第百九話 1月7日 受験前、最後の誕生日
共通テストまで、あと十日。
朔の一月七日は、いつもと変わらず、参考書に向かう朝から始まった。
机の上のカレンダーには、今日の日付に、小さく丸がついている。
誕生日だからといって、特別なことをする余裕は、今の朔にはなかった。
朝食の席で、母が、そっとケーキの箱を差し出した。
「今夜、みんなでお祝いしましょうね」
「……ありがとう。でも、あまり気を遣わなくていいから」
「誕生日くらい、気を遣わせて」
母が、そう言って、優しく笑った。
「勉強、順調なの?」
「まあ、それなりに」
「無理しすぎないでね。体が資本なんだから」
母が、心配そうに言うと、朔は、静かに頷いた。
父も、新聞を読みながら、静かに一言だけ付け加えた。
「無理はするなよ」
「……はい」
「十八になったんだったな」
「うん」
「もう、あっという間だ」
父が、そう言って、少し感慨深そうに、新聞から目を上げた。
「共通テスト、緊張してる?」
「……多少は」
「お前らしくないな、正直に言うところが」
父が、そう言って、少し笑った。
「今日くらいは、正直でいようかと」
朔が、そう答えると、父は、満足そうに頷いた。
短いやり取りだったが、朔には、それで十分だった。
朝食を終え、朔は、いつも通り、自室の机に向かった。
参考書のページをめくりながらも、頭の片隅には、
今日が誕生日だという事実が、ずっと引っかかっていた。
昼過ぎ、スマホが小さく震えた。
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央 :朔先輩、お誕生日おめでとうございます
みお :おめでとうございます
太秦 :おめでとう。勉強、無理しすぎないで
さやか :おめでとうございます。応援してます
ひな :おめでとう~。共通テスト頑張って
慧 :おめでとうございます
ほのか :おめでとうございます! 美味しいもの食べてください
央 :直接会えなくてすみません。落ち着いたら、みんなでお祝いさせてください
太秦 :そうだな。終わったら盛大にやろう
さやか :ケーキとか用意しますね
ひな :写真もいっぱい撮る
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次々と届くメッセージを、朔は、一つずつ丁寧に読んだ。
直接会う時間が取れないことを、後輩たちなりに気遣ってくれているのが、
文面の端々から伝わってくる。
朔は、少し考えてから、返信を打った。
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朔 :ありがとうございます。あと少し、頑張ります
太秦 :無理だけはしないでくださいよ、マジで
朔 :肝に銘じます
みお :良い一年になりますように
朔 :ありがとうございます
慧 :終わったら教えてください。打ち上げ企画します
朔 :楽しみにしています
ひな :誕生日の写真も送ってね
朔 :分かりました
さやか :無理せず、当日ベストコンディションで
朔 :ありがとうございます。頑張ります
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画面を閉じると、朔は、少しだけ口元を緩めた。
いつもなら、誕生日という言葉に、これほど反応することはなかった。
それでも、今年は、後輩たちの言葉一つ一つが、いつもより深く染みた。
午後の時間は、いつも通り、参考書と向き合って過ぎていった。
それでも、頭の片隅に、さっきのやり取りの温かさが、ずっと残っていた。
ふと、手が止まる。
図書委員に入ったばかりの頃を、朔は、ふと思い出した。
あの頃は、まだ人付き合いが苦手で、休み時間の大半を、一人で本を読んで過ごしていた。
それが今では、こうして誕生日を祝ってくれる仲間がいる。
ことねという、大切な人がいる。
変わったのは、環境だけではない。
自分自身も、少しずつ、変わってきたのだと思う。
シャープペンシルを握り直し、朔は、再び問題集に向き合った。
夕方、玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
応対に出ると、そこに立っていたのは、ことねだった。
コートの下から、小さな紙袋の持ち手が覗いている。
「お誕生日おめでとう、朔くん」
「……ことねさん」
朔は、少し驚いた顔をした。
「すみません。連絡くれれば、出迎えたのに」
「サプライズのつもりやったから、連絡はあえてせんかった」
