かります」
「でしょ? そこだけは自信ある」
三人の笑い声が、台所に軽やかに響く。
この時間もまた、一年をかけて積み重ねられてきたものの一つだった。
みおは、央に渡す分だけ、別の小さな箱に、丁寧に詰め直した。
友チョコとは違う、少しだけ緊張の色を帯びた手つきだった。
それに気づいたさやかが、何も言わずに、ただ、小さく笑った。
放課後、図書室では、みおが、鞄の中身を、何度も確かめていた。
小さな箱に入ったチョコレートは、今朝、家で丁寧に包み直したものだった。
カウンターの向こうで、宇陀が、返却された本を、静かに棚へ戻している。
「……葛城さん、今日は、ずいぶん落ち着かない様子ですね」
「……分かりますか」
「その年頃の落ち着かなさは、大体、想像がつきますよ」
宇陀が、そう言って、少しだけ目を細めた。
からかうでも、詮索するでもない、その距離感が、みおには、いつも心地よかった。
「……昔、渡せなかったことが、あるんですか」
「さあ、どうでしょう。……昔のことは、あまり、覚えていないふりをしています」
宇陀は、そう言って、静かに本の背表紙を整えた。
その横顔には、いつもの飄々とした調子とは、少しだけ違う色があった気がしたが、みおが、それを確かめる前に、宇陀は、いつもの調子に戻っていた。
「頑張ってください。……時間は、待ってくれませんから」
その一言に、みおは、小さく頷いて、窓際の席へと向かった。
去年のバレンタインは、まだ緊張ばかりが先に立っていた。
二年目の今年は、緊張の質が、少しだけ違う。
「……央さん」
図書室の奥、いつもの窓際の席で、みおが、小さな声で央を呼んだ。
「はい」
央が顔を上げると、みおは、鞄から、小さな箱を取り出した。
「今年も、作りました。……よかったら」
「ありがとうございます」
央は、そう言って、箱を両手で受け取った。
いつもなら、そこで会話は自然に次へと進む。
けれど、今日は、みおの手が、箱を渡したあとも、少しだけ、央の手の近くに留まっていた。
一秒か、二秒か。
ほんのわずかな間だったが、央には、それが、いつもより長く感じられた。
「……みお?」
「……あ、すみません。……なんでも、ないです」
みおは、そう言って、そっと手を引いた。
頬に、うっすらと赤みが差している。
央は、その様子に、何かを言いかけて、けれど、言葉にはしなかった。
その代わり、箱を開けて、中のチョコレートを、その場で一つ、口に運んだ。
「……おいしいです。去年より、味が丸くなった気がします」
「……砂糖の配合、少し変えたので」
みおが、そう言って、小さく笑う。
言葉にしない何かが、確かに、二人の間に流れていた。
それをどう呼べばいいのか、央にも、まだ分からない。
それでも、この一秒の長さを、央は、しばらく忘れられないだろうと思った。
図書室を出て、いつもの帰り道を、二人で並んで歩く。
二月の夕方は、まだ肌寒く、吐く息が、わずかに白く色づいた。
「……去年の今頃は、渡すだけで、精一杯でした」
みおが、ぽつりと、そう漏らした。
「今年は、少し余裕がありましたか」
「……分かりません。むしろ、緊張は、去年より増えてる気がします」
みおは、そう言って、少し困ったように眉を下げた。
「一年経つと、大切なものが増える分、失いたくないものも増えるんだと思います。……だから、余計に緊張するのかもしれません」
「…………」
央は、その言葉に、しばらく黙ったまま、隣を歩くみおの横顔を見ていた。
失いたくないもの。
その言葉が、静かに、央の胸の奥に落ちていく。
「……俺も、同じです」
央が、そう答えると、みおは、少しだけ、驚いたように顔を上げた。
それから、何も言わずに、ただ、小さく頷いた。
夕暮れの道を、二人分の足音だけが、しばらく静かに続いていた。
同じ頃、大学受験を終えたことねと朔は、駅前のカフェで、久しぶりに顔を合わせていた。
二次試験まで、あと十日ほど。
束の間の息抜きとして、互いに時間を合わせた午後だった。
「……受験前だけど、これくらいは」
ことねが、そう言って、小さな紙袋を差し出す。
「毎年恒例やし。……勉強、根詰めすぎんように」
「……ありがとうございます、ことねさん」
朔が、紙袋を受け取りながら、静かにそう答えた。
その呼び方に、もう迷いはない。
半年前まで「波多野さん」と呼んでいたことが、今ではずいぶん遠く感じられる。
「あたしも、朔くんがいてくれるおかげで、この時期、乗り切れてる気がするわ」
「……それは、こちらの台詞です」
朔が、紙袋の中を、そっと覗き込む。
ことねの手作りらしい、不揃いな形のチョコレートが、几帳面に並んでいた。
「不格好やけど、味は保証するから」
「……形は、関係ありません」
朔は、そう言って、珍しく、少しだけ表情を緩めた。
「……去年の今頃は、こんな余裕、なかった気がします」
「あー、分かる。あの頃、朔くんまだ『波多野さん』って呼んでたもんな」
ことねが、そう言って、コーヒーカップを両手で包み込んだ。
「二次試験が終わったら、少し落ち着きますね」
「うん。終わったら、ちゃんと打ち上げしような。……あたしの奢りで」
「……それは、楽しみにしています」
朔が、そう言って、初めて、はっきりと笑った。
その表情に、ことねは、一瞬、目を丸くしてから、つられるように笑い返した。
窓の外を、二月の風が、静かに吹き抜けていく。
二人の間には、受験という緊張とは別の、穏やかな時間が流れていた。
放課後、一年生の教室には、下校を促す放送が、少し前から流れていた。
それでも、慧は、荷物をまとめる手を、いつもよりゆっくりと動かしていた。
