第百十三話 2月10日 一年の総決算
二月に入ると、央たちの通う高校では、廊下の空気が、少しだけ張り詰めたものに変わる。
昇降口の掲示板には、時間割表と並んで、大きく「学年末考査」の文字が貼り出されていた。
一・二年生の学年末テスト期間。
一年間の締めくくりとして行われるこのテストは、進級を左右する重みを持っている。
三年生の教室が静かに自習中心へと切り替わっていくのとは対照的に、一・二年生の教室には、いつもより張り詰めた、けれどどこか浮ついた空気が漂っていた。
朝、央の家では、いつも通りの静けさが続いていた。
五時半に起きて、豆を挽き、湯を沸かす。
ドリッパーに湯を落としながら、央は、リビングの隅で新聞を読んでいる祖父に、目をやった。
「じいちゃん、コーヒー、淹れました」
「おう、もらおうか」
祖父が、新聞から顔を上げずに、そう答える。
湯呑みではなく、いつものマグカップを差し出す仕草だけで、央には、それが分かった。
「……今日から学年末なんだって?」
「はい。今年最後のテストです」
「進路の方は、決まったのか」
唐突な問いに、央は、コーヒーを注ぐ手を、一瞬止めた。
「……まだ、何も。太秦も、みおも、ことねちゃんも、朔さんも、みんな少しずつ前に進んでるのに、俺だけ、置いてかれてる感じがします」
「置いてかれてるとは、思わんけどな」
祖父が、新聞を畳みながら、そう言った。
「早く決めた奴が偉いわけじゃない。……お前の父さんだって、大学卒業する直前まで迷ってた。今の仕事に落ち着いたのは、その後だ」
「……そうなのですか」
「急かされて決めたことは、大抵、あとで後悔する。焦らんでいい」
祖父は、そう言って、マグカップを受け取った。
湯気の向こうで、少しだけ、笑っているように見えた。
央は、その言葉を、心のどこかに、そっとしまい込んだ。
制服に着替えながら、窓の外を見る。
二月の朝は、まだ暗い。
それでも、東の空の際が、わずかに白み始めていた。
図書委員のグループLINEにも、宇陀からの短い連絡が届いていた。
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宇陀 :テスト期間中は、図書室の開館時間を短縮します
宇陀 :勉強に集中してくださいね
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その一言に、みおが小さく笑って、既読をつけた。
放課後、央とみおは、いつものように図書室の隅の席で、参考書を広げていた。
窓際の席は、二人にとって、もうすっかり定位置になっている。
「……央さん、ここ、また同じ間違い方をしてます」
みおが、央の解答用紙を覗き込みながら、そう言った。
指の先が、計算式の途中を軽くなぞる。
「符号、変わってるの気づいてますか。ここで、マイナスが消えてます」
「……ああ、本当ですね」
央は、ペンを止めて、ため息をついた。
「毎回、同じところで転んでいる気がします」
「毎回じゃないですよ。前より、減ってます」
みおが、そう言って、静かに笑う。
一年前の春、この図書室で初めて言葉を交わした頃のふたりからは、想像もつかないほど、この「教える・教わる」の距離感が、自然なものになっていた。
央が計算でつまずくたびに、みおがそっと隣から手を伸ばす。
その代わり、みおが古典の記述で言葉に詰まると、央が、静かに、けれど的確に、言葉の道筋を示す。
「……ここ、主語が誰なのか、迷ってます」
「文脈から言うと、たぶん帝の方。……敬語の高さで、判断つくと思います」
「あ……そっか。二重敬語、ここにありますね」
みおが、ノートに書き込みながら、小さく頷く。
どちらが上でも下でもない。
そういう関係が、一年かけて、ふたりの間に積み重なっていた。
「……央さんは」
ふと、みおが、ペンを置いて、そう切り出した。
「進路のこと、まだ、何も考えてないんですか」
「……はい」
央は、少し間を置いてから、頷いた。
「太秦は、この間、自転車の修理をきっかけに、何か掴みかけていました。ことねちゃんも、朔さんも、行きたい大学が決まってる。……俺だけ、何も見えていません」
「焦る必要は、ないと思います」
みおが、そう言って、央の顔を、まっすぐに見た。
「わたしだって、数学が好きなだけで、まだ、何になりたいかまでは、はっきりしてません。……ただ、隣で一緒に悩んでくれる人がいるだけで、ずいぶん違う気がします」