ことねが、そう言って、悪戯っぽく笑った。
「勉強の邪魔しちゃ悪いから、長居はしない。ちょっとだけ、顔見たくて」
ことねが、そう言って、小さな紙袋を差し出した。
「これ、誕生日プレゼント」
「……いいんですか、受験前なのに」
「受験前だからこそ、でしょ」
ことねが、そう言って、悪戯っぽく笑った。
朔は、袋の中を覗き込んだ。
中に入っていたのは、集中力が続くようにと選ばれた、上質なチョコレート。
勉強の合間に読める、短編集が一冊だった。
「チョコは糖分補給。本は、息抜き用。根詰めすぎたら、開いてみて」
「……ありがとうございます。ちゃんと選んでくれたんですね」
「当たり前でしょ。適当に選ぶわけないやん」
ことねが、少し胸を張って、そう言った。
朔は、その言葉に、少しだけ、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
プレゼントを選ぶ時間があったということは、
自分のために、わざわざ足を運んでくれたということだ。
受験前の忙しい中で、その事実が、何よりも嬉しかった。
誰かにここまで大切にされる経験は、朔にとって、まだ新しいものだった。
人と深く関わることを、どこか避けてきた学生生活の中で、
こんなにも自然に、誰かを想う気持ちが育っていくとは、思ってもみなかった。
「今日くらいは、ゆっくりしてね」
ことねが、そう言うと、朔は、少し困ったような顔をした。
「……そう言われると、逆に落ち着かないです」
「真面目か」
ことねが、そう言って、笑った。
玄関先での短い立ち話が、しばらく続いた。
「共通テスト、もうすぐだね」
「はい。……正直、緊張してます」
「珍しいね、朔くんがそんなこと言うの」
「今日くらいは、素直になろうかと」
「クリスマスにもらったお守り、まだ持ってる?」
ことねが、ふと聞いた。
「もちろんです。鞄の内ポケットに、ずっと入れてます」
「そっか。……効いてるといいけど」
「効いてます。多分」
朔が、そう言うと、ことねは、嬉しそうに笑った。
「万年筆の方も、順調?」
「はい。二次試験の記述、あれで練習してます」
「よかった。ちゃんと使ってくれてるんだ」
ことねが、そう言うと、朔は、静かに頷いた。
「あの日の約束、覚えてますか」
「約束?」
「志望校に受かったら、また神保町に行こうっていう」
「……覚えてるに決まってるやん」
ことねが、そう言って、少し照れくさそうに笑った。
「あの日引いたおみくじ、朔くんは小吉、うちは末吉やったね」
「よく覚えてますね」
「そりゃ覚えてるよ。二人ともパッとせん結果やったから」
ことねが、そう言って、くすくすと笑った。
「今年の初詣でも、似たような感じでしたね」
「うちらそういう運命なんかもね」
「悪くないです、それも」
朔が、そう言うと、ことねは、嬉しそうに目を細めた。
「その約束が、正直、今の一番の支えになってます」
朔が、静かに、そう言った。
「……あなたがいると、それだけで頑張れる気がします」
朔が、静かに、そう続けた。
ことねは、しばらく、何も言わなかった。
玄関の灯りに照らされた朔の顔を、まじまじと見つめてから、
やがて、小さく噴き出すように笑った。
「……それ、誕生日プレゼントより嬉しいこと言うやん」
「……そんなつもりじゃ」
「分かってる。分かってるけど」
ことねが、そう言って、少しだけ、頬を赤くした。
「共通テスト、絶対受かってな。二人で、ちゃんと約束の場所、行こう」
「……はい」
朔が、静かに頷いた。
その一言に込められた重みを、二人とも、よく分かっていた。
合格発表の日まで、まだ長い道のりが残っている。
それでも、この約束があれば、頑張れる気がした。
クリスマスの日、ことねが「模試の判定、あんまりよくない」と弱音をこぼしたことを、
朔は、ふと思い出していた。
あの時と同じように、今も、お互いがお互いを支え合っている。
それだけで、十分だと思えた。
「共通テストが終わったら、もっとゆっくり話せる時間、作ろうな」
「はい。楽しみにしてます」
朔が、そう答えると、ことねは、嬉しそうに笑った。
「あ、そうだ」
ことねが、思い出したように、足を止めた。
「共通テスト当日、玄関出る前に、これ見て気合い入れてな」
ことねが、そう言って、スマホの画面を見せた。
そこには、初詣で撮った、九人での集合写真が表示されていた。
「……分かりました」
「絶対だよ」
「約束します」
朔が、そう答えると、ことねは、満足そうに頷いた。
「門まで送ります」
「大丈夫、すぐそこだから」
