2-1 相互理解
ガラス越しに、カーテンの隙間から朝の空気が漏れ出してくる。
夜の名残をわずかに含んだ、ひんやりとした匂い。
旅人は自然と目を覚ました。
目覚ましは鳴っていない。それでも、この時間になると身体が勝手に起きる。
身支度を整え、無言で部屋を見渡す。
閾相談所の上に位置する一室。生活感はあるが、どこか仮住まいのような空間だった。
旅人は靴をかかとまでしっかりと履き、玄関口に置かれたものを手に取る。
扉を開け、外へ出た。
「……はぁ」
吐いた息は、朝の空気に溶け込むようだった。
まだ日が昇りきる前、夜と朝の狭間にある時間帯。この空気感が、旅人は好きだった。
世界が目覚めきっていないこの瞬間だけは、自分の輪郭も曖昧になる気がして。
軽く身体をほぐしながら、朝の空気を肺に入れる。
筋肉が温まると、旅人は走り出した。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が少しずつ荒くなる。
すれ違うのは、数人の人影だけ。
やがて、公園に辿り着いた。
朝を告げる太陽が、ようやく姿を見せ始めている。
腕立て、懸垂、腹筋。
慣れた動きで、淡々とこなしていく。
「おはよう。今日もよくやるねぇ」
「おはようございます。……まぁ、日課なもんで」
毎朝のように顔を合わせる年配の男性に挨拶を返す。
短い会話のあと別れると、旅人は周囲を一度見回し、持ってきたものを取り出した。
――使い古され、無数の傷が刻まれた木製のバット。
失い、消えていったものは多い。
それでも、これだけは手放せなかった。
構え、振るう。
風を切る音が、まだ静かな公園に響いた。
無心で、しかし身体に染み付いた動きで、影を振り払うかのようにバットを振り続ける。
――ふと、旅人は動きを止めた。
理由は明確だった。
振るたびに、過去の感触が掌に戻ってくる。
バットを下ろし、深く息を吐く。
日課を終え、帰宅するとシャワーを浴び、着替え、簡単な朝食を取った。
時計を確認し、旅人は階段を降りて事務所へ向かう。
「おはようございます。三枝さん」
「おはよう、旅人くん」
二人はそれぞれ椅子に座り、静かに業務を始めた。
紙の擦れる音と、ペンの音だけが室内に響く。
⸻
「ふう……」
「やっぱり土曜日は、少し忙しいわね」
旅人は短く相槌を打つ。
今日は土曜日。普段抱え込んでいた思いを吐き出しに来る人が多い。
平日は学生が中心だが、土日になると社会人の割合が一気に増える。
皆、似たような疲れを纏っている。
「さっきの人、先送りにしてたけど……いいの?」
三枝が切り出したのは、先ほどまで来ていた会社員の男性の件だった。
旅人は、相談者が出て行った扉を見つめる。
「……自分じゃ判断しきれない話でして。叔父の知り合いに、一度話を聞こうと思います」
即答を避けた判断。
逃げでも、保留でもあるその選択に、旅人自身も小さな違和感を覚えていた。
「いい判断だと思うわ。――あ、こんにちは」
三枝の声が途切れ、鈴の音が鳴る。
扉の向こうには、まだ若く見える女性が立っていた。
「あの……相談、いいですか……?」
「ええ。どうぞ、こちらへ」
忙しさはまだ終わらない。
旅人は気持ちを切り替え、新たな相談者を迎え入れた。
――
「なるほど……」
しばらく話を聞いたあと、旅人は静かに頷いた。
社会人一年目の女性。
表情は落ち着いているが、言葉の端々に不安が滲んでいる。
「もう……辞めたいんです。でも、すぐ逃げる自分にも嫌気が刺して……」
旅人は、女性の視線が床に落ちているのを見ていた。
辞めたい理由よりも、自分を責める言葉の方が多い。
「仕事そのものというより……人付き合いに疲れてしまって。上司と、どう接すればいいのか……」
旅人は、感情を挟まず、静かに聞き続ける。
「例えば、どんなことで……?」
促すと、女性はぽつりぽつりと語り始めた。
失敗しても叱られず、慰められもせず、ただ難しい表情で見られるだけだという。
「……何を考えているのか、分からなくて」
その言葉に、旅人の中で何かが繋がった。
「失礼ですが……上司の方の名前を、伺ってもいいですか」
「え? あ、はい――」
名前を聞いた瞬間、旅人は確信に近いものを覚えた。
女性を一度帰し、預かった連絡先を手に取る。
スマートフォンを取り出し、記憶に残っていた番号へと発信した。
「もしもし。閾相談所の、空韻です」
言葉にされていなかっただけで、答えはすぐ近くにあった。
旅人は、ある人物と短い約束を交わし、静かに通話を終えた。
画面を閉じたスマホが、手の中でわずかに温かかった。