その言葉に、央は、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
図書室の窓の外、二月の陽が、机の上に長く伸びていた。
参考書のページをめくる音だけが、しばらくの間、静かに続いていた。
同じ頃、さやかの部屋では、参考書とノートが、机の上に山積みになっていた。
中学三年生の弟・海斗の高校入試が、ちょうど同じ時期に重なっている。
さやかは、自分のテスト勉強の合間に、弟の質問に答え、間違えた問題を一緒に確認する日々を続けていた。
「姉ちゃん、この英作文、これで合ってる?」
「……ちょっと待って。うーん、ここの時制、違う。もう一回見直し」
さやかは、弟のノートを覗き込みながら、自分の参考書のページを、指で押さえたままにしていた。
時計の針は、すでに十一時を回っている。
「あと、ここの構文。前にも言ったやつ」
「あー、それ忘れとった」
海斗が、頭を抱えながら、そう言う。
その姿に、さやかは、思わず苦笑した。
祖父の「勉強は、誰かに教えている間が、一番身につく」という言葉を、幼い頃から何度も聞かされてきた。
今のさやかにとって、それは、半分は本当で、半分は、少しだけ重い。
弟のノートを閉じたあと、自分のノートを開き直す頃には、いつも日付が変わりかけている。
翌日、学校で、さやかは、いつもより口数が少なかった。
「さやか、大丈夫ですか。……顔色、少し良くないです」
みおが、そう言って、水筒から緑茶を注いだ湯呑みを、そっと差し出した。
「弟くんの受験も、気にかけてるんですよね」
「……ん、まあね。私まで余裕なくなったら、意味ないんだけど」
さやかは、湯呑みを両手で受け取りながら、小さく笑った。
温かさが、指先からゆっくりと伝わってくる。
「ありがと。……こういうの、ふっと出してくれるとこ、みおのいいとこよね」
「……さやかは、いつも誰かのために動いてる方だから。たまには、こっちの番です」
みおは、そう言って、少しだけ目を細めた。
さやかは、湯呑みの中の緑茶を、ゆっくりと一口飲んだ。
温かさが、喉から胃の奥へと、静かに落ちていく感覚があった。
「……海斗の受験、あと少しなんよね。私の方が緊張してる気すらする」
「さやからしいです。……でも、無理しすぎないでくださいね」
「分かってる。分かってるけど、ね」
さやかは、そう言って、窓の外に目をやった。
弟の合格発表の日がいつなのか、頭の中で、もう何度も数えている自分に気づいて、小さく苦笑した。
図書室の別の一角では、ひなが机に突っ伏しかけていた。
「……うち、写真部の活動記録もまとめなきゃいけないのに、なんでテストと被るかな」
「文句言う前に、その手動かしなよ」
太秦が、通りすがりに、そう茶々を入れる。
「太秦くんに言われたくない。数学、赤点ギリギリのくせに」
「……それは、否定できない」
太秦が、頭の後ろを掻きながら、苦笑した。
「うちが撮り溜めた写真、フォルダの整理だけでも一日仕事なんだけど。テスト勉強と両立とか、無理ゲーすぎる」
「先に片方終わらせりゃいいだろ」
「それができたら苦労しない」
ひなが、シャーペンの尻を机に叩きつけるようにしながら、そう零す。
「大体、太秦くんだって、この間まで自転車のことでなんか悩んでたくせに。人のこと言えんの?」
「……あれは、もう終わった話」
太秦が、少し目を逸らしながら、そう答える。
その反応に、ひなは、何かを察したのか、それ以上は追及しなかった。
「ふーん。まあ、いいけど」
ひなは、そう言って、また参考書に向き直った。
その横顔には、一月末の自転車修理店での出来事以来、以前よりわずかに落ち着いた色が、太秦の中に宿っているように見えた。
誰かに気づかれるほどではない、けれど、確かにある変化だった。
一年生の教室では、慧が、机に頬杖をついて、余裕の表情を浮かべていた。
「学年末とか、余裕っしょ。中間もそこそこだったし」
「……その台詞、秋の中間の前にも聞いた気がする」
ほのかが、隣の席から、じとりとした目を向ける。
「あの時、慧、前日に泣きそうになってたよね」
「泣いてない。あれは、目にゴミが」
「言い訳が下手すぎる」
テスト初日の前夜、慧から、ほのかにLINEが届いた。
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慧 :やば、古文まったく分からん
慧 :ほのか、今から少し教えてくれない?
