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次の日。旅人は講義の予定もなく、大学に顔を出していた。
何気なく学内を歩き、普段は足を向けることのないサークル棟へと向かう。
古びた鉄筋造りの建物。
サークル仲間たちと和気藹々と話す学生たちが、旅人の横を通り過ぎていく。
その先には、テニスコートがあった。
楽しげな声が、遠くからでも響いている。
「はっしー! いい球じゃん」
「あざーっす。もう一回やりましょうよ」
いくつも並ぶコートの一角で、ラリーが続いていた。
そこに橋本の姿があった。昨日の様子とは裏腹に、はきはきと声を張り上げている。
旅人はフェンス越しに、その光景を眺めていた。
木陰の、湿り気を帯びた涼しい空気の中で、ただじっと。
橋本は多くのサークル仲間と自然に言葉を交わし、笑い合っていた。
練習が終わり、片づけに入っても、その場の熱はなかなか冷めなかった。
「橋本、今日飲み行くけど、来るか?」
「もちろんっす。あと誰が来るんすか」
そのやり取りを最後に、旅人はその場を離れた。
サークル棟の壁に体を預け、時を待つ。
「今日も楽しかったな。橋本も、ずいぶん慣れたみたいだしな」
「最初は、少し静かなやつだと思ってたけどな」
橋本の先輩らしき者たちの声が、近くで聞こえる。
旅人は身じろぎもせず、その会話に耳を傾けていた。
「最近、調子よさそうだしな。あいつ、悩み事とかあんのかね」
「さあな。ただ、あの様子じゃなさそうだけど」
「確かに」
その言葉を最後に、彼らはサークル棟の中へと戻っていった。
「……悩みがなさそう、か」
目に見えるものが、すべてではない。
旅人はそのことを、確かに知っていた。
――
さらに次の日。
旅人は、大学から数駅離れたカフェにいた。
「コーヒーを一つ」
「はい、四百二十円です」
支払いを終え、トレーを手にカウンター近くの席へ腰を下ろす。
パソコンを開き、いつも通りの作業に取りかかる。
本来は三枝が担当している、ネット相談への返信。
いくつか届いている相談内容に目を通しながら、ふと店内の様子を窺った。
「いや、やっぱこのバイト先ほんといいな」
「橋本も言うようになったな。まあ、確かに。学生も多いしな」
昨日と同じように、そこには橋本の姿があった。
店の制服に身を包み、手の空いた時間に、バイト仲間と小声で話している。
「彼女とか、できそうなのかよ」
「うるせー。サークルでも頑張ってるとこなんだよ」
軽口を叩き合いながら、橋本は笑う。
時折入る客の対応も、すっかり慣れた様子でこなしていた。
旅人は、再びパソコンへと視線を落とす。
匿名:『悩みのなさそうな人ばかりで羨ましい。私はこんなにも苦しいのに』
その一文を目にして、旅人はパソコンを閉じた。
カフェのざわめきが、わずかに遠のく。
手に取った文庫本を開く。
太宰治――『人間失格』。
擦り切れたページの一節が、目に留まる。
――恥の多い生涯を送って来ました。
旅人はその行をなぞるように指で触れ、そっと本を閉じた。
コーヒーを一口含む。苦味が、静かに舌に残る。
楽しそうに笑っていた橋本の姿が、脳裏をよぎる。
悩みがなさそうに見えることと、悩みがないことは、きっと同じではない。
旅人は、再び静かに席に座り直した。
ガラス越しの世界を、自分の目で見つめるために。
――
それから数日後、旅人は相談の回答を返すと、高橋を呼び出した。
閾相談所に足を運んできた高橋は、以前訪れたときよりも、わずかに前を向いた目をしていた。
ゆっくりと椅子を引く。脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「どうですか。あれからの日々は」
旅人の問いに、高橋は少し考えるように間を置いてから答えた。
「あ、いや……特に大きく変わったわけじゃないというか。楽しく、やってます」
その言葉に、旅人は視線を向け直す。
ガラス越しに差し込む光が強く、無意識に目を細めた。
「あなたの不安は……選択肢が多いからこそ、生まれているものです」
「選択肢が、多い?」
旅人はここ数日で見てきた高橋の姿を思い返す。
笑っている顔。輪の中にいる姿。
どれも嘘ではない。だからこそ、彼を縛っているものの輪郭が、はっきりと見えていた。
「あなたにとって、どれも間違いではない。……でも、全部が正解とも言い切れない」
「え、じゃあ俺は……どうすれば……」
曖昧な言葉に、高橋は眉を寄せる。
その反応に構わず、旅人は言葉を探すように、少し間を置いた。
「どの道も、間違いじゃないからこそ……正解になりうる。
