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翌日、通い慣れた公園で旅人は待っていた。
腕時計をみやり、近くのベンチに腰を据えた。
待ち合わせている人を思いながら、栞を挟んだ本を開く。
夏目漱石、『こころ』。
指で文字をなぞり、相談者の女性の顔を思い出す。
環境が変われば、関わる人も変わる。
それは生きている以上、避けることはできない。
それでもその中で、人は足掻きながら生きていくしかない。
――人はなぜ、こんなにも複雑なのだろうか。
土を踏みしめる足音に、旅人は本を閉じた。
「お待たせしました、それで……」
「はい、相談の回答を返そうと」
女性の相談者の前に、相談を受けていた会社員の男性。
旅人はベンチへ座るよう促す。
彼は落ち着かない様子で、隣に腰を下ろした。
「あれから、件の新入社員とはどうですか?」
旅人は開口一番に現状を尋ねた。
「変わりは、ありません。むしろ……嫌な感じです。辞める人特有の空気を出しているというか」
「そうですか。少しでもその件について話しましたか?」
「い、いえ」
旅人は彼の方へ向き直り、目を見た。
同じベンチに並んで座っているはずなのに、二人の間には、透明な隔たりがあるように感じられた。
「結論から言います。――もっとその人と向き合い、話すべきです。恐れずに」
男性の表情は変わらなかった。
自分でも分かっていたのだろう。ただ、その一歩が踏み出せなかっただけだ。
「言葉にしなければ伝わりません。察するなんて、そんな器用なことができるなら、最初からこんな状況にはなっていません」
旅人は思う。
人は誰しも、語らない部分を抱えている。
それは嘘ではなく、身を守るための殻のようなものだ。
だが、その殻に閉じこもったままでは、いつか内側から自分を傷つける。
「そうは言っても……相手にその気がなかったら、どうしようもないじゃないですか」
「それは、決めつけです。あなた自身の物差しで、相手を測っているだけだ」
旅人は静かに続けた。
「相手も、あなたと同じなんです。本心を語るのが、怖いだけですよ」
男性は言葉を失い、唇を噛み締めた。
旅人には分かっていた。その恐れも、その先で味わう苦しさも。
「同じだからこそ、分かり合えるはずです。あなたが思うより、ずっと」
男性は何も言わなかった。
けれど、その視線の先には、キャッチボールをする子どもたちの姿が映っていた。
「……言う通りだと思います。分かってたんです、きっと。勇気をもらえました。少し、頑張ってみます」
「はい。また、結果を聞かせてください」
男性は立ち上がり、来た時よりも引き締まった背中で去っていった。
旅人はその背を見送ると、スマホを取り出した。
「仕上げといくか……」
そう呟き、件の新入社員――女性へ電話をかけた。
――
それから一週間後。
旅人は、夜の飲み屋街を歩いていた。
淡い光が、現実と非現実の境目を曖昧にしている。
路地裏の小さな店に入り、軽く会釈をする。
「いらっしゃい。何名様で」
「待ち合わせです」
店内の奥、小さく手を振る二人の元へ向かった。
「お待たせしました」
「待ってましたよ、空韻さん」
会社員の男性と、女性は並んで座っていた。
互いに、以前よりも柔らかな表情をしている。
話し合いの結果、問題は驚くほど簡単に解けた。
牽制し合っていただけだったことに、二人はようやく気づいたのだ。
それでいてどちらも相談所を利用していたことで、むしろ蟠りは一切なくなっていた。
「何も問題なさそうで、良かったです」
「いえ、本当に。話す勇気をもらえました」
「自分もです。あの言葉、忘れません」
旅人は時折振られる話題に相槌を打ちながら、二人のやり取りを眺めていた。
「そういえば、空韻さんっていくつなんですか?」
「25くらいだと思ってました」
旅人は振られた質問に、ハイボールを一口含むと答えた。
「今年で21です」
一瞬、空気が止まった。
すぐに苦笑いが広がる。
「若いのに、すごいですね……」
「その歳で、相談所を……」
旅人は曖昧に笑った。
自分が語れなかった部分に、視線を落とす。
そこから話題は旅人に映った。
叔父から相談所を引き継いだこと、まだ大学生であることを語った。
「じゃあ成人式も最近ですよね」
「懐かしいな。自分はもうそろ10年前になりますよ」
「まぁ……そうですね」
旅人は僅かに目を伏せ曖昧に答える。それからある程度時間が経ち、店員から席の時間だと告げられる。
「そういえば料金は……」
「前に話した通り。あなた方が、思う価値で」
旅人の変わらぬスタンスに二人は笑った。
二人は顔を見合わせ、それぞれの金額を差し出した。
「今日は楽しかったです」
「ありがとうございました。空韻さん」
「またのご利用を」
別れを告げ、旅人は店を出た。
夜の喧騒を抜け、静かな通りを歩く。
火のついたタバコを指に挟み、深く息を吸った。
二人の背中は、もう同じ方向を向いていた。
それを見届ける自分だけが、まだ立ち止まっているような気がした。
吐き出した煙が、夜気に溶けていく。
ガラス越しに世界を見ているような感覚。
触れられそうで、触れられない距離。
灰を落とすと、それは風に散り、どこへ行ったのか分からなくなった。
旅人は、静かに空を見上げた。
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