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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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10/36

3-5


「海人! そっち行くぞ!」


「有馬! スタートさせんなよ!」


 相手の浅いライトフライを海人は捕り、すぐさまホームへ送球する。


 ランナーはスタートを切らず、逆転は許さなかった。


 ――けれど。


「ここ絶対、死守するぞ!」


「ホームに帰すなよー!」


 試合は9回表。


 1アウト満塁のピンチを招いていた。


 終盤という状況も相まって、緊張は選手だけでなく観客席にまで張り詰めている。


「……すぅ……はぁ……」


 旅人は深く息を吸い、思考を巡らせる。


 相手は六番打者。今日ここまでの印象を加味する。


 ――小技はない。長打も怖いが、今は1点が何よりも重い。


 その最適解。


 旅人の考えと同じく、内野は前進守備を敷く。


 誰もが腰を低く落とし、来るであろう白球を待つ。


 その眼光は鋭く、旅人にとってはどこか懐かしい光景だった。


「――ボール!」


 1球、2球と投げ込まれ、3球目もボール。


 カウントはツー・ワン。


 僅かに吹いた風が、旅人の前髪を揺らす。


 同時に、額から流れ落ちた汗が頬を伝い――顎へ達すると、雫は地面へ落ちた。


 その刹那。


 鈍い音とともに、白球が弾ける。


 1回表と同じ、ショート寄りのセンター前への打球。


 だが、あの時よりも打球は速く、鋭く迫ってきていた。


 ――届くか!?


 旅人は今日の試合で、失われていた感覚を取り戻していた。


 考えるよりも先に体が動く。


 だが、視界の端を横切るランナーの影が映る。


 ――このままじゃ、間に合わない。


 咄嗟の判断だった。


 滑り込むようにスライディングし、その勢いを殺すように体をひねり、飛び上がる。


 ボールの持ち替えはできない。


 グラブに収めたままの白球を、ふわりと浮かせるようにセカンドへ送った。


「――ぐっ!」


 体は地面に打ち付けられ、旅人は呻いた。


 それでも目は、ボールを追い続ける。


 セカンドから、ファーストへ。


「……はぁ……はぁ……」


 判定は――1塁、2塁ともにアウト。


 ダブルプレー。絶体絶命のピンチを脱した。


「うぉおお! 旅人!」


空韻(そらおと)! マジか! すげぇな、ほんと!」


 土に倒れたままの旅人を、仲間たちが囲み、声を上げる。


 外野から駆け寄ってきた海人の手を、旅人は掴んだ。


「大丈夫か、旅人!? すごかったけど、思いっきり打ち付けただろ!」


 旅人は体の感覚を確かめる。


 ――異常は、ない。


「……さぁ。どうだろうな。分からない」


「そうか……」


「まぁ……俺に出番は、ないかもしれないけどな」


 旅人は笑ってそう言った。


 ――その真意に、気付く者はいなかった。


 周囲も、それにつられて笑い出す。


「海人! お前が決めろって言われてるぞ!」


「分かってますって。任せろよ、旅人」


 そのやり取りを耳にしながら、旅人の視線は別の場所を向いていた。


 だが、その視線に気付く者は、誰もいなかった。


ーー



「……旅人」


 励ましを受けながら、旅人はベンチへ戻ってきた。


 先ほどのプレーを見ていた石塚が、すぐさま駆け寄る。


 旅人は石塚の肩に手を置き、体を預けた。


「悪いな……石塚くん。もしかしたら、厳しいかもしれない」


「そんな……じゃあ、誰が……」


 その答えは、口にするまでもなく分かっていた。


 旅人も、それを分かっていた。


 ――それでも、容赦なく言葉にする。


「――石塚くん。頼めないか?」


 その声は歓声にかき消されそうになりながらも、確かに石塚に届いた。


 海人が打席へ向かう準備をしている姿が視界に映る。


「いや……俺は……」


「谷口先輩じゃない。俺の代わりでいい」


「今日まで見てきて思うんだよ……旅人。お前もすごい奴だ。俺なんかが代わりなんて――」


「――言っただろ? 石塚くん」


 それは説明でも、説得でもなかった。


 けれど石塚には、強く響いた。


 旅人は石塚の手を見る。


 岩肌のように固くなった掌。そこに刻まれたマメは、これまでの努力そのものだった。


 そこへ、足音が近づく。


「石塚。お前がどれだけ苦しいか、俺には推し量れない」


 谷口の言葉が、石塚を捉える。


「先輩……」


「でも、俺が任せたいのは――石塚。お前だ」


 それは何よりも、説得力のある言葉だった。


 旅人には言えない、真っ直ぐで強い言葉。


「石塚くん。怖いのは、それだけ真剣な証だ。逃げる理由じゃなく――出る理由は、あるだろ?」


 旅人は、石塚のバットを差し出した。


 ここ数週間、幾度となく見てきた、あのバット。


 刻まれた古傷が、石塚の背を押す。


 石塚の目に力が宿り、バットを受け取った。


「――俺が、出ます。谷口先輩」


「ああ……行ってこい」


 石塚は谷口の目を、真正面から見つめた。

 もう、そこに壁はなかった。


「ありがとな、旅人」


「俺は何もしてないさ。石塚くんの決断だろ?」


 石塚は頷き、グラウンドへ歩み出す。


 その直後。


 打席に立った海人が、甘い球を捉え出塁。


 1アウト1・3塁。

 サヨナラの好機。


 石塚が打席に入る。


 恐怖を背負いながらも、その視線は投手を離さない。


「果たして……どうなるか」


 結果は誰にも分からない。


 ――かつて旅人自身が口にした言葉が、脳裏をよぎる。


「大丈夫だ。あいつの思い切りの良さは、俺が一番よく知ってる」


 谷口の声に宿る、絶対的な信頼。


 旅人は横目でそれを見た。


 気付けば、石塚の背中は、遠く感じられた。


 相手投手が、迷いなく投げ込んだ直球。

 今日一番、走っている球だった。


 だが石塚も、迷わない。


 踏み込み、振り切る。


「上がった!」


「行け行け!」


 空高く舞い上がった白球に、誰もが声を上げる。


 ――だが。


「あっ……」


 誰かの呟きとともに、白球は失速し、レフトのグラブに収まった。


 その瞬間、3塁ランナーがスタートを切る。


「――走れぇぇぇ!」


 谷口の声が、誰よりも大きく響く。


 ホームへの完璧な送球。


 ランナーのスライディング。


 捕手の捕球体勢。


「――果たしたな」


 一瞬の静寂。


「セーフッ! ゲームセット!」


「しゃああああ!」


「彰吾ぉぉお!」


 ベンチも、フィールドも、歓喜に包まれる。


 全員が石塚のもとへ走り出した。


 旅人の隣に、もう谷口の姿はなかった。


 旅人は歓声を背に、遠く先を見つめていた。

 


結末はいつだって劇的じゃない

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