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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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1-2


次の日。旅人は講義の予定もなく、大学に顔を出していた。


 何気なく学内を歩き、普段は足を向けることのないサークル棟へと向かう。


 古びた鉄筋造りの建物。


 サークル仲間たちと和気藹々と話す学生たちが、旅人の横を通り過ぎていく。


 その先には、テニスコートがあった。


 楽しげな声が、遠くからでも響いている。


「はっしー! いい球じゃん」


「あざーっす。もう一回やりましょうよ」


 いくつも並ぶコートの一角で、ラリーが続いていた。


 そこに橋本の姿があった。昨日の様子とは裏腹に、はきはきと声を張り上げている。


 旅人はフェンス越しに、その光景を眺めていた。


 木陰の、湿り気を帯びた涼しい空気の中で、ただじっと。


 橋本は多くのサークル仲間と自然に言葉を交わし、笑い合っていた。


 練習が終わり、片づけに入っても、その場の熱はなかなか冷めなかった。


「橋本、今日飲み行くけど、来るか?」


「もちろんっす。あと誰が来るんすか」


 そのやり取りを最後に、旅人はその場を離れた。

 サークル棟の壁に体を預け、時を待つ。


「今日も楽しかったな。橋本も、ずいぶん慣れたみたいだしな」


「最初は、少し静かなやつだと思ってたけどな」


 橋本の先輩らしき者たちの声が、近くで聞こえる。


 旅人は身じろぎもせず、その会話に耳を傾けていた。


「最近、調子よさそうだしな。あいつ、悩み事とかあんのかね」


「さあな。ただ、あの様子じゃなさそうだけど」


「確かに」


 その言葉を最後に、彼らはサークル棟の中へと戻っていった。


「……悩みがなさそう、か」


 目に見えるものが、すべてではない。

 旅人はそのことを、確かに知っていた。


 ――


 さらに次の日。

 旅人は、大学から数駅離れたカフェにいた。


「コーヒーを一つ」


「はい、四百二十円です」


 支払いを終え、トレーを手にカウンター近くの席へ腰を下ろす。


 パソコンを開き、いつも通りの作業に取りかかる。


 本来は三枝が担当している、ネット相談への返信。

 いくつか届いている相談内容に目を通しながら、ふと店内の様子を窺った。


「いや、やっぱこのバイト先ほんといいな」


「橋本も言うようになったな。まあ、確かに。学生も多いしな」


 昨日と同じように、そこには橋本の姿があった。

 店の制服に身を包み、手の空いた時間に、バイト仲間と小声で話している。


「彼女とか、できそうなのかよ」


「うるせー。サークルでも頑張ってるとこなんだよ」


 軽口を叩き合いながら、橋本は笑う。

 時折入る客の対応も、すっかり慣れた様子でこなしていた。


 旅人は、再びパソコンへと視線を落とす。


 匿名:『悩みのなさそうな人ばかりで羨ましい。私はこんなにも苦しいのに』


 その一文を目にして、旅人はパソコンを閉じた。

 カフェのざわめきが、わずかに遠のく。


 手に取った文庫本を開く。

 太宰治――『人間失格』。


 擦り切れたページの一節が、目に留まる。


 ――恥の多い生涯を送って来ました。


 旅人はその行をなぞるように指で触れ、そっと本を閉じた。


 コーヒーを一口含む。苦味が、静かに舌に残る。


 楽しそうに笑っていた橋本の姿が、脳裏をよぎる。


 悩みがなさそうに見えることと、悩みがないことは、きっと同じではない。


 旅人は、再び静かに席に座り直した。


 ガラス越しの世界を、自分の目で見つめるために。


――


 それから数日後、旅人は相談の回答を返すと、高橋を呼び出した。


 (しきい)相談所に足を運んできた高橋は、以前訪れたときよりも、わずかに前を向いた目をしていた。


 ゆっくりと椅子を引く。脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。


「どうですか。あれからの日々は」


 旅人の問いに、高橋は少し考えるように間を置いてから答えた。


「あ、いや……特に大きく変わったわけじゃないというか。楽しく、やってます」


 その言葉に、旅人は視線を向け直す。


 ガラス越しに差し込む光が強く、無意識に目を細めた。


「あなたの不安は……選択肢が多いからこそ、生まれているものです」

 

「選択肢が、多い?」


 旅人はここ数日で見てきた高橋の姿を思い返す。


 笑っている顔。輪の中にいる姿。


 どれも嘘ではない。だからこそ、彼を縛っているものの輪郭が、はっきりと見えていた。


「あなたにとって、どれも間違いではない。……でも、全部が正解とも言い切れない」

 

