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『隣の席の彼女は、今日も高すぎる』  作者: さかっち
~二年生~

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第百十二話 1月26日 工具箱の中の、将来


 二次試験の出願が終わり、学校全体が、どこか落ち着きを取り戻していた。


 三年生は自習中心の登校に切り替わり、二年生の教室にも、心なしか緩やかな空気が流れている。

 それでも、進路や将来という言葉は、以前よりずっと、身近なものになっていた。


 朝のホームルーム前、教室の窓際で、(おう)とみおは、少し離れた席の太秦(うずまさ)を見ていた。


「太秦くん、今日、なんだか静かですね」


 みおが、小さな声で、そう言った。


「先週の図書室のこと、まだ引きずってんのかもな」


 央が、そう答えると、みおは、心配そうに眉を寄せた。


「無理に聞かない方が、いいでしょうか」


「多分な。……ああいうのは、本人のタイミングがあるから」


 央が、そう言うと、みおは、静かに頷いた。


 当の太秦は、机に頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 その横顔には、いつもの軽さとは違う、何かを考え込んでいるような色があった。


 月曜日の放課後、太秦は、いつも通り、自宅の自転車修理店に顔を出した。


 シャッターの半分だけ開いた店先には、油の匂いと、金属が擦れる小さな音が、いつも通り漂っていた。


「お、来たか」


 父が、作業台の下から顔を上げて、そう言った。


「今日、お客さん多い?」


「そこそこな。……ちょうどいい、ちょっと頼みたいことがある」


 父が、そう言って、立てかけられた一台の自転車を、顎で示した。


「常連の田淵さんの。ブレーキの効きが甘いって、朝、電話があった」


「うん、それで?」


「お前一人でやってみろ」


 太秦は、一瞬、動きを止めた。


「……え、一人で?」


「見てるだけじゃ、いつまで経っても一人前になれねえだろ」


 父が、そう言って、軍手を外した。


「分からなくなったら聞け。それ以外は、口出ししない」


 短い一言だったが、太秦には、それが、いつもとは違う重みを持って響いた。


 これまでも、父の手伝いはしてきた。

 部品を渡したり、タイヤの空気を入れたり、掃除をしたり。

 それでも、一台を丸ごと任されたことは、一度もなかった。


「……分かった」


 太秦は、そう言って、工具箱を引き寄せた。


 自転車を作業台に固定し、太秦は、まず、ブレーキレバーをゆっくりと何度か握ってみた。


 握るたびに、微妙な引っかかりと、遊びの大きさが、指先から伝わってくる。

 どこに問題があるのか、頭の中で、これまで見てきた父の作業を辿りながら、順番に確認していった。



 ブレーキワイヤーの張り具合を、指先で確かめる。

 レバーを握るたびに、微妙な引っかかりがあるのが分かった。


(このワイヤー、少し伸びてる)


