3-5
「海人! そっち行くぞ!」
「有馬! スタートさせんなよ!」
相手の浅いライトフライを海人は捕り、すぐさまホームへ送球する。
ランナーはスタートを切らず、逆転は許さなかった。
――けれど。
「ここ絶対、死守するぞ!」
「ホームに帰すなよー!」
試合は9回表。
1アウト満塁のピンチを招いていた。
終盤という状況も相まって、緊張は選手だけでなく観客席にまで張り詰めている。
「……すぅ……はぁ……」
旅人は深く息を吸い、思考を巡らせる。
相手は六番打者。今日ここまでの印象を加味する。
――小技はない。長打も怖いが、今は1点が何よりも重い。
その最適解。
旅人の考えと同じく、内野は前進守備を敷く。
誰もが腰を低く落とし、来るであろう白球を待つ。
その眼光は鋭く、旅人にとってはどこか懐かしい光景だった。
「――ボール!」
1球、2球と投げ込まれ、3球目もボール。
カウントはツー・ワン。
僅かに吹いた風が、旅人の前髪を揺らす。
同時に、額から流れ落ちた汗が頬を伝い――顎へ達すると、雫は地面へ落ちた。
その刹那。
鈍い音とともに、白球が弾ける。
1回表と同じ、ショート寄りのセンター前への打球。
だが、あの時よりも打球は速く、鋭く迫ってきていた。
――届くか!?
旅人は今日の試合で、失われていた感覚を取り戻していた。
考えるよりも先に体が動く。
だが、視界の端を横切るランナーの影が映る。
――このままじゃ、間に合わない。
咄嗟の判断だった。
滑り込むようにスライディングし、その勢いを殺すように体をひねり、飛び上がる。
ボールの持ち替えはできない。
グラブに収めたままの白球を、ふわりと浮かせるようにセカンドへ送った。
「――ぐっ!」
体は地面に打ち付けられ、旅人は呻いた。
それでも目は、ボールを追い続ける。
セカンドから、ファーストへ。
「……はぁ……はぁ……」
判定は――1塁、2塁ともにアウト。
ダブルプレー。絶体絶命のピンチを脱した。
「うぉおお! 旅人!」
「空韻! マジか! すげぇな、ほんと!」
土に倒れたままの旅人を、仲間たちが囲み、声を上げる。
外野から駆け寄ってきた海人の手を、旅人は掴んだ。
「大丈夫か、旅人!? すごかったけど、思いっきり打ち付けただろ!」
旅人は体の感覚を確かめる。
――異常は、ない。
「……さぁ。どうだろうな。分からない」
「そうか……」
「まぁ……俺に出番は、ないかもしれないけどな」
旅人は笑ってそう言った。
――その真意に、気付く者はいなかった。
周囲も、それにつられて笑い出す。
「海人! お前が決めろって言われてるぞ!」
「分かってますって。任せろよ、旅人」
そのやり取りを耳にしながら、旅人の視線は別の場所を向いていた。
だが、その視線に気付く者は、誰もいなかった。
ーー
「……旅人」
励ましを受けながら、旅人はベンチへ戻ってきた。
先ほどのプレーを見ていた石塚が、すぐさま駆け寄る。
旅人は石塚の肩に手を置き、体を預けた。
「悪いな……石塚くん。もしかしたら、厳しいかもしれない」
「そんな……じゃあ、誰が……」
その答えは、口にするまでもなく分かっていた。
旅人も、それを分かっていた。
――それでも、容赦なく言葉にする。
「――石塚くん。頼めないか?」
その声は歓声にかき消されそうになりながらも、確かに石塚に届いた。
海人が打席へ向かう準備をしている姿が視界に映る。
「いや……俺は……」
「谷口先輩じゃない。俺の代わりでいい」
「今日まで見てきて思うんだよ……旅人。お前もすごい奴だ。俺なんかが代わりなんて――」
「――言っただろ? 石塚くん」
それは説明でも、説得でもなかった。
けれど石塚には、強く響いた。
旅人は石塚の手を見る。
岩肌のように固くなった掌。そこに刻まれたマメは、これまでの努力そのものだった。
そこへ、足音が近づく。
「石塚。お前がどれだけ苦しいか、俺には推し量れない」
谷口の言葉が、石塚を捉える。
「先輩……」
「でも、俺が任せたいのは――石塚。お前だ」
それは何よりも、説得力のある言葉だった。
旅人には言えない、真っ直ぐで強い言葉。
「石塚くん。怖いのは、それだけ真剣な証だ。逃げる理由じゃなく――出る理由は、あるだろ?」
旅人は、石塚のバットを差し出した。
ここ数週間、幾度となく見てきた、あのバット。
刻まれた古傷が、石塚の背を押す。
石塚の目に力が宿り、バットを受け取った。
「――俺が、出ます。谷口先輩」
「ああ……行ってこい」
石塚は谷口の目を、真正面から見つめた。
もう、そこに壁はなかった。
「ありがとな、旅人」
「俺は何もしてないさ。石塚くんの決断だろ?」
石塚は頷き、グラウンドへ歩み出す。
その直後。
打席に立った海人が、甘い球を捉え出塁。
1アウト1・3塁。
サヨナラの好機。
石塚が打席に入る。
恐怖を背負いながらも、その視線は投手を離さない。
「果たして……どうなるか」
結果は誰にも分からない。
――かつて旅人自身が口にした言葉が、脳裏をよぎる。
「大丈夫だ。あいつの思い切りの良さは、俺が一番よく知ってる」
谷口の声に宿る、絶対的な信頼。
旅人は横目でそれを見た。
気付けば、石塚の背中は、遠く感じられた。
相手投手が、迷いなく投げ込んだ直球。
今日一番、走っている球だった。
だが石塚も、迷わない。
踏み込み、振り切る。
「上がった!」
「行け行け!」
空高く舞い上がった白球に、誰もが声を上げる。
――だが。
「あっ……」
誰かの呟きとともに、白球は失速し、レフトのグラブに収まった。
その瞬間、3塁ランナーがスタートを切る。
「――走れぇぇぇ!」
谷口の声が、誰よりも大きく響く。
ホームへの完璧な送球。
ランナーのスライディング。
捕手の捕球体勢。
「――果たしたな」
一瞬の静寂。
「セーフッ! ゲームセット!」
「しゃああああ!」
「彰吾ぉぉお!」
ベンチも、フィールドも、歓喜に包まれる。
全員が石塚のもとへ走り出した。
旅人の隣に、もう谷口の姿はなかった。
旅人は歓声を背に、遠く先を見つめていた。
結末はいつだって劇的じゃない




