第百一話 12月16日 最後の追い込みと、隣の受験生
二学期期末テストの一週間前から、教室の空気は変わり始めていた。
黒板の端には、テスト範囲表が貼り出されていた。
休み時間の話題も、いつの間にか、テストのことばかりになっていた。
誰もが、それぞれのやり方で、最後の準備を進めていた。
放課後の図書室には、いつもより多くの生徒が集まっていた。
央とみお、太秦とさやかは、いつもの席で勉強会を開いていた。
「範囲、広すぎないか」
太秦が、教科書を睨みながら言った。
「広くても、やることは同じ」
さやかが、あっさり返した。
「その台詞、テスト前は毎回聞いてる気がする」
「毎回本当だから言ってる」
さやかが、太秦のノートを覗き込んだ。
「この公式、順番間違えてる」
「え、どこ」
「ここ」
さやかが、指で示した。
「マジか。ずっと間違えて覚えてた」
太秦が、少し焦った様子でノートを書き直した。
「テスト前になると、太秦くんの間違いが色々発掘される」
「発掘って言うな」
太秦が、少し不満そうに言った。
「事実でしょ」
「事実だけど、言い方」
太秦が、そう言いながらも、書き直したノートを見直した。
「太秦くんは、毎回同じところで間違える気がする」
さやかが言った。
「同じところ?」
「公式の順番とか、符号のミスとか」
「……言われてみれば」
太秦が、少し考えるように言った。
「弱点が分かってるなら、そこを重点的にやればいい」
さやかが、そう言って、太秦のノートに印をつけた。
「ありがたいような、恥ずかしいような」
「両方でいいと思う」
さやかが、あっさり言った。
央は、みおに数学の問題を教えてもらっていた。
「この解き方、去年よりすんなり分かる気がします」
央が言った。
「……少し、教え方が板についてきましたね」
みおが、少し嬉しそうに言った。
「みおのおかげです」
央が、素直にそう言った。
「そんな、大げさです」
みおが、少し照れたように言った。
「大げさじゃないと思います。分からないところを、的確に説明してくれるので」
「……央さんも、人に教えるのが上手くなってきたと思います」
みおが、そう返した。
「そうでしょうか」
「はい。慧くんに教えていた経験も、活きているんだと思います」
みおが、そう言った。
慧の成績が、少しずつ上がっていることは、宇陀さんから聞いていた。
あの頃の教え方の積み重ねが、今のみおへの説明にも、繋がっている気がした。
「慧くん、最近はどうしてるんでしょうか」
みおが、ふと聞いた。
「一年生も、今頃テストに追われてると思います」
「そうですね。……頑張ってるといいですが」
みおが、そう言って、少し窓の外を見た。
「ほのかさんも、一緒に頑張ってると思います」
「はい。二人とも、応援したいですね」
みおが、そう言って、小さく微笑んだ。
太秦が、その会話に割り込んできた。
「慧くん、この前LINEで『数学、赤点じゃなくなった』って自慢してきたぞ」
「それは、良いことですね」
みおが、嬉しそうに言った。
「あいつ、地味に成長してるよな」
太秦が、しみじみと言った。
「地味にって、失礼だと思う」
さやかが、横から突っ込んだ。
「褒めてるんだよ、これでも」
太秦が、そう言って、また教科書に向き直った。
図書室の奥の席に、朔の姿があった。
参考書と過去問を積み上げて、黙々とペンを動かしている。
声をかけるのも憚られるような、集中した空気があった。
「朔先輩、すごい集中力ですね」
太秦が、小声で言った。
「共通テストまで、あと一ヶ月ちょっとです」
央が言った。
「そう考えると、俺たちのテストなんて、まだ余裕あるよな」
太秦が、そう言って、少し反省したような顔をした。
「余裕があるなら、その分ちゃんと勉強してほしい」
さやかが、すかさず言った。
「してるだろ、今」
「してるならいい」
さやかが、そう言って、また自分の参考書に向き直った。
そこへ、ことねが図書室に入ってきた。
朔の隣に座り、小さく声をかけている様子が見えた。
朔が顔を上げ、少しだけ表情を緩めるのが見えた。
二人のやりとりは短く、ことねはすぐに立ち上がった。
朔は、また参考書に視線を戻した。
しばらくして、ことねがこちらのテーブルにやってきた。
「みんな、勉強会?」
「はい。期末テスト前なので」
