第百十一話 1月19日 まだ、終わっていない二人へ
共通テストが終わっても、波多野ことねと比叡朔の一月は、まだ終わっていなかった。
自己採点で「圏内」という手応えを得たあの夜から、二日。
二人の日常は、共通テストという大きな山を越え、二次試験という次の峰へと、静かに切り替わっていた。
月曜日の朝、波多野家の食卓で、ことねは出願書類の束を前に、頬杖をついていた。
「……ここに決める」
ボールペンの先で、志望校の欄を、そっとなぞる。
「迷いはもうないの?」
母が、コーヒーを注ぎながら、そう聞いた。
「うん。共通テストの結果見て、逆に吹っ切れた。行きたいとこ、変わらんかった」
「子どもと関わる仕事、やっぱりそこは譲らないのね」
「そこだけは、昔から変わらんから」
ことねが、そう言って、少し照れくさそうに笑った。
小学生の頃、近所の子どもに勉強を教えて「分かった!」と目を輝かせられたことがある。
あの瞬間の手応えを、ことねは、今でもはっきりと覚えていた。
将来、誰かの「分かってもらえた」を、たくさん作れる人になりたい。
漠然としていたその願いは、この一年で、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
「模試の判定、正直まだ厳しいけど」
「厳しいくらいで諦めるあんたじゃないでしょう」
母が、そう言って、コーヒーカップを、ことねの前に置いた。
「うん。……やれるだけ、やる」
ことねは、書類を鞄にしまいながら、静かにそう呟いた。
同じ頃、比叡家でも、朔が、自室の机で、同じ書類と向き合っていた。
選ぶ基準は、いつも静かなものだった。
数字が積み重なって、やがて形になる分野。
人が長く居られる、落ち着いた空間を、自分の手で組み立てられる分野。
観葉植物の葉の並びを整えるときの、あの心地よさに似ている気がした。
(僕がずっと好きだったものは、案外、遠くなかったのかもしれない)
朔は、そう思いながら、志望校の欄に、迷いのない字で書き込んだ。
「決まったのか」
朝食の席で、新聞を畳みながら、父が、ふと聞いた。
「はい。……ようやく」
「共通テストの結果からすると、少し挑戦寄りじゃないか」
父が、そう言うと、朔は、静かに首を横に振った。
「挑戦じゃなくて、今の実力で届く場所です。……そのつもりで選びました」
「そうか」
父は、それだけ言って、また新聞に目を落とした。
短い会話だったが、朔には、それで十分だった。
「お弁当、多めに入れておいたから」
母が、玄関先で、そっと鞄を差し出した。
「今日は、出願しに行くんでしょう? ことねちゃんと」
「はい。……分かるんですか」
「顔に書いてあるわよ」
母が、そう言って、悪戯っぽく笑った。
朔は、少し照れくさそうに、鞄を受け取った。
放課後、図書室には、いつもより静かな空気が流れていた。
「あ、朔先輩」
参考書を手にしていた太秦が、入り口に気づいて、声をかけた。
「太秦くん、お疲れ様です」
「出願、もう終わったんすか」
「今日、出しに行こうと思って。……ことねさんも、来る予定です」
朔が、そう言うと、太秦は、少し驚いたように目を丸くした。
「わざわざ二人で?」
「別々に出すより、一緒の方が、心強いので」
朔が、静かにそう答えたところで、図書室のドアが、もう一度開いた。
「お待たせ、朔くん」
ことねが、コートの雪を軽く払いながら、入ってくる。
「寒かったでしょう」
「大丈夫。……それより、書類、忘れ物ない?」
「大丈夫です。三回確認しました」
「三回て。真面目か」
ことねが、そう言って、くすりと笑った。
カウンターの奥から、宇陀が、静かに顔を出した。
「今日は、賑やかですね」
「宇陀さん、お邪魔してます」
朔が、少し頭を下げると、宇陀は、穏やかに微笑んだ。
「志望校、決まったんですか」
「はい。……ようやく」
「そうですか」
宇陀は、それだけ言って、返却された本を、静かに棚へ戻していった。
「不安は、ありますか」
ふと、宇陀が、そう聞いた。
「……正直、あります。今の実力で、本当に足りるのかとか」
朔が、そう答えると、宇陀は、手を止めずに、続けた。
「迷ったときは、遠くを見すぎないことです。近くにあるものの中に、答えがあることも、案外多いので」
その一言は、誰に向けたものというよりは、独り言に近い響きだった。
それでも、朔には、その言葉が、まっすぐに届いた気がした。
「……肝に銘じます」
「私も、若い頃は、遠くばかり見て、足元をよく見失っていました」
宇陀が、そう言って、ほんの少しだけ、目を細めた。