逆も、ありますけどね」
そこで一度、言葉が途切れる。
旅人自身、その続きを断定できずにいた。
「……だから、後悔しないために。
あなたが“なりたい自分”に、いちばん近そうな道を……選び続けるしか、ないんだと思います」
「なりたい自分……でも、それって――」
高橋は小さく笑ったが、その表情はまだ固かった。
けれど、さきほどまでとは違い、逃げるような気配はなかった。
「問題を先送りにしてるだけじゃ……選んでないのと、変わらないんじゃ……」
その言葉に、旅人は一瞬だけ息を詰める。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
まるで自分自身に向けられた言葉のようで。
だが、それを悟らせないよう、コーヒーを一口含む。
「……確かに、そういう場合もあります」
カップを置き、視線を戻す。
「ただ、先送りにしていいものと……してしまうと、取り返しがつかないものがある。
あなたの迷いは……今のところ、前者です」
高橋は黙って聞いている。
その目は真剣で、逃げ場を探していなかった。
「大いに迷って、悩んでください。
……その分だけ、見える景色は増えます」
旅人は一瞬だけ視線を落とし、また高橋を見る。
「あなたのなりたい自分は……どんな姿ですか」
高橋は目を閉じ、考える。
沈黙が落ちる。
旅人はその時間を遮らず、ただ待った。
透明な壁が、二人の間にあるようで、しかし以前よりも薄く感じられた。
「……まだ、分かりません」
歪んだ表情でそう言う高橋に、旅人は遠くを見るような目で、わずかに笑った。
「今は……それでいいんです。
迷い続ける中で、いつか輪郭が見えてきます」
きっとこの先、高橋にも多くの壁が立ちはだかるだろう。
それでも、彼は立ち止まれる。
そう思えた。
「そう言われても……やっぱり不安は残ります、ね」
「当然です。
……それでも、自分を疑い続けないことが、大事です」
今の彼に、疑う理由はない。
旅人の言葉に、高橋は静かに耳を傾けていた。
「なんか……遠い先の話みたいですね。でも……探してみます。
ありがとうございます。少し、楽になりました」
高橋はそう言って、穏やかに目を細めた。
先ほどまで落ち着きなく動いていた指先に、もう震えはなかった。
それが、旅人にはひどく眩しく映る。
明確な答えを与えたわけではない。
それでも――
「……ただ、背中を押しただけです」
そう思えたのは、高橋自身の強さだろう。
「本当に、ありがとうございました。あの……料金は……」
椅子を引き、立ち上がった高橋が頭を下げる。
旅人は一瞥し、肩の力を抜いてから口を開いた。
「値段は……あなたが決めてください」
「え?」
「言いましたよね。その悩みの重さは、人それぞれです。
こちらが、勝手に価値をつけるものじゃない」
それが、この相談所のスタンスだった。
高橋はしばらく呆然としていたが、やがて苦笑し、財布を開く。
「……いい商売ですね。今月きついのに」
その言葉に、嫌味はなかった。
「またのご利用を、お待ちしてます」
背を向けて出ていく高橋を、旅人は黙って見送った。
静まり返った相談所。
ソファに腰を下ろし、パソコンを開く。
視界の端から、灰皿が差し出された。
「ありがとうございます、三枝さん」
「内容以上に……あなたには堪えたんじゃない?」
火を点け、一息つく旅人に、三枝は静かに笑う。
「取り返せるものと、そうでないもの……。旅人くんらしい言い方ね。
表だけしか、話してないじゃない」
「……今の彼に、裏側は必要ありません」
指先で煙草を軽く叩く。
落ちる灰を、旅人はぼんやりと見つめた。
ひらひらと舞うそれが、妙に頼りなく感じられる。
「その仕草、兼親さんに似てきたわね」
そう言い残し、三枝は仕事に戻っていった。
旅人は追わず、画面に向き直る。
匿名:『悩みのなさそうな人ばかりで羨ましい。私はこんなにも苦しいのに』
煙草を灰皿に置き、キーボードに指を乗せる。
返信:『見えている世界は、人それぞれです。他人の世界を、あなたは一部しか見ることができない。
あなたの世界も、他の人には見えません。見えない壁を破り、自分の目を広げて――』
そこで、指が止まった。
その言葉は、画面の向こうではなく、自分自身に向けられている気がしたからだ。
ソファに体を預け、短くなった煙草を見つめる。
「叔父さん……俺は、本当に……自分の目を、持てているのかな」
答えは返らない。
静まり返った相談所は、世界の外に置き去りにされたようで、
透明な壁に隔てられた空間は、ひどく虚しかった。