みおが答えた。
「懐かしいな、そういうの」
ことねが、少し遠い目をして言った。
「ことねさんも、去年はやってたんですか」
みおが聞いた。
「やってた。……今年は、それどころじゃないけど」
ことねが、そう言って、小さくため息をついた。
「今年は必死すぎて余裕ない」
ことねが、珍しく弱音をこぼした。
「……ことねさんも、そういう顔するんですね」
みおが、少し驚いたように言った。
「するよ。人間だもん」
ことねが、少し力なく笑った。
「朔先輩、大丈夫そうですか」
央が聞いた。
「大丈夫かどうかは、本人にしか分からない。でも、頑張ってるのは、見てて分かる」
ことねが、そう言って、朔の方を振り返った。
朔は、相変わらず、参考書に向かって集中していた。
「わたしにできることは、あんまりないんだけどね」
ことねが、少し寂しそうに言った。
「隣にいるだけでも、意味があると思います」
みおが、静かにそう言った。
ことねが、その言葉に、少し目を丸くした。
「……ありがとう」
ことねが、そう言って、小さく笑った。
「わたしたちにも、何か手伝えることがあれば言ってください」
みおが、そう続けた。
「気持ちだけで十分。ありがとう」
ことねが、そう言って、また朔の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、みおが、小さく呟いた。
「……ことねさんも、大変なんですね」
「そうですね」
央が、静かに答えた。
「わたしたちにできることは、少ないかもしれませんが」
「はい」
「せめて、応援だけは、ちゃんとしたいですね」
みおが、そう言った。
「そうですね」
央も、同じ気持ちだった。
央たちは、その後ろ姿を、しばらく見ていた。
「先輩たち、大変な時期なんだな」
太秦が、ぽつりと言った。
「うちらも、いつかああなるのかな」
さやかが言った。
「三年になったら、そうなるだろうな」
「今から想像つかない」
さやかが、そう言って、少し複雑な顔をした。
その夜、グループLINEが動いた。
───────────────────────
ほのか:先輩たち、期末テストですか?
太秦:そう。今週いっぱい
慧:頑張ってください
みお:慧くんとほのかさんも、テスト期間ですか?
ほのか:来週からです
慧:範囲、まだ全部終わってません
太秦:早めにやっとけよ
慧:分かってます……
ことね:受験組から見ると、みんな眩しい
朔:僕もそう思います
───────────────────────
太秦が、その画面を見て、少し笑った。
「先輩たちに『眩しい』って言われると、変な気分だな」
「立場によって、見え方が違うんだと思う」
さやかが言った。
テスト当日までの数日間は、あっという間に過ぎていった。
央たちも、それぞれのペースで、最後の追い込みをかけた。
太秦は、間違えていた公式を、何度も書き直して覚え直した。
さやかは、いつも通り几帳面に、範囲表を一つずつ潰していった。
みおは、央に教えながら、自分の理解も深めていった。
図書室では、朔の姿を、その後も何度か見かけた。
いつも同じ席で、いつも同じように、黙々と参考書に向かっていた。
時折、ことねが顔を出しては、短い言葉を交わして、また離れていった。
ある日、央が返却本を棚に戻していると、朔と目が合った。
「央さん」
朔が、珍しく声をかけてきた。
「はい」
「テスト、頑張ってください」
朔が、そう言って、少しだけ微笑んだ。
「朔さんも、頑張ってください」
「ありがとうございます」
朔は、そう言って、また参考書に視線を戻した。
短いやりとりだったが、央は、その言葉を、しばらく覚えておこうと思った。
その様子を見るたびに、央は、二人なりの支え方があるのだと感じた。
派手ではないが、確かな距離感だった。
テスト初日、教室にはいつもと違う緊張感が漂っていた。
「一限、何科目だっけ」
太秦が、開始直前に聞いた。
「現代文でしょ、確認したじゃん」
さやかが、あきれたように言った。
「確認したはずなんだけどな」
太秦が、そう言いながら、教科書をしまった。
「太秦くん、それ、毎回聞いてる」
「毎回本当に忘れるんだよ」
「忘れるってことは、覚える気がないってこと」
さやかが、きっぱり言った。
「そんなことないと思う、たぶん」