 太秦は、父の作業を横で見てきた記憶を、頭の中で辿った。

 どの工具を、どの順番で使うか。

 どのくらいの力加減で締めれば、ちょうどいいか。


 見よう見まねで覚えたはずのことが、いざ自分の手でやるとなると、驚くほど鮮明に蘇ってくる。


 ワイヤーを調整し、レバーの遊びを確認する。

 ブレーキシューの減り具合も、念のため点検した。


 三十分ほどかけて、太秦は、最後にもう一度、レバーを握った。


 カチッ、と小気味いい音がして、しっかりとタイヤが止まる。


「……よし」


 小さく呟いて、太秦は、額の汗を拭った。


 冬なのに、じんわりと手のひらが汗ばんでいた。


 そこへ、店の奥から、姉が顔を出した。


「あんた、なんかいつになく真剣な顔してるね」


「うっせ。集中してんだよ」


 太秦が、そう言い返すと、姉は、面白そうに笑った。


「大学の講義、午前だけだったから、寄ってみた。父さんに頼まれて、一人でやってんの?」


「そう」


「ふうん。……いいじゃん、ちょっと」


 姉は、そう言って、太秦の手元を、しばらく興味深そうに眺めていた。


「あんたも、あたしみたいに、なんとなく進路決めるタイプかと思ってた」


「なんとなくって、姉ちゃんは決めたわけ」


「まだ迷ってる。……サークルの先輩に誘われて始めたボランティアが、意外と楽しくて、そっち系もいいかなって、最近思い始めてるとこ」


 姉が、そう言って、少し照れくさそうに笑った。


「大学入っても、まだ迷うもんなんだ」


「当たり前でしょ。高校生のうちに全部決まる方が、珍しいって」


 姉は、それだけ言って、店の奥へと入っていった。


 その素っ気ない一言が、なぜか、太秦の胸の奥に、少しだけ残った。



 夕方、常連の客が、自転車を取りに来た。


「ブレーキ、すみません、急にお願いしちゃって」


「大丈夫っす。……確認してみてください」


 太秦が、そう言うと、客は、その場で軽くレバーを握り、確かめるように何度か試した。


「あ、いいですね。すごく効くようになった」


「ならよかったです」


「いつもお父さんにお願いしてたんですけど、今日は?」


 客が、そう聞くと、太秦は、少し緊張しながら答えた。


「今日は、俺がやりました」


「え、そうなの? 丁寧な仕事するね、若いのに」


 客が、感心したように、そう言った。


「……ありがとうございます」


 太秦は、思わず、声が上ずりそうになるのを、なんとか堪えた。


 客が、笑顔で会計を済ませ、店を出ていく。


 その背中を見送ってから、太秦は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。


 誰かの「困った」を、自分の手で「大丈夫」に変えられた。

 その実感が、じわじわと、遅れてやってくる。


「どうだ」


 父が、作業台の向こうから、そう聞いた。


「……普通に、直った」


「普通にって顔じゃねえけどな」


 父が、そう言って、少しだけ、口の端を上げた。


「筋はいいんじゃないか」


 それだけ言って、父は、また自分の作業に戻っていった。


 褒められ慣れていない太秦は、頭の後ろを掻いた。


「……なあ、父さん」


「なんだ」


「この店、俺が継ぐとか、期待してたりする?」


 太秦が、そう聞くと、父は、手を止めて、少し考えるような間を置いた。


「継いでほしいとは、正直、思ってる。……でも、それはお前が選ぶことだ」


「父さん、でも」


「押し付けるつもりはねえよ」


 父が、そう続けた。


「今日みたいに、手を動かしてるお前を見て、悪くないなって思っただけだ。それ以上でも以下でもない」


「……そっか」


 太秦は、それだけ言って、工具を片付け始めた。


 急かされているわけでも、期待を背負わされているわけでもない。

 ただ、選択肢の一つとして、この場所があると知っただけで、太秦の中の何かが、少しだけ軽くなった気がした。


(……悪くない、かも)


 工具を片付けながら、太秦は、そんなことを思っていた。



 夜、央とのグループLINEに、太秦は、珍しく個人メッセージを送った。


───────────────────────

太秦  :明日、ちょっと話聞いてくんね?

央   :いいけど、何かあった?

