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透き通ったガラス越しに  作者: 湘南乃炎


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1-1 名もない不安


 ーー(しきい)相談所。


 扉の鈴を鳴らし、青年は外へと出た。


 名は、空韻旅人(そらおとたびと)


 片耳にイヤホンをつけ、

BUMP OF CHICKENの「ガラスのブルース」


を流しながら、スーツ姿の人波をすり抜けていく。何度も聴いたはずの曲は、今日は旋律だけが耳に残り、言葉はどこか遠かった。


 河川敷を抜け、二十分ほど歩く。


 大学の門をくぐると、昼前の空気がゆるやかに肌に触れた。今の旅人は大学三年生。


 高校の途中、ある出来事をきっかけに、叔父である深谷兼親(ふかやかねちか)のもとで暮らすようになった。


それから、ここに至るまで、彼は特定の場所にも、人にも、深く根を張らずに過ごしてきた。


 講義を受け、昼時になると一人で食堂へ向かう。


 持参した弁当を手に、空いている端の席へ腰を下ろした。


「またそんな質素なもん食ってんのか、旅人」


 向かいの椅子を引き、トレーを置いて座る男がいた。


「海人か。ちゃんと栄養を考えてる」

 

「そうは言ってもよ。米と鶏肉とサラダって。女子かよ」


 からかうように笑うのは、有馬海人(ありまかいと)


 大学の野球部に所属していて、一年の頃から何かと旅人に声をかけてくる男だった。


 素っ気なく返事をしながらも、旅人は特別それを煩わしいとは感じていない。


 海人も気にする様子はなく、カレーを勢いよく口に運ぶ。


「おういやさぁ」

 

「食べ終わってから喋れよ」


 咀嚼しきれないまま無理に飲み込み、海人は続けた。


「なあ、そろそろ野球の試合出る気になったか?」

 

「前にも断ったじゃないか」

 

「でもさ、やっぱもったいねぇよ。あの時のスローイング、忘れらんねぇんだ」


 去年、校内を歩いていた旅人の足元に転がってきた一球。


 かなり距離があったにも関わらず、旅人はそれを苦もなく投げ返した。百メートルを超える距離を、真っ直ぐに。


「昔やってたんだろ? 一回でいいからさ」


 両手を合わせて頼み込む海人に、旅人はため息をついた。


 伸びた前髪越しに、ぼやけた友人の姿を見る。


「依頼なら、受ける」

 

「相談所か……金、ねぇんだよな」


 観念したように海人は笑った。


「じゃあ、本当に必要になった時に頼むわ」

 

「いつもそう言ってるな」


 別れ、講義を終えると帰路につく。

 春先の湿った風が、川の匂いを含んで前髪を揺らした。


 通り沿いの小さな野球グラウンドに、ふと視線が向く。


 だが旅人は足を止めず、そのまま視線を外した。


「ただいま」

 

「おかえり」


 三階建ての建物。生活している場所のその下の階に相談所がある。


 扉を開けると、返事をしたのは三枝静香(さえぐさしずか)だった。


 叔父の代から、この場所を支えていた一人だった。


 カウンター越しに差し出されたコーヒーを受け取り、旅人は一口含む。


 グラスを伝う水滴が、季節の移ろいを静かに知らせていた。


 しばらくして、扉の鈴が鳴る。

 三枝が対応に出た。


「どうされました?」

 

「あの……(しきい)相談所って、ここで合ってますか。大学のポスターを見て……」

 

「はい。こちらへどうぞ」


 案内されたのは、旅人とそう年の変わらない青年だった。


 落ち着かない様子で、向かいの席の前に立ち止まる。


「あの……空韻さん、ですよね」

 

「そうですが」

 

「同じ大学の橋本です。二年です」


 旅人は一瞬だけ相手を見る。


 大学で自分の名がどう扱われているのか、考えないようにしていた。


「座ってください」


 淡々と促し、旅人はグラスを置く。

 そして、いつも通り、ただ淡々と口にした。


「——あなたの世界を、教えてください」


 ――


 「本題はどういったものですか」


 旅人は、緊張で固くなった橋本の肩に目を留めて、問いかけた。


橋本は手元のグラスを取り、一口、唇を濡らす。


「今、すごく楽しいんです。テニスサークルも、バイト自体もすごく充実しているんです」


 内容は一見、何も問題なさそうな話であった。


ただその口調は、言葉とは裏腹に沈んでいるように旅人には見えた。


「それの、何が問題なんですか?」


「だからこそです。このままでいいのか、どっちも中途半端な感じがして……」


 人によっては、ずいぶん贅沢な悩みだと、旅人は思った。


ただ口にはしない。何が悩みかなんて、それは人によって重さが変わる。


「将来を考えると、このまま本当に順調にいくのかと」


 橋本は不安に駆られるように視線を落とした。


旅人は逸らさず、その目を見る。グラスの中で氷が小さく音を立てた。


「よくある話です。でも、よくあるから軽いわけでもない」


 少し間を置いて、旅人は続ける。


「ただ、今この場で答えを出すには早計です。少し様子を見ても?」


 橋本は完全に納得したわけではなさそうだったが、それでも来た時よりは幾分表情を和らげて相談所を後にした。


 扉の鈴が鳴り、室内に静けさが戻る。旅人は使い古された灰皿を自分の前へ引き寄せ、火をつけて、ゆっくり息を吐いた。


「ふぅ……。どう思いますか、三枝さん」


 ソファに身を預けながら、事務作業をしている三枝に声を投げる。


「贅沢な悩みだとは思うけどね。それに、若い子が抱えやすい不安でもあるわ」


「実際のところは、もう少し見てみないと分からないですけど」


「旅人、あなたにわかるかしらね。そういう選べる状況、羨ましいとも思うんじゃない?」


 三枝の言葉に、旅人は返事をしなかった。

 キーボードを叩く音だけが響き、灰が静かに舞う。


「共感はできないですけど。理解は、してみますよ」


 旅人は、ガラス越しに外の景色へと視線を向けた。

 なんでもない日常が、光に滲み、少しだけ違う世界のように見えた。


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