それ以上は語らず、宇陀は、また本の整理に戻っていった。
朔には、その一言の奥に、何か静かな過去があるように感じられたが、あえて聞かなかった。
その様子を、少し離れた棚の陰で、央とみおが、見守っていた。
「宇陀さん、たまにああいうこと言いますよね」
みおが、小さな声で、そう呟いた。
「静かな人ほど、要所要所で効くこと言う気がします」
央が、そう答えると、みおは、小さく頷いた。
「わたしたちも、いつかああいう風に、誰かに言葉を渡せる人になれるでしょうか」
「……なれるといいな、と思っています」
央が、そう言うと、みおは、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
カウンターでは、太秦が、ことねと朔を見比べながら、腕を組んでいた。
「二人とも、結局どこ受けるか教えてくんないんすね」
「言わない。落ちたら恥ずかしいし」
「受かったら、ちゃんと教えてください」
朔が、そう付け加えると、太秦は、肩をすくめた。
「受かるまで秘密って、逆にプレッシャーじゃないすか」
「プレッシャーくらいで潰れてたら、ここまで来てない」
ことねが、そう言って、にっと笑った。
その強さに、太秦は、少し気圧されたように、頭の後ろを掻いた。
「……おうくんとみおも、いつかこういう時期、来るんだよな」
太秦が、ふと、そんなことを呟く。
「太秦もだろ」
央が、苦笑しながら、そう返した。
「いや、なんかさ。二人見てたら、ちょっと考えちゃって」
太秦は、そう言ったきり、それ以上は続けなかった。
その横顔に、いつもの軽さとは違う色が、ほんの一瞬、浮かんでいた。
「太秦?」
みおが、少し心配そうに、その顔を覗き込む。
「いや、なんでもない。……それより、二人とも、出願行くんでしょ。行ってらっしゃい」
太秦は、そう言って、いつも通りの軽い調子に戻した。
央とみおは、顔を見合わせたが、あえて何も聞かなかった。
今は、聞くよりも、見守る方がいい。
そう判断したのは、二人とも、同じだった。
太秦が参考書の読み込みに戻ったあと、央とみおは、閲覧席の本を、静かに棚へ戻していった。
「太秦くん、さっきの言い方、少し変でしたね」
みおが、本を棚に差し込みながら、そう呟いた。
「らしくないっていうか、ね」
「太秦くんなりに、何か考えてるのかもしれません」
「かもしれません。……ああいうとき、無理に聞き出すより、気づいたら手を貸せる方が、多分いい」
央が、そう言うと、みおは、少し驚いたように、央を見た。
「央さんも、そういうところ、ことね先輩たちの見送り方に似てますね」
「似てる?」
「はい。……聞かない優しさ、というか」
みおが、そう言うと、央は、少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「宇陀さんの受け売りですよ、たぶん」
「それも、含めて素敵だと思います」
みおが、静かにそう言うと、央は、何も言えずに、棚の本の背表紙を、意味もなく整え直した。
図書室を出る前、ことねと朔は、後輩たちに、出願を終える報告をした。
「行ってくる。書類、出しに」
「気をつけて行ってください」
みおが、そう言うと、ことねは、軽く手を振った。
「終わったら、ちゃんと連絡するから」
ことねと朔は、並んで、図書室を後にした。
窓の外は、もう夕暮れに近い、淡い橙色に染まり始めていた。
「寒くないですか」
朔が、歩きながら、ふと聞いた。
「平気。……朔くんこそ、緊張してる?」
「少しだけ。……でも、共通テストの朝よりは、落ち着いてます」
「あの日ほど緊張しない方がおかしいって」
ことねが、そう言って、小さく笑った。
二人は、しばらく無言のまま、駅までの道を歩いた。
それでも、その沈黙は、気まずいものではなかった。
「宇陀さんの言葉、よかったね」
「はい。……あの人は、すごく本質的なこと言いますよね」
「うちも、ちょっと見習わなあかんな」
ことねが、そう言うと、朔は、静かに頷いた。
夕方、後輩たちのグループLINEに、静かなメッセージが届いた。
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朔 :出願、無事に終わりました
ことね :うちも! これで、あとは二次に集中するだけ
央 :お疲れ様です
みお :応援してます
太秦 :おつかれっす。あと少し、頑張ってください
さやか :応援してます! 無理せず
ひな :ラストスパート、頑張って~
慧 :頑張ってください!