教室に残っていたほのかは、鞄の中の小さな包みを、何度も握り直していた。
去年は、渡すかどうかすら、あまり深く考えなかった。
今年は、なぜか、朝からずっと、鞄の中身が気になって仕方がなかった。
「……慧」
「ん?」
慧が、片付けの手を止めて、振り向く。
「これ、……今日、渡そうと思って」
ほのかが、包みを差し出しながら、そう言った。
「あ……サンキュー」
慧が、それを受け取ろうとした瞬間、ほのかが、小さく付け加えた。
「幼馴染だから、ってだけの意味だから、ね。変に……」
そこで、ほのかの言葉が、一瞬、止まった。
「変に意識しないでね」と続けるつもりだった言葉が、なぜか、うまく出てこなかった。
「……変に、何?」
「……なんでもない。ただの、いつもの奴」
ほのかは、そう言って、目を逸らした。
慧は、包みを受け取ったまま、しばらく、何も言わなかった。
「……ありがとう」
いつもより、少しだけ、長い沈黙のあとで、慧は、そう言った。
その声は、いつもの軽口とは、どこか違って聞こえた。
「……なに、その間」
「別に。ただ、ちゃんと言おうと思っただけ」
慧が、頭を掻きながら、そう答える。
ほのかは、それ以上、何も言わずに、鞄を持ち直した。
二人の間に流れた沈黙は、いつもの軽口の応酬とは、明らかに違う質のものだった。
それが何なのか、ほのか自身にも、まだ、うまく言葉にできない。
教室を出て、昇降口へ向かう廊下を、二人は、いつもより少しだけ距離を空けて歩いた。
いつもなら、肩がぶつかるくらいの近さで歩くのが当たり前だった。
今日だけは、その距離感すら、どこか意識してしまう。
「……先、帰るわ」
「……うん。また明日」
慧は、そう言って、いつもより早足で、昇降口を出ていった。
ほのかは、その背中を、しばらく見送ってから、小さくため息をついた。
「……何なのよ、もう」
誰にともなく、そう呟いた声は、夕方の廊下に、静かに溶けて消えていった。
放課後、自転車修理店の店先で、太秦は、もらったばかりの友チョコの袋を、工具箱の脇に置いていた。
毎年恒例の光景ではある。
それでも、今年は、少しだけ、違う心持ちで、その袋を見つめている自分に、太秦は、気づいていた。
(別に、羨ましいとかじゃ、ないんだけどな)
央とみお、ことねと朔、慧とほのか。
それぞれの形で、少しずつ前に進んでいく友人たちを、太秦は、遠くから、静かに見ている立場に、ずっと立ち続けてきた。
それが寂しいのかと言われれば、そうでもない。
誰かのために手を動かすことが、太秦にとっては、それだけで、十分に満たされる時間だった。
「……まあ、俺は俺のペースで、いいか」
太秦は、そう呟いて、友チョコの袋を、大事そうに鞄へしまった。
その日の夜、それぞれの家で、三組の男女が、それぞれの形で、今日という日を思い返していた。
央は、みおの言った「失いたくないもの」という言葉を、何度も、頭の中で繰り返していた。
朔は、ことねが不揃いなチョコレートを几帳面に並べていた姿を、静かに思い出していた。
慧は、ほのかの「変に……」という、途切れた言葉の続きを、ベッドに寝転びながら、ずっと考え続けていた。
誰も、まだ、何かを決定的に変える言葉は、口にしていない。
それでも、この日を境に、三組それぞれの中で、何かが、確かに一歩だけ動いていた。
その夜、央のスマホに、太秦から、一通のLINEが届いた。
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太秦:おうくん、今年もちゃんと味わって食えよ
太秦:来年もあると思うなよ、みたいな重さで食え
央 :……太秦は毎年、何を言ってるんですか
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央は、そう返信を送りながら、机の上の小さな箱に、もう一度、目をやった。
去年と、今年。
同じ日付、同じ相手からの、同じようで少しだけ違うチョコレート。
その「少しだけ」の違いこそが、この一年で積み重ねてきたものの、確かな証なのかもしれない。
央は、そう思いながら、箱の蓋を、そっと閉じた。
同じ頃、三軒茶屋のみおの部屋でも、小さな出来事があった。
みおは、鞄の中に残っていた、友チョコの余り一つを、机の上に置いたまま、しばらく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
(……失いたくないもの、なんて。恥ずかしいこと、言ってしまいました)
央の「俺も、同じです」という一言が、まだ、耳の奥に残っている。
あの一言だけで、今日一日の緊張が、報われた気がした。
みおは、机の上のノートを開き、その日の出来事を、短く書き留めた。
「二月十四日。央さんに、チョコを渡した。去年より、少しだけ、勇気が要った」
たった二行の記録だったが、みおにとっては、それで十分だった。
窓の外では、二月の夜空に、星が、いくつか瞬き始めていた。
同じ空の下、それぞれの家で、それぞれの想いを抱えながら、今日という一日が、静かに終わろうとしていた。
来年のバレンタインは、どんな一日になるのだろう。
みおは、ふと、そんなことを考えて、少しだけ、口元を緩めた。
まだ見えない一年先のことを想像できるくらいには、今この時間が、確かなものになっている。
その事実だけで、今日という日は、みおにとって、十分に特別な一日だった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




