3-4
再び好機を広げたものの、旅人の次の打者は凡退し、一点追加で1回裏を終えた。
それから一度、相手にホームランを浴び、逆転を許す。
しかし、負けじと執念で海人のホームランが飛び出し、2―2の同点となった。
それ以降、旅人もエラーをすることなく無難に守備をこなし、打席では単打と四球という結果を残していた。
今は七回裏の攻撃。
おそらく打順は回らないだろう。旅人はベンチで試合を見守っていた。
「試合が、なかなか動かないな。空韻」
「はい。そうですね。どちらも一歩譲らず、といったところでしょうか」
横合いから話しかけてきた谷口に、旅人は答える。
俯瞰的に見た感想を、淡々と口にした。
「……どうですか? 石塚くんは」
そんな中で、旅人が切り出す。
谷口は聞かれることを想定していたのだろう。一切眉を動かさず、腕を組んだ。
「やはり俺が言うと、重く感じてしまうのだろうな。どうにも――」
「それだけ、石塚くんにとって先輩の存在が大きい証拠ではありますけどね」
ここ数週間、話す機会の多かった旅人は、そう返した。
谷口を語る石塚の言葉からは、確かな尊敬が滲んでいた。
「そんな立派なもんじゃないさ……甲子園に出場したことがある、ってだけで持ち上げられてるが、実際はただのベンチだった。……けど――」
旅人は谷口の言葉を遮らず、黙って聞いていた。
「それでも、必死に頑張っていた。そんな自分を、石塚に重ねてしまったんだろうな」
「石塚くんも、先輩に憧れているのは事実だと思います。でも、結局人は、自分以外の何者にもなれない」
「……それも、そうだな」
「だから、先輩ではなく、彼自身ができることを全うする。その意志さえあれば、きっと――」
旅人は、その先を言わなかった。
それは石塚自身が決めることだと、分かっていたからだ。
話しているうちに、攻撃が終わる。
「それじゃ、行ってきます」
「……ああ。あとで石塚に、何か声を掛けてやってくれないか。空韻なら、もっと上手く伝えてくれる気がする」
「俺にできることなんて、限られてますけどね」
そう言いながら、旅人はグラウンドへ戻っていった。
守備につきながら、ふと思考が流れる。
責任とは、背負わされるものではない。
自らの意思で、受け入れるものだ。
そこには、誰にも触れられない透明な壁が存在する。
――そして、あの時逃げたのは、誰でもない。俺自身の意思だった。
旅人は2塁のベースカバーに入り、アウトを奪い取る。
踏みしめたベースの感触が、それを鮮明に思い起こさせた。
3アウトを取り、ベンチへ戻る。
タオルで汗を拭いていると、石塚が飲み物を差し出してきた。
「ありがとう」
「……この調子だと、延長までいきそうだな」
「そうだな。ここからの打席も守備も、より重くなってくるだろう」
石塚の表情は険しさを増す。
それは石塚だけでなく、四年生以外の誰もが、固く口を結んでいた。
旅人は、石塚の隣に腰を下ろす。
「石塚くん、前に『逃げたくない』って言ってたよな。その時点で、答えは出てるんじゃないか?」
石塚は黙り込む。
結ばれた口元からは、言葉にできない思いが溢れていた。
その様子を見て、旅人は続ける。
「ある話をしようか。一度、逃げた者の話を」
石塚は旅人を見る。
視線は逸れていても、耳は確かに向けられていた。
「彼は野球部だった。レギュラーを任され、誰もが期待を寄せていた。けれど――高二の時、すべてが壊れた」
『高二』。
その響きに、石塚は一瞬、肩を震わせる。
「……何が、あったんだ……?」
「石塚くんとは違う。野球のことじゃないでも、もっと決定的に、彼を揺るがす出来事だった」
「そんな中で……そいつは、どうしたんだ?」
「――逃げたんだ。自分の世界、そのすべてから」
旅人は語る。
まるでガラス越しに世界を眺めるように、その目は遠くを見ていた。
ちょうど目の前では、打者が三振したものの、捕手が後逸し、ランナーが一塁へ進んでいた。
「彼は、今も逃げた先にいる。けど、ふとした瞬間に思い出すんだ。――あの時、逃げたんだ、って」
「……やっぱり、苦しいものか……?」
「……苦しいんだろうな。でもそれは、逃げた先で背負ったものだ。その荷を下ろすことは、きっと許されない。他でもない、自分自身に」
石塚の拳が、強く握りしめられる。
そこには、自分がなり得る未来への恐怖があった。
「じゃあ結局……どうすればいいんだ……?逃げても苦しむ。立ち向かっても苦しむ。……そうだろ?」
「そんな時は、選ぶしかない。石塚くん。結果なんて、誰にも分からない。――だから」
旅人は言い淀む。
もっと別の言い方があったのではないかと、一瞬よぎる。
だが、開き直る。
一度逃げた者として、ガラス越しに言葉を投げる。
「――どの道の、後悔がいいか。それを、選ぶしかない」
「……後悔を、選ぶ……か」
石塚はその言葉を噛み締め、反芻する。
語られた過去の重みを、わずかながら受け取っていた。
その様子を見て、旅人は静かに息を吐く。
――俺に言えるのは、ここまでだ。大丈夫だとか、心配ないだとか。そんな綺麗事を言う資格は、俺にはない。
遠くを見つめていると、審判のコールが響いた。
「おい、旅人。行くぞ」
「ああ。じゃあ、石塚くん。行ってくる」
旅人は石塚に背を向け、グラウンドへ走り出す。
その背中は、何かを示すように、ゆっくりと遠ざかっていった。