ほのか :応援してます!
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次々と届くメッセージを、ことねと朔は、駅のホームで並んで読んだ。
「みんな、律儀やなあ」
「……ありがたいです、本当に」
朔が、そう言うと、ことねは、少し考えてから、返信を打った。
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ことね :ありがとう、みんな
朔 :心強いです。あと少し、頑張ります
太秦 :終わったら、また図書室で待ってます
みお :無理しない範囲で、頑張ってください
ひな :合格したら、写真いっぱい撮らせて
ことね :それは合格発表のあとな
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同じ頃、塾の自習室では、さやかとひなが、並んで机に向かっていた。
「ことね先輩たち、出願終わったって」
ひなが、スマホの画面を見せながら、そう言った。
「ほんとだ。……なんか、こっちまで背筋伸びるね」
さやかが、そう言って、シャープペンシルを持ち直した。
「うちらも、来年はこんな感じになるんかな」
「まだ気が早いって。今は目の前のことからでしょ」
さやかが、そう言うと、ひなは、少し肩をすくめて、また問題集に向き直った。
それでも、二人とも、いつもより少しだけ、集中する時間が長くなっていた。
画面を閉じ、ことねは、夜道を歩きながら、小さく息を吐いた。
(あとは、ここからやな)
共通テストという長い坂を越えた先に、もう一つの坂が続いている。
それでも、あの図書室で交わした短いやり取りの数々が、確かな支えになっていた。
「じゃあ、また明日」
「はい。……お疲れ様でした」
ホームで別れる直前、朔が、ふと足を止めた。
「ことねさん」
「ん?」
「……ありがとうございます。今日、一緒に来てくれて」
「そんな畏まらんでも。当たり前のことやん」
ことねが、そう言って、笑った。
その笑顔に、朔は、少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
電車が来て、ことねが乗り込んでいく。
朔は、その背中が見えなくなるまで、ホームに立って見送った。
自室に戻り、朔は、提出済みの願書の控えを、そっと引き出しにしまった。
宇陀の言葉を、朔は、もう一度、静かに反芻した。
(近くにあるものの中に、答えがある、か)
観葉植物の葉を整えるように、目の前のことを、一つずつ丁寧に積み重ねていく。
その先に、自分が長く居たいと思える場所を、いつか自分の手で作れたら。
朔は、そう思いながら、参考書を開いた。
同じ頃、ことねも、自室の机に向かい、模試の過去問を広げていた。
(子どもと関わる仕事、か)
小学生の頃の記憶を、ことねは、もう一度、静かに思い出していた。
あの日の「分かった!」という笑顔を、これからも、たくさん見ていきたい。
その願いだけは、この一年、模試の結果に一喜一憂しながらも、一度も揺らがなかった。
鉛筆を止め、ことねは、机の上に置いた志望校の資料を、もう一度眺めた。
この一年、朔がいなければ、ここまで踏ん張れなかった夜が、何度もあった。
弱音を吐いても、変わらない調子で聞いてくれる相手がいる。
それがどれほど心強いことか、ことねは、今更ながらに、噛みしめていた。
(うちも、ちゃんと支えられる人でいたいな)
そう思いながら、ことねは、また問題集に向き直った。
窓の外に、冬の澄んだ夜空が広がっている。
二次試験まで、残された時間は、決して長くない。
それでも、二人にとって、その道のりは、もう独りのものではなかった。
共通テストという二日間を乗り越えた先に、次の一歩が、静かに始まっていた。
その一歩を、二人はもう、独りで踏み出す必要はなかった。
図書室で交わした短い言葉の数々が、これからも、静かに背中を押してくれるはずだった。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