「え、じゃあ俺は……どうすれば……」


 曖昧な言葉に、高橋は眉を寄せる。


 その反応に構わず、旅人は言葉を探すように、少し間を置いた。


「どの道も、間違いじゃないからこそ……正解になりうる。

 逆も、ありますけどね」


 そこで一度、言葉が途切れる。


 旅人自身、その続きを断定できずにいた。


「……だから、後悔しないために。

 あなたが“なりたい自分”に、いちばん近そうな道を……選び続けるしか、ないんだと思います」


「なりたい自分……でも、それって――」


 高橋は小さく笑ったが、その表情はまだ固かった。


 けれど、さきほどまでとは違い、逃げるような気配はなかった。


「問題を先送りにしてるだけじゃ……選んでないのと、変わらないんじゃ……」


 その言葉に、旅人は一瞬だけ息を詰める。


 胸の奥に、鈍い痛みが走った。

 まるで自分自身に向けられた言葉のようで。


 だが、それを悟らせないよう、コーヒーを一口含む。


「……確かに、そういう場合もあります」


 カップを置き、視線を戻す。


「ただ、先送りにしていいものと……してしまうと、取り返しがつかないものがある。

 あなたの迷いは……今のところ、前者です」


 高橋は黙って聞いている。


 その目は真剣で、逃げ場を探していなかった。


「大いに迷って、悩んでください。

 ……その分だけ、見える景色は増えます」


 旅人は一瞬だけ視線を落とし、また高橋を見る。


「あなたのなりたい自分は……どんな姿ですか」


 高橋は目を閉じ、考える。

 沈黙が落ちる。


 旅人はその時間を遮らず、ただ待った。


 透明な壁が、二人の間にあるようで、しかし以前よりも薄く感じられた。


「……まだ、分かりません」


 歪んだ表情でそう言う高橋に、旅人は遠くを見るような目で、わずかに笑った。


「今は……それでいいんです。

 迷い続ける中で、いつか輪郭が見えてきます」


 きっとこの先、高橋にも多くの壁が立ちはだかるだろう。


 それでも、彼は立ち止まれる。

 そう思えた。


「そう言われても……やっぱり不安は残ります、ね」

「当然です。

 ……それでも、自分を疑い続けないことが、大事です」


 今の彼に、疑う理由はない。


 旅人の言葉に、高橋は静かに耳を傾けていた。


「なんか……遠い先の話みたいですね。でも……探してみます。

 ありがとうございます。少し、楽になりました」


 高橋はそう言って、穏やかに目を細めた。


 先ほどまで落ち着きなく動いていた指先に、もう震えはなかった。


 それが、旅人にはひどく眩しく映る。


 明確な答えを与えたわけではない。

 それでも――


「……ただ、背中を押しただけです」


 そう思えたのは、高橋自身の強さだろう。


「本当に、ありがとうございました。あの……料金は……」


 椅子を引き、立ち上がった高橋が頭を下げる。


 旅人は一瞥し、肩の力を抜いてから口を開いた。


「値段は……あなたが決めてください」


「え?」


「言いましたよね。その悩みの重さは、人それぞれです。

 こちらが、勝手に価値をつけるものじゃない」


 それが、この相談所のスタンスだった。


 高橋はしばらく呆然としていたが、やがて苦笑し、財布を開く。


「……いい商売ですね。今月きついのに」


 その言葉に、嫌味はなかった。


「またのご利用を、お待ちしてます」


 背を向けて出ていく高橋を、旅人は黙って見送った。


 静まり返った相談所。


 ソファに腰を下ろし、パソコンを開く。

 視界の端から、灰皿が差し出された。


「ありがとうございます、三枝さん」

 

「内容以上に……あなたには堪えたんじゃない?」


 火を点け、一息つく旅人に、三枝は静かに笑う。


「取り返せるものと、そうでないもの……。旅人くんらしい言い方ね。

 表だけしか、話してないじゃない」


「……今の彼に、裏側は必要ありません」


 指先で煙草を軽く叩く。


 落ちる灰を、旅人はぼんやりと見つめた。

 ひらひらと舞うそれが、妙に頼りなく感じられる。


「その仕草、兼親さんに似てきたわね」


 そう言い残し、三枝は仕事に戻っていった。


 旅人は追わず、画面に向き直る。


匿名:『悩みのなさそうな人ばかりで羨ましい。私はこんなにも苦しいのに』


 煙草を灰皿に置き、キーボードに指を乗せる。


返信:『見えている世界は、人それぞれです。他人の世界を、あなたは一部しか見ることができない。

あなたの世界も、他の人には見えません。見えない壁を破り、自分の目を広げて――』


 そこで、指が止まった。


 その言葉は、画面の向こうではなく、自分自身に向けられている気がしたからだ。


 ソファに体を預け、短くなった煙草を見つめる。


「叔父さん……俺は、本当に……自分の目を、持てているのかな」


 答えは返らない。


 静まり返った相談所は、世界の外に置き去りにされたようで、

 透明な壁に隔てられた空間は、ひどく虚しかった。

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