太秦が、自信なさげに答えた。
みおは、央の方をちらりと見て、小さく頷いた。
央も、同じように頷き返した。
言葉はなかったが、それで十分だった。
テストは、三日間にわたって行われた。
毎日、放課後にはお互いの手応えを話し合った。
「今日の数学、思ったより解けた」
太秦が、初日の帰りに言った。
「珍しい」
「珍しいって言うな」
太秦が、少し不満そうに言った。
「褒めてるんだよ、これでも」
さやかが、太秦の口癖を真似て言った。
「それ、さっき俺が言ったやつ」
太秦が、思わず突っ込んだ。
二日目の帰り、みおが少し疲れた顔をしていた。
「大丈夫ですか」
央が聞いた。
「はい。……少し、集中しすぎたかもしれません」
「無理はしないでください」
「央さんこそ、無理していませんか」
みおが、聞き返した。
「していません。……たぶん」
「たぶん、ですか」
みおが、少し笑った。
二人は、そのまま並んで歩いた。
テストの疲れも、こうして話しながら歩くと、少しずつ和らいでいく気がした。
テスト最終日、最後の科目が終わると、教室に安堵の空気が流れた。
「終わった~」
太秦が、大きく伸びをしながら言った。
「お疲れ様」
さやかが言った。
「冬休みまで、あと少しだな」
「うん。冬休みまで、あと少し」
さやかが、そう繰り返した。
「今年の冬休み、なんか特別な感じがする」
太秦が、ふと言った。
「特別って?」
さやかが聞いた。
「クリスマスとか、正月とか、色々あるだろ」
「毎年あることだと思う」
「毎年あるけど、今年は、なんか違う気がするんだよ」
太秦が、うまく言葉にできない様子で言った。
「太秦くんも、何か予定でもあるの」
さやかが聞いた。
「まだ決まってない。……けど、なんとなく」
「なんとなく、で終わるの?」
「なんとなくとしか言いようがない」
太秦が、そう言って、頭をかいた。
さやかは、それ以上追及せず、少し笑っただけだった。
央は、その会話を聞きながら、図書室での朔の姿を、少しだけ思い出した。
自分たちのテストが終わっても、朔たちの戦いは、まだ続いている。
共通テストまで、あと一ヶ月。
(何かできることが、あるだろうか)
央は、そう思いながら、荷物をまとめた。
「央さん、帰りましょうか」
みおが、声をかけた。
「はい」
央は、そう答えて、みおと一緒に教室を出た。
冬の澄んだ空気が、二人を包んだ。
テストは終わったが、季節はまだ、冬の真ん中だった。
「今日のテスト、どうでしたか」
みおが聞いた。
「まあまあだったと思います。……みおのおかげです」
「また、それを言うんですか」
みおが、少し呆れたように、でも嬉しそうに言った。
「本当のことなので」
「……ありがとうございます」
みおが、そう言って、小さく笑った。
昇降口を出ると、太秦とさやかが、少し先を歩いていた。
冬休みの予定について、何か話しているようだった。
「二人とも、楽しそうですね」
みおが言った。
「そうですね」
「わたしたちも、冬休みの予定、考えないといけませんね」
みおが、そう言って、少し央の顔を見た。
「……そうですね」
央は、少しだけ、その言葉に含まれる意味を、考えた。
「何か、行きたいところとかありますか」
央が聞いた。
「……まだ、はっきりとは。央さんは?」
「同じです。でも、考えておきます」
「はい。わたしも、考えておきます」
みおが、そう言って、少し笑った。
駅までの道を、二人はゆっくり歩いた。
テストが終わった解放感と、これから始まる冬休みへの期待が、
少しずつ混ざり合っているような気がした。
クリスマスまで、あと一週間ちょっと。
新しい年に向けて、色々なことが、少しずつ動き始めていた。
図書室の窓から差し込む冬の光が、今日も静かに、朔の机を照らしているはずだった。
央とみおは、そんなことを思いながら、それぞれの家路についた。
冬休みが始まるまで、あと少し。
それまでの数日間も、大切に過ごしたいと、央は思った。
冬の夕暮れが、二人の帰り道を、静かに照らしていた。
テストという一つの区切りを終えて、また新しい季節が、静かに近づいていた。
ご一読いただきありがとうございます。
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