「……そうですか」
朔が、少し名残惜しそうに言うと、ことねは、くすりと笑った。
「そんな顔しないで。また連絡するから」
「……はい」
名残惜しさを抑えるように、朔は、小さく頷いた。
ことねが、玄関を離れ、夜道を歩いていく後ろ姿を、朔は、しばらく見送った。
夜道を歩きながら、ことねは、さっきの朔の言葉を、何度も思い返していた。
(あなたがいると、それだけで頑張れる、か)
柄にもないことを言う人だとは、知っていたつもりだった。
それでも、不意打ちのようなその一言に、まだ心臓が落ち着かない。
自分こそ、朔の存在に、どれだけ支えられているか分からない。
受験のプレッシャーに押しつぶされそうになる夜、
彼の落ち着いた声を聞くだけで、不思議と力が抜けることが何度もあった。
模試の結果に一喜一憂して、弱音を吐いた夜も、
朔は、いつも変わらない調子で、静かに話を聞いてくれた。
あの穏やかさに、何度救われてきたか分からない。
(うちも、ちゃんと伝えなあかんな)
いつか、もう少し落ち着いたら。
共通テストが終わったら。
そんな「いつか」を、ことねは、静かに心に留めた。
スマホを取り出し、ことねは、短いメッセージを送った。
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ことね:今日、来てよかった
朔 :僕も、会えて嬉しかったです
ことね:また今度、ゆっくり話そうね
朔 :はい。楽しみにしてます
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画面を閉じて、ことねは、夜空を見上げた。
冬の澄んだ空に、星が、いくつか瞬いている。
残り十日。
二人にとって、正念場の日々が、静かに近づいていた。
部屋に戻った朔は、机の上に、もらったチョコレートと短編集を並べた。
(あなたがいると、それだけで頑張れる、か)
自分で口にした言葉を、もう一度、静かに繰り返してみる。
柄にもないことを言った自覚はあったが、後悔はなかった。
しばらくして、階下から、母の声がした。
「朔、ケーキできたわよ」
朔は、腰を上げ、リビングへ向かった。
小さなケーキに、蝋燭が一本だけ立てられている。
「今年は簡素でごめんね。受験前だから、あまり大袈裟にもできなくて」
母が、少し申し訳なさそうに言った。
「これくらいがちょうどいいよ。ありがとう」
朔が、そう言うと、母は、安心したように笑った。
「毎年、もっと豪華にしたいって思ってるんだけどね」
「気持ちだけで、十分だよ」
「志望校、絶対受かれよ」
父が、ぶっきらぼうに、そう言った。
「……はい。頑張ります」
朔が、そう答えると、父は、それ以上何も言わず、静かに頷いた。
「朔、蝋燭消すの遅いよ」
「……すみません、考え事してました」
からかうように言う母に、朔は、少し照れくさそうに笑い返した。
小さな灯りが、ふっと消える。
部屋の中に、束の間、静かな暗闇が広がった。
家族で囲んだ、ささやかな誕生日ケーキの味を、朔は、しばらく忘れないだろうと思った。
自室に戻り、朔は、机の上に置いたスマホを、もう一度手に取った。
昼間届いた、後輩たちからの祝福のメッセージを、改めて読み返す。
直接会えなくても、それぞれの形で、気にかけてくれる人たちがいる。
去年までの自分なら、こんな賑やかな誕生日を、想像もしていなかった。
勉強一筋で、友人と呼べる相手も限られていた高校生活の中で、
こんなにも多くの人に祝われる日が来るとは、思ってもみなかった。
共通テストという大きな壁が、すぐそこまで迫っている。
それでも、一人で立ち向かっているわけではない。
その事実が、今の朔にとって、何よりの支えだった。
机の引き出しから、クリスマスにもらったお守りを取り出し、
朔は、それを、そっと参考書の上に置いた。
小さな布の感触を、指先で確かめる。
これから十日間、この感触を、何度も思い出すことになるだろう。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
残り十日、この気持ちを支えに、もう少しだけ、頑張れる気がした。
カレンダーの共通テスト当日に、朔は、そっと目を落とした。
あと十日。長いようで、短い日々になるだろう。
朔は、静かに、机に向き直った。
ご一読いただきありがとうございます。
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次回もよろしくお願いします。




