第百三話 12月24日 受験前、最後の贅沢な時間
神保町の古書店街は、冬の午後の光の中で、静かにざわめいていた。
軒先に積まれた均一棚を、コートを着込んだ人々が、思い思いのペースでめくっている。
比叡朔は、待ち合わせ場所の書店の前で、腕時計を見た。
約束の時間まで、あと五分。
(……今日くらいは、勉強のことを忘れましょう。そう言ったのは、僕なのに)
自分から誘っておいて、緊張しているのは滑稽だ、と思う。
それでも、心拍数は、まだ落ち着く気配がなかった。
「朔くん、お待たせ!」
声のする方を見ると、波多野ことねが、小走りでこちらへ来るところだった。
いつものパーカーではなく、白いニットにチェックのマフラーを合わせている。
珍しく気合いの入った格好に、朔は、一瞬言葉を失った。
「……いえ、大丈夫です」
「なにその反応、感想は?」
「……似合ってます」
「素直でよろしい」
ことねが、悪戯っぽく笑って、朔の隣に並んだ。
二人は、どちらからともなく、古書店の通りを歩き出した。
一軒目の均一棚で、朔は、すぐに足を止めた。
漢詩の選集が、他の本に紛れるようにして並んでいる。
「……これ、探してたやつです」
「また漢詩? 朔くん、ほんまにそれ好きやな」
「意味は分からなくても、字面の美しさだけで読める瞬間があるんです」
「うちには一生分からん世界」
ことねが、そう言いながらも、隣で本を覗き込んだ。
「難しそうな字ばっかりやん」
「ここ、読んでみますか。……月落烏啼霜満天」
「なにそれ、呪文?」
「情景描写です。月が落ちて、烏が鳴いて、霜が空いっぱいに満ちている、という」
「……なんか、今日の空みたいやな」
ことねが、ふと空を見上げて、そう言った。
朔は、その一言に、少しだけ驚いた顔をした。
「……波多野さん、意外と、詩心あります」
「意外は余計。うちかて、たまにはしみじみするし」
ことねが、そう言って、朔の肩を軽く小突いた。
「今日くらいは、勉強のことを忘れましょう」
朔が、改めてそう言った。
「珍しいね、朔くんがそんなこと言うの」
「……たまには、僕も」
「うちは大賛成。数学のことなんて、一秒も考えたくない」
ことねが、そう言って、大きく伸びをした。
その様子が、いつもより少しだけ、無理をしているように見えた。
通りの途中、小さな神社の鳥居が見えた。
「寄っていきますか」
「え、こんなとこに神社あったんや」
ことねが、意外そうな顔をした。
境内は、狭いながらも、静かに整えられていた。
参拝客はまばらで、賽銭箱の前に、二人だけの時間が流れた。
「……合格祈願、しとこか」
ことねが、そう言って、財布から小銭を取り出した。
二人は並んで手を合わせ、しばらく目を閉じていた。
「何、お願いした?」
境内を出たところで、ことねが聞いた。
「……秘密です」
「ケチ」
「波多野さんは?」
「うちも秘密」
ことねが、そう言って、少し得意げに笑った。
境内の隅に、おみくじの棚があった。
「引いていきますか」
「引く。今日はもう、勢いで生きる」
ことねが、そう言って、迷わず一本引いた。
「……末吉」
「悪くないですね」
「微妙すぎるって、これ。朔くんは?」
朔が引いたのは、小吉だった。
「一位じゃないだけマシです」
「うちらそろって、パッとせんな」
ことねが、そう言って笑い、結び所に二本並べて結んだ。
「これでよし。あとは実力」
通りをさらに進んだ先に、観葉植物を扱う小さな店があった。
朔の足が、自然とそちらへ向いた。
「朔くん、また植物の店……」
「少しだけ、見せてください」
店内には、小ぶりの鉢植えが、種類ごとに並んでいた。
朔は、その一つ一つを、真剣な目で見比べている。
「なんでそんな真剣なん」
「……葉の形が、少しずつ違うので」
「うちには全部同じに見える」
ことねが、そう言いながらも、朔の隣で一緒に鉢を覗き込んだ。
「これは、パキラです。挿し木でも増やしやすくて、初心者向けです」
「詳しいなあ、ほんまに」
「祖母の家に、昔からたくさんあって。放課後、水やりを手伝ってたので」
「そんな一面、初めて聞いた」
ことねが、少し意外そうな顔をした。
「言う機会が、なかっただけです」
「今度、もっと聞かせて。……植物のことも、朔くんのことも」
ことねが、そう言うと、朔は、少しだけ言葉に詰まった。
「……はい。……波多野さんのことも、もっと知りたいです」
短く、それだけ答えるのが、精一杯だった。
「今のセリフ、朔くんにしては、結構がんばったな」
「……自分でも、驚いてます」
朔はそう述べ、観葉植物から目線を離した。
「これ、受験終わったら、部屋に置こうと思います」
「今から?」
「今のうちに決めておかないと、当日まで悩む気がして」
朔が、そう言うと、ことねは、少し笑って、その小さな鉢植えを手に取った。
「じゃあ、これ、うちからのプレゼント第一弾ってことで」
「……いいんですか」
「今日だけ特別」
ことねが、そう言って、レジへ向かった。
夕方、二人は、駅の近くの小さな喫茶店に入った。
窓際の席から、通りのイルミネーションが見える。
向かいに座ったことねの顔を、朔は、さりげなく観察した。
いつもの快活な表情の下に、目の下の薄い隈が、うっすらと見えていた。
部活と受験勉強を両立させている疲れが、隠しきれていない。
「……今年は、必死すぎて余裕ないわ」
ことねが、コーヒーカップを両手で包みながら、ぽつりと言った。
「珍しいですね、波多野さんがそんな弱音」
「珍しいついでに、もう一個言っていい?」
「はい」
「模試の判定、あんまりよくない」
ことねが、そう言って、視線を落とした。
いつもの明るいテンポが、少しだけ、鳴りをひそめていた。
「……大丈夫です」
朔が、静かに言った。
「そんな根拠のない励まし、いらんよ」
「根拠なら、あります」
朔が、まっすぐ、ことねを見た。
「波多野さんが、この一年、誰よりも真面目に、部活と両立しながら勉強してきたのを、僕はずっと見てきました。結果は、まだ分かりません。でも、今の努力が無駄になることは、ないと思います」
ことねは、しばらく何も言わなかった。
窓の外を、家族連れが楽しそうに通り過ぎていく。
その音が、やけに遠く聞こえた。
「……テニス部の後輩に、頼られてばっかりで。先輩やから、弱音なんて吐けへんし」
「知ってます」
「うちが、こんな顔してるの、朔くんにしか見せてない気がする」
「……光栄です」
朔が、そう言うと、ことねは、少しだけ目を潤ませた。
「泣くほどのことちゃうやん、これ」
ことねが、自分で自分に突っ込むように、そう言って笑った。
「……朔くん、たまにそういう、まっすぐなこと言うよね」
「……珍しく」
「うん。珍しく、キュンとした」
ことねが、そう言って、照れ隠しのように笑った。
朔は、思わず、目を逸らした。
「……ことねさん」
口をついて出た呼び方に、朔自身が、一番驚いていた。
「え、今、なんて呼んだ?」
ことねが、目を丸くして、身を乗り出した。
「……その、そろそろ、いいかと思って」
朔が、少し早口になりながら、そう答えた。
「波多野さんじゃなくて、ことねさん?」
「……はい」
「いつから考えてたん、それ」
「……夏くらいから、です」
「遅い」
ことねが、そう言って、噴き出すように笑った。
それでも、その声は、いつもより少しだけ、嬉しそうに弾んでいた。
「今日、朔くんと会えてよかった」
ことねが、ふと、そう言った。
「……僕もです」
「央たちも、今頃デートしてるんやろなあ」
ことねが、少し悪戯っぽく笑って言った。
「気になりますか」
「気になるっていうか……あの二人、去年の今頃はまだ何もなかったのに、ここまで来たんやなあって、なんか感慨深い」
「……分かります、その感覚」
朔が、静かに頷いた。
「うちらも、案外そうやったな。最初は、ただの同級生やったのに」
「……はい」
朔は、それだけ答えて、視線を、少しだけことねから逸らした。
「じゃあ、うちも、朔くんのままでいいん?」
「……はい。それは、変えなくていいです」
「なんでうちだけ変えるん、それ」
「……ことねさんは、変えなくても、もう十分近いので」
朔が、そう言うと、ことねは、少しだけ頬を赤くして、コーヒーカップに視線を戻した。
「……ずるいな、朔くん」
「何がですか」
「そういう、不意打ちみたいなの、たまに言うところ」
「意図的では、ないです」
「それが一番、ずるいって言うてるの」
ことねが、そう言って、少し拗ねたように頬を膨らませた。
朔は、その表情を、なるべく顔に出さないよう、内心で目に焼き付けていた。
しばらくの沈黙のあと、朔が、鞄から小さな包みを取り出した。
「これ、渡しておきます」
「なに、改まって」
包みの中身は、シンプルな意匠のお守りだった。
「……お守り?」
「形は違いますが、中身は文房具屋のお守りモチーフのペン立てです。験担ぎに」
「かわいい。……ありがとう」
ことねが、そう言って、包みを大事そうに鞄にしまった。
「うちからも、渡すもの、あるから」
ことねが取り出したのは、上質な万年筆だった。
「これ、二次試験の記述、こういうので書くと落ち着くって言うやん」
「……いいんですか、こんなに」
「今日だけ特別、って言ったやろ」
ことねが、そう言って、悪戯っぽく笑った。
「実はな、店員さんに『受験生の彼氏に』って言うたら、めっちゃ真剣に選んでくれてん」
「……彼氏、って言ったんですか」
「言うたらあかんかった?」
「……いえ。嬉しいです」
朔が、少し照れくさそうに言うと、ことねは、満足げに笑った。
朔は、その万年筆を、しばらく手の中で確かめるように眺めた。
「大事に使います」
「うん。……あ、そや」
ことねが、思い出したように付け加えた。
「合格したら、その万年筆で、うちに手紙書いてな」
「手紙、ですか」
「メールとかLINEやなくて、ちゃんとした手紙。柄にもなく、そういうのに憧れてん」
「……分かりました。約束します」
朔が、そう答えると、ことねは、少しだけ目を細めて笑った。
窓の外では、クリスマスイブの街の光が、通り過ぎる人々を、次々と照らしていた。
「……二人とも、志望校に受かったら、また来年ここに来ましょう」
朔が、ふと、そう言った。
「約束な」
ことねが、そう言って、小指を差し出した。
朔は、少し戸惑いながらも、その指に、自分の小指を絡めた。
「……子供っぽいですよ、これ」
「たまにはええやん」
ことねが、そう言って、満足そうに笑った。
「来年の今日、うちら、どこの大学生になってるんやろな」
「……分かりません。それでも、隣にいてほしいとは、思います」
「今、それ言う?」
ことねが、驚いたように目を見開いた。
「……勢いです」
「勢いでそんなん言わんといて。心臓に悪い」
ことねが、そう言いながらも、口元は緩んでいた。
受験まで、あと一ヶ月弱。
それでも、この一日だけは、二人分の、静かな贅沢な時間だった。
喫茶店を出て、駅までの道を、二人はゆっくり歩いた。
ことねの鞄には、鉢植えとお守りが、並んで収まっている。
「今日、ありがとう。……ほんまに、助かった」
「僕こそ。……付き合ってもらって、すみません」
「その言い方、まだ他人行儀」
ことねが、そう言って、少し拗ねたように言った。
「……ことねさん、ありがとうございました」
朔が、言い直すと、ことねは、満足そうに頷いた。
改札の前で、二人は別れた。
その後ろ姿が見えなくなるまで、朔は、その場に立っていた。
家に着いたことねは、鞄から鉢植えとお守りを取り出し、机の上に並べた。
(お守り、か)
小さなペン立てを、指先でそっと撫でる。
スマホが震えた。
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朔 :今日はありがとうございました
朔 :鉢植え、大事に育てます
ことね:うちこそ。ペン立て、二次試験まで使うね
朔 :はい
ことね:……ことねさん呼び、慣れるまで、あと何回言わせる気?
朔 :慣れるまで、言い続けます
ことね:気長やな
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ことねは、その画面を見て、しばらく一人で笑っていた。
朔は、自室の机に鉢植えを置き、その隣に、もらった万年筆をそっと並べた。
(験担ぎ、か)
柄にもないことをしている自覚はあった。
それでも、今日という一日が、これから続く受験勉強の緊張の中で、
小さな支えになる予感があった。
万年筆のキャップを、そっと外してみる。
インクを入れて試し書きをするのは、また今度でいい。
今は、まだこの日の余韻を、指先に留めておきたかった。
窓の外では、クリスマスイブの街の光が、まだ静かに瞬いていた。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