太秦  :たいしたことじゃない。学校で

───────────────────────


 翌日の放課後、図書委員の当番を終えたあと、太秦は、央を連れて、屋上へと続く階段の踊り場に座り込んだ。


「なんだ、改まって」


 央が、そう言うと、太秦は、少し照れくさそうに、頭の後ろを掻いた。


「昨日さ、店で、初めて一台丸ごと任されたんだよ。ブレーキの修理」


「へえ」


「……直せた。ちゃんと」


 太秦が、そう言うと、央は、静かに頷いた。


「よかったな」


「まあな。……でも、それだけじゃなくて」


 太秦は、少し言葉を選ぶように、間を置いた。


「直した後、客が『いいですね』って笑って帰ってったのが、なんか、すげえ嬉しかった」


「……太秦らしいな、それ」


 央が、そう言うと、太秦は、少し驚いたように顔を上げた。


「らしい?」


「昔から、誰か困ってると、放っとけない奴だった」


 央が、そう言うと、太秦は、ばつが悪そうに、視線を逸らした。


「……そんな大層なもんじゃねえよ」


「大層かどうかは、太秦が決めることじゃない」


 央が、そう言うと、太秦は、しばらく黙り込んだ。


「まだ全然、これでいいのかとか、分かんねえけど」


 太秦が、ぽつりと、そう続けた。


「でも、あの瞬間だけは、これでいいのかもって、ちょっと思えた」


 その言葉には、いつもの軽さとは違う、確かな重みがあった。


 先週、図書室で言葉を止めたときの太秦を、央は、ふと思い出していた。

 あのとき感じた違和感の正体が、これだったのだと、今になって腑に落ちる。


「見つかったんだな、なんとなく」


「見つかったってほどじゃない。……でも、手がかりくらいには、なった気がする」


 太秦が、そう言うと、央は、静かに頷いた。


「昨日の姉ちゃんも、似たようなこと言ってたよ。大学入っても、まだ迷ってるって」


「太秦の姉さんって、そんな感じなんだ」


「あんな適当そうな顔して、意外と真面目に悩んでんの。……ちょっと意外だった」


 太秦が、そう言うと、央は、小さく笑った。


「太秦の家族、みんな根が真面目なんだよ、きっと」


「やめろよ、こそばゆい」


 太秦が、そう言って、頭を振った。



「……おうくんこそ、どうなんだよ」


 太秦が、ふと、話の向きを変えた。


「まだ迷ってんの?」


「正直、まだ何も」


「意外だな。おうくん、なんでもすぐ答え出すタイプだと思ってた」


「進路は別だよ。……好きなものと、仕事にできることが、必ずしも一致するとは限らないから」


 央が、そう言うと、太秦は、少し感心したように、腕を組んだ。


「俺は逆に、好きなものしか、続けられる自信がねえけどな」


「それも、太秦らしい」


 央が、そう返すと、太秦は、小さく笑った。


「なんだよ、それ」


「太秦は、手を動かして誰かの役に立ってるとき、一番活き活きしてる。傍から見てて、ずっとそう思ってた」


 太秦は、少しの間、何も言わなかった。


 やがて、照れ隠しのように、肩を軽く小突いてくる。


「そういうこと、真顔で言うの、ずるいって」


「事実だから」


 央が、そう言うと、太秦は、天井を仰いで、大きく息を吐いた。


「……ことね先輩たちも、朔先輩も、みんな、少しずつ前に進んでんだな」


「太秦もだろ、もう」


 央が、そう言うと、太秦は、照れくさそうに、笑った。


 踊り場の窓から差し込む、冬の午後の光が、二人の影を、長く床に伸ばしていた。



 その日の夜、太秦は、少し迷ってから、グループLINEにも短く報告した。


───────────────────────

太秦  :昨日、店でブレーキ修理、初めて一人で任された。ちゃんと直せた

みお  :太秦くん、すごいです

さやか :かっこいいじゃん

ひな  :え、写真撮っときゃよかったのに

太秦  :客の前で写真撮る余裕なんかねえよ

ことね :太秦くん、ちゃんと積み重ねてるんやね

朔   :お疲れ様でした

太秦  :ことね先輩たちも受験期なのに、律儀に見てくれてありがとうございます

ことね :こういうのは見たいから見てるだけ

───────────────────────


 画面を閉じ、太秦は、少しだけ照れくさそうに、天井を見上げた。


 受験を控えたことねや朔まで、こうして反応をくれる。

 その温かさが、思っていた以上に、太秦の胸に染みた。



 自室の棚に並んだスニーカーを、太秦は、なんとなく眺めていた。


 好きで集めてきたものたち。

 どれも、履き心地や作りにこだわって選んできた。


(俺、こういうの、ずっと好きだったんだよな)


 スニーカーの縫い目や、ソールの構造を眺めるとき、いつも自然と手が伸びてしまう。

 それは、自転車の修理をしているときの感覚と、どこか似ている気がした。


 誰かのために、何かを直す。

 誰かのために、何かを選ぶ。


 その延長線上に、自分の将来があるのかもしれない。

 まだ、はっきりとした形にはなっていない。


 自転車店を継ぐのか、それとも、まったく別の形で、この感覚を仕事にするのか。

 今の太秦には、まだ、その答えは分からなかった。


 それでも、焦りはなかった。

 姉が、大学に入ってもまだ迷っていると言っていたのを、太秦は、もう一度思い出す。


(高校生のうちに、全部決まる方が、珍しいんだよな)


 急いで答えを出す必要はない。

 目の前にあるものを、一つずつ丁寧に積み重ねていけばいい。


 それでも、太秦の中に、小さな灯りのようなものが、確かに灯り始めていた。


 工具箱の蓋を、太秦は、そっと閉じた。


 明日も、また同じように、店を手伝う日常が続く。

 それでも、今日という日を境に、その日常の意味は、少しだけ変わった気がした。


 自転車店を継ぐかどうかは、まだ分からない。

 それでも、選べる場所が確かにあると知ったことは、太秦にとって、小さくない収穫だった。


 工具箱の中身を、太秦は、もう一度、丁寧に並べ直した。

 次にここを開けるときは、また少し、違う自分がいるかもしれない。

 そんな予感を抱きながら、太秦は、部屋の明かりを消した。


ご一読いただきありがとうございます。

ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。

次回もよろしくお願いします。

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