プロローグ
長編2作目です。
生ぬるい目で見てってください
病室の窓から覗く空。
カーテンを揺らして吹き込む風が、横たわる叔父と、俺の頬をそっと撫でた。
叔父にとっては心地よい風だったのだろう。ただ、俺にとってはひどく冷たかった。
吹き込んだ風に、皿に収まっていた灰が舞う。
それを見て、叔父はゆっくりと口を開いた。
「――旅人。道に迷ってもいい。だが、自分の目だけは持てよ」
それが、叔父が俺に向けた最後の言葉だった。
その言葉は、一瞬、世界を隔てるガラスを揺らすように、俺の心に響いた。
窓ガラス越しに陽を受けた叔父は、気持ちよさそうにその瞳を閉じていた。
──
「ほら、こっちだぞー」
とある街の一角。
木に登り、枝の間からそっと声をかける青年がいた。
揺れる木々を掻き分け、ゆっくりと手を伸ばす。
「怖くない。大丈夫だ」
その届かない指先の先で、一匹の猫が体を縮こませ、怯えていた。
青年はぎこちない笑顔を作る。猫はその手から後ずさった。
だが、同時に震えている青年の手を見て、猫は観念したかのように身を委ねた。
「よし……いい子だ」
青年は優しく猫を腕に抱え込み、慎重に幹を伝って降りていく。
地に足が着いた瞬間、青年と猫は、同時に小さく息を吐いた。
次の瞬間、猫は腕から飛び降りる。
「ゆめまる! よかったー。もう登っちゃダメだよ?」
猫は元の場所へ飛び込み、小さく喉を鳴らした。
猫を抱きかかえた少年と、その母親が青年の元へ駆け寄ってくる。
「ありがと。お兄ちゃん」
「本当にありがとうございます。どうお礼をすれば……」
少年はにかっと笑い、猫を抱いたまま頭を下げた。
母親も、何度も頭を下げる。そんなことは気にも留めず、猫は大きなあくびをした。
「お代なら、もう頂きました。パン、美味しかったです」
「ですが、それでは……」
「いいんです。またのご利用、お待ちしてます」
青年はそう言って、静かに頭を下げ、その場を後にした。
少し歩いてから振り返ると、母親はまだ頭を下げていた。
「……俺の本業は、少し違うんだけどな」
道中、青年はぽつりと呟いた。
そのとき、ポケットの中でスマホが鳴る。
画面に映る名前を確認し、すぐに通話に出た。
「はい。空韻です。……三枝さん、どうしました?」
「旅人くん、依頼だよ」
短く返事をし、通話を終える。
止めていた足を、再び前へ出した。
「……さあ、仕事だ」
青年は静かに歩き出した。
―――――
電話を受けた青年は、仕事場へと戻る。
老人が営む喫茶店。その上階にある、小さな事務所。
掲げられた看板には、こう記されていた。
――閾相談所。
かつて、叔父――深谷兼親が営んでいた探偵事務所。
その場所を引き継ぎ、形を変えて始めた相談所だった。
薄暗い階段を上り、扉を開けると鈴が鳴る。
ガラス越しに、くぐもった昼の光が差し込んだ。
部屋の中央には机があり、その向かいのソファには、すでに人が座っている。
青年はその向かいに腰を下ろし、そっと息を吐いた。
「こんにちは。依頼者の方ですね」
青年は名乗る。
「私は、空韻旅人。この相談所の主です」
若い相談所の主を前に、相手は一瞬、息を飲んだように目を見開いた。
横合いから、相談所の補佐である三枝が、二人の前にコーヒーを置く。
湯気が立ち上るのを見つめながら、旅人は口を開いた。
「――あなたの世界を、教えてください」