ほのか:言わんこっちゃない
ほのか:はいはい、通話するよ
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電話の向こうで、ほのかが、呆れながらも、丁寧に古文の活用を説明する声が響く。
慧は、ノートにペンを走らせながら、時々、素直に「なるほど」と頷いていた。
「……未然形、連用形、終止形……あー、なるほど、こういう順番か」
「そう。ここ、テストで絶対出るところだから、覚えといて」
ほのかの声は、いつもの軽口とは違って、驚くほど丁寧だった。
慧は、その声色の違いに、少しだけ驚きながらも、素直にノートを取り続けた。
「……ほのかがいなかったら、俺、詰んでたわ」
「それ、毎回言ってる」
ほのかは、そう言いながらも、少しだけ、声が柔らかくなっていた。
通話を切ったあと、ほのかは、自分の机に向き直った。
自分のテスト範囲は、まだ半分も終わっていない。
それでも、電話越しに聞こえた慧の「なるほど」という声を思い出すと、不思議と、勉強を続ける手が止まらなかった。
「……次、私の番か」
ほのかは、そう呟いて、ノートの新しいページを開いた。
テスト最終日、放課後の教室に、いつもの面々が集まった。
「終わったー!」
太秦が、両手を大きく上に伸ばしながら、そう叫んだ。
「今年も終わった~。……この解放感、何回やってても慣れないな」
「毎年言ってますよね、それ」
央が、苦笑しながら、そう返す。
「言うだろ、これは。……あー、腹減った。みんな、コンビニ寄って帰ろうぜ」
「私も、これで弟のことだけ気にかけてればいいわ」
さやかが、肩の力を抜いたように、大きく伸びをした。
「うちも、これでやっと写真部のこと集中できる」
ひなが、スマホを構え直しながら、笑った。
慧とほのかも、遅れて廊下に出てきた。
「勢多先輩、みお先輩、お疲れ様です」
「慧くん、ほのかさん、お疲れ様。……古文、大丈夫でした?」
みおが、そう尋ねると、慧が、少し照れくさそうに、頭を掻いた。
「……ほのかのおかげで、なんとか」
「素直でよろしい」
ほのかが、満足げに頷く。
その横で、さやかとみおが、そっと目配せを交わした。
言葉にはしない、けれど確かに通じ合う何かが、二人の間にあった。
昇降口に向かう途中、央のスマホが、小さく震えた。
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ことね:学年末テストお疲れ! 央から連絡もらったから一応LINEしといた
ことね:あたしも受験前、この時期のテストがラストの息抜きやった気がするわ
ことね:終わったらみんなでご飯行こな、落ち着いたら
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「ことねちゃんから」
央が、そう言って、画面をみおに見せると、みおが、少しだけ表情を緩めた。
「……先輩たちも、こうやって、後輩のこと気にかけてくれるんですね」
「そういう人だから、ことねちゃんは」
央は、そう言いながら、画面をポケットにしまった。
夕暮れの廊下を、七人で歩きながら、央は、ふと、みおの横顔を見た。
進路は、まだ何も決まっていない。
それでも、こうして隣を歩ける相手がいることが、今の央にとって、確かな支えになっていた。
太秦は、太秦で、工具箱の中で見つけた小さな灯りを、まだ誰にも大きくは語らない。
それでも、その灯りは、確かに、太秦の中で灯り続けている。
一年の総決算という言葉には、まだ届かないかもしれない。
それでも、少しずつ積み重ねてきたものが、確かにここにある。
朝、祖父が言った「焦らんでいい」という言葉が、ふと、頭をよぎる。
急かされて決めたことは、あとで後悔する。
だとすれば、今はまだ、この積み重ねの時間を、大切にしていいのかもしれない。
央は、そう思いながら、みおと並んで、教室の窓明かりが並ぶ夕方の道を、歩き続けた